34 図書館にて ~ボス令嬢
“姫、なんで『自称恋人』のこと、話さなかったんだ?”
テオがいなくなった後、ユッカが不満げに口を尖らせた。
“私が話さなくても、ロザリア様がご存知だもの”
“ん! それもそうか”
“それにミュリエル嬢はまだ十四歳よ。あれは子どもの喧嘩みたいなものだったわ。突き出すような真似はしたくない”
“姫は、お人好しだ”
“違うの。王妃たちの時みたいに、関係のない人が傷つくんじゃないかと思うと勇気が出ないだけ”
軽はずみに人を断ずることが怖いのだ。暴漢の件は、テオたちがしっかり調査するはずだ。アンジェリカは、余計な首を突っ込むつもりはない。
「奥方様、このあと図書館へ行かれますか?」
テオが視界から消えてアルバーノが尋ねる。彼は護衛の任務中は、いつも空気のように気配を消して見守っている。主人の邪魔をしない絶妙な距離を保ち、それでいて警戒を怠らない。
そんな護衛の護衛をしているシンナも大人しくしている。さすがの師匠も常に寄り添うシキガミの存在に気づく素振りはなかった。
「ええ」
“うん、うん。それがいいわね。調べることもたっくさんあるもの”
先日、やっと図書館の入館許可が下りたので、アンジェリカはこのところ毎日のように周辺諸国について調べている。その国の気候は穏やかなのか、食事は美味しいのか、観光名所はどこなのか、そんなようなことだ。この離宮を出た時のための旅支度である。
“うへぇ、ワシ、散歩してくる”
ユッカは、ふらりとどこかへ遊びに行ってしまった。図書館の、あのシンとした静けさが苦手らしい。
「では、参りましょうか」
アルバーノに先導され、アンジェリカは、のんびりと歩き出す。
図書館は、人もまばらだ。許可のある者しか入館できない上、皆、剣技大会に気を取られて利用者が少ないのだ。お陰でこの数日間は読書に集中出来た。
建物の入口の掲示板にもトーナメント表が張り出されている。出場者を狙った暴漢事件が勃発して以来、何度かの変更があった。
アンジェリカは、最新の対戦表を確認する。アルバーノの対戦相手に変更はなかった。
(あっ!)
入館しようとしたところで足が止まった。ミュリエルに出くわしたのだ。
“嫌な人に会っちゃいました”
「あなた……!」
ミュリエルも同じことを思っているのだろう。嫌悪感を隠そうともしない。
“彼女が『自称恋人』ね。胸、まっ黒じゃない!”
シンナの言う通り、ミュリエルの胸には前に会った時よりも黒い炎が、彼女の激情そのもののように大きく揺らめいていた。
「ごきげんよう、バシュレ公爵令嬢」
「あなた、まだアルフォンス様とお会いしていないんですってね」
挨拶だけして去ろうとすると、不躾に言葉を投げつけられた。
「アルフォンス様は、軍の任務で帝都を離れていらっしゃると皇帝陛下から伺っています」
アンジェリカは、ありのままを答える。
ミュリエルはフンと鼻を鳴らす。勝ち誇ったように口の端上げた。
「アルフォンス様は帝都にいらっしゃるわ。この結婚を嫌ってわざと避けてらっしゃるのよ」
もうそんなことが噂になっているのかとアンジェリカは驚いた。
まだ社交デビューもしていない令嬢の耳に入ってしまうほどの醜聞として広まっているのであれば、アルフォンスと無事に結婚出来たとしても、この国の社交界にアンジェリカの居場所はないだろう。
(凪の精神、凪の精神、凪の………)
アンジェリカは、改めて義父であったドゥッチ侯爵の慧眼に感謝した。たった三年間ではあるが、周囲に敵ばかりだった王女がいずれ侯爵夫人として社交で矢面に立たされた時に備え、泣き寝入りせずに済むように教育してくれたからだ。
そう、たとえばこんなふうに。
「わかりました。バシュレ公爵令嬢は、皇帝陛下を嘘つきだとおっしゃりたいのですね?」
「なっ……ちっ、違うわよ!」
皇帝に対する不敬だと匂わせると、ミュリエルの顔が、心外だと言わんばかりにかぁっと赤くなる。
しかし、そう言うことである。
「あなたも公爵家の人間なら、もう少し考えて行動なさるべきです」
これ以上かかわりたくないので、アンジェリカは「負けないんだから!」という悔しまぎれの叫び声を無視して、さっさと館内に入ることにした。
落ち着いた室内で、本を物色する。一冊選んで手に取った。
トエ帝国は先々代の時代に積極的に領土を広げたので、出国するだけでも大変である。いくつもの領を通り、それぞれに郷土料理や美しい風景がある。全部、味わい尽くしたい。先程のミュリエルとの不愉快なやり取りを忘れ、アンジェリカの胸は躍った。
“アンジーちゃん、その道を通るならちょっと遠回りして、カテナ領の湖も見た~い。トエ帝国最大の湖、しかも塩湖よぉ!”
シンナも、はしゃいでいる。
アンジェリカは、『カテナ領 帝国最大の塩湖 名物は塩パン、塩チョコレート』とノートに書き写す。
“この調子だと、隣国へ行くまでに相当な時間がかかりますね”
“いいじゃないの。急ぐ旅でもなし”
“そうですね。いっそのこと、ソミス山脈の麓まで足を延ばしちゃいましょうか。ヤギのミルクがあるみたいです”
“やった! ユッカが喜ぶわね”
アンジェリカとシンナが念話で盛り上がっている間も、アルバーノは真面目に護衛の任務に集中している。
「師匠は、行きたい場所はありますか?」
小声で話を振ってみる。しかし、能面顔の護衛は首を傾げて「別に」と、にべもない。
「えっ、行ってみたい国とかないんですか?」
「唐突に訊かれても困りますって」
戸惑った様子で答えるアルバーノは、昔訪ねたことのある国の中から、おススメの場所をいくつか挙げた。
アンジェリカは、その情報もノートに記した。
(あとは馬車の手配よねぇ。徒歩ってわけにもいかないし)
などと考えているとアルバーノに動きがあった。
「奥方様……」
言われて顔を上げると、ロザリアに面差しの似た赤毛の青年がやって来るのが見えた。皇太子のアスランである。アンジェリカは、見られないように慌ててノートを閉じた。
ジスラン帝の謁見の際に同席していたので顔は憶えているものの、個人的なやり取りはない。
アンジェリカは、困惑していた。




