35 図書館にて ~皇太子の誘い
本日2回目の投稿です。
アスランから「王女に、お話があります」と改まった口調で話しかけられ、アンジェリカは、別室に通された。
部屋には二人だけだ。アルバーノは扉の外に待機している。どんな内密な話だろうかと身構えながら、アンジェリカは、椅子に腰掛けた。
一回り年上である皇太子は、にこやかでいて目が笑っていない。ガラス玉のように無機質な瞳が、自分の腹を読ませまいとしている。そのくせ鋭く尖った眼光が相手を見透かそう狙っているのだ。佇まいに未来の皇帝に相応しい貫禄があった。
「先ほどは、我が国の者がご無礼を致しました。偶然、目にしましてね。バシュレ公爵家には、私から抗議をしておきましょう」
いきなり謝罪される。ミュリエルとの幼稚なやり取りを見られていたのだ。羞恥でアンジェリカの顔が赤く染まった。
「皇太子殿下が謝罪なさる必要などありませんわ。令嬢たちの単なる噂話です。いちいち相手にするほどのことではございません」
アンジェリカは、あくまで噂話として軽く躱すことにした。このまま剣技大会が無事に終わればそれでいい。厄介事はご免であった。
「そう言っていただけると、こちらも気が楽です」
アスランは愛想笑いを返す。
「私は、少しも気にしておりませんわ。お話はこれだけですか? お気遣いいただきありがとうございます。ではこれで失礼します」
アンジェリカも微笑みを返し、早々に退散しようと腰を浮かした。戻ってシンナと旅の計画を練らなければならないし、大会前の鍛錬もあるので忙しいのだ。それに、なんとなくアスランのことが苦手だった。
「待ってください」
引き止められて、渋々座り直した。
「アルフォンスの件は、気にならないのですか?」
「特に何も思いません」
「私に尋ねることは何もないと?」
「皇帝陛下のお言葉を信じます」
「…………」
アスランのガラスの瞳が、荒波を立てまいと無難に即答する王女を探っていて、なかなか本題を切り出さない。
もったいぶった態度にしびれを切らして、アンジェリカは再び腰を上げた。
「皇太子殿下、私は駆け引きするつもりはありません。率直な話し合いが出来ないのなら、ここまでにしてください」
失礼しますと退室しようとするアンジェリカの背に「もし噂が本当だったとして」と言葉が投げかけられた。
「私の妃になるつもりはありますか?」
アンジェリカの足がピタリと止まった。後ろを向いていたことは幸運だった。衝撃が顔に出ているに違いない。落ち着こうとそっと息を吐く。
「皇太子殿下の愛妻家ぶりは聞き及んでおります。お戯れはおやめください」
「真面目な話です」
「それはつまり、トエ帝国は、正式にアルフォンス様との婚約を破棄したいということですか?」
「いや……あくまで私個人の事情です」
この時初めて、アスランの淡々とした口調が僅かに揺らぎ、ほんの一瞬、焦りのようなものが混じった。
その隙を突くように、アンジェリカは振り向きアスランを睨む。
「殿下の事情に私を巻き込まないでくださいっ!」
きっぱりと否を突きつけると、アスランが怯んだ。無感情だった瞳が大きく見開かれている。よもやこんな小娘に牙をむかれるとは想像していなかったのだろう。
皇太子の仮面が剥がれ、やっと青年らしい顔つきになる。途端、二人の間を隔てる壁がガラガラと崩れていった。
「申し訳ない。最近、側近たちが側妃を娶れとうるさくてね。白い結婚の契約婚なら、王女にも悪い話ではないと思ったんです。ネーブ国との友好の証になるし、いずれ皇妃となれば王女の面目も立つでしょう?」
そう言うことか、とアンジェリカは腑に落ちた。
皇帝になる者が、いつまでも妃一人というわけにはいかない。側近たちからすれば、有力者の令嬢や近隣諸国の王女を娶って地盤を固めたいのだ。しかし、妃を溺愛する皇太子はそれが受け入れられず、一国の王女であり、破談になるかもしれないアンジェリカに目をつけた。
鋭い眼光で、この話を受けるかどうか性格を見極めようとしていたのだ。
(私の面目ですって? ただ自分に都合がいいだけじゃないの)
己の幸せが、他人の犠牲の上に成り立つことに気づきもしない。
怒りのような悲しみが、漫然と込み上げてきた。
「理解出来ません。通常、帝国の皇妃ともなれば、祖国や家門から皇子の誕生を期待されます。その圧力たるや相当なものでしょう。白い結婚では、肩身が狭いはずです。それに私だって女です。夫と愛し合い、いずれ子を生んで家族を持ちたい。幸せになりたいんです」
アンジェリカが本心を明かすと、アスランは益々目を丸くする。
「そう、ですか。王女の口から『愛』とは意外でした。十二歳で政略結婚されたと聞いて、割り切って考える方だと思ったものですから」
「意外? 意外ですか。この世に愛を求めない人がいるでしょうか。嫁ぐ側は、どんなに不安でも頼れるのは夫だけです。なのに愛さないことが条件だと夫に拒絶されたら、何を心の支えにしたらいいのでしょう。妃としてのプライドですか? もし、ご自分の娘の縁談だったら、嫁がせたいと思いますか?」
アンジェリカにしてみれば、皇帝となるべく万全の教育を施されたはずの皇太子が、側妃を娶ることを嫌がる方が意外である。
「愛を求めない人はいない、か。これでは側妃を娶ったところで、相手を不幸にするだけですね。弱ったなぁ」
アスランは、アンジェリカの辛辣な物言いに窮した様子で頭を掻いた。
「ご存知の通り、私は妃を溺愛していてね。他の誰かを愛せそうにない」
その瞬間、はにかんだ笑顔を浮かべる。
(これはノロケ?)
アンジェリカは、真面目に相手をするのが阿呆らしくなった。
「皇帝陛下に相談なさってはいかがですか。妙案があるかもしれません。皇太子殿下が、私の父と同じ失敗をしないよう願っています」
ネーブ国の騒動は、アスランの耳にも入っているはずだ。白い結婚の末に、不義を犯した王妃たちの末路を。
アスランも思うところがあるのか、静かに頷いた。
「ご忠告に感謝します。それから、妹と仲良くしてくれてありがとう」
今の話は忘れて欲しいと言われ、アンジェリカは、今度こそ、扉を開けて部屋を出た。




