28 長い一日 ~東の庭園にて
こちらに近づきながら、くしゃっとした笑顔を浮かべるテオを見て、アンジェリカは、どこか安堵した心地になった。
さっきまで、あれほど冷たく胸を凍らせていた灰色の氷の塊が、じわじわと陽に溶かされて小さくなっていくような。
そんな雰囲気だから、以前、猛獣使いは人間も使役出来るのかと質問したことがある。「さすがにそれは出来ない」とテオは苦笑していたが、陽だまりの暖かさを好むのは、人も動物も同じだ。
つまりテオは、正真正銘の優秀な猛獣使いで、ユッカの言うところの「やっべえヤツ」なのだろう。
「ごめん、待った?」
「ううん。私も、今来たところだったから」
「あれ? ユッカは?」
アンジェリカは、言われて初めて気がついた。急ぐあまり、ユッカを忘れていた。
「い、今、散歩してるみたいで。時々、いなくなるのよね」
それは本当だ。油断するとメイドのおやつを狙って、彼女たちのたまり場をうろついている。
“ユッカ! ユッカ! いる?”
アンジェリカは、念話で呼び掛ける。
“ん? ワシはちゃんといる”
“ごめんなさい。東の庭園に行くのに声を掛けそびれちゃって”
“ん。これ食べ終わったら、そっちに向かう”
どうやら、また何か食べているらしい。朝食をたらふく平らげたというのに、変化の腹は底なしである。
「あれ? その手はどうしたの。ケガでもしたのかい」
アンジェリカの手にハンカチが巻かれているの見て、テオが尋ねる。
「ああ、これ? さっき木刀で素振りをしていたら血豆が出来ちゃったのよ」
「木刀?! 素振り?」
「私、アルバーノに剣を習っているの。最近では、ロザリア様もご一緒してるわ。まだ、本物の剣は持ったことがなくて、木刀の素振りと、あとはコレね」
アンジェリカは手にしていた鉄扇を広げてみせた。一般の扇よりもずいぶんと重たい黒い扇を軽々と扱う仕草に、テオは目を丸くしている。
「鉄扇? なるほど、それでいつも扇が黒いわけだ。だけど、なぜ王女自ら剣術を? アルバーノは優秀な護衛騎士だろう」
「彼は、もともと私の護衛騎士ではないわ」
アンジェリカはそう答えながら、テオとはいつも動物の話ばかりだったことに気づく。
お互いの身の上話をしたことがほとんどない。テオのことも、軍に所属している猛獣使いということくらいしか知らなかった。
猫のユッカと意思疎通が出来る建前で、テイマー同士の他の誰とも共有出来ない話をするのが楽しかったのだ。
アンジェリカは、これがいい機会だとこれまでのことを手短に話すことにした。
「えーっと、私と母は、昔から正妃と側妃から嫌がらせを受けたり、命を狙われたりしていて―――」
母親が殺されてしまい、守り切れないと判断した父王が、当時十二歳のアンジェリカを侯爵家に降嫁させたこと。その家の騎士団長だったアルバーノに、自分の身は自分で守れるようにと教えを乞うたこと。三年後に離婚が申し渡され、結婚自体が無効となっていること。
そして、出戻った王宮で食事に毒が盛られたことや、この国への道中でも野盗に襲われたことを明かした。
「ええっ、そんなに何度も危険な目に遭ってたの?! せっかく安全な侯爵家に降嫁したんだろ? 離婚なんか言い渡されても、受けなきゃよかったのに」
テオは目を剥いた。
「ネーブ国では、婚姻から白い結婚が三年以上続けば、一方的に離縁が出来るの。元夫には好きな女性がいたのよ。人の恋路を邪魔したら悪いでしょ? よかったのよ、これで」
「アンジーは、お人好しだね」
「嫌がる人を繋ぎ止める趣味はないもの。そういう意味では、アルフォンス様にも申し訳ないわね」
「えっ、第八皇子がどうかしたのか?」
「どうやら私との結婚に乗り気じゃないらしいわ。実は、まだ一度もお会いしていないの。傷ものの王女を押しつけられたんですもの。嫌がるのも無理はないわ」
「傷ものって……アンジーは、何も悪くないじゃないか!」
トエ帝国には、白い結婚による離縁がない。アルフォンスからすれば、離婚をなかったことにして、何食わぬ顔で嫁ごうとする厚かましい女に映るのだろう。
「ありがとう。でも、社交界では、私のような女をそう呼ぶことくらい知ってるわ。誤解しないでね、自分を卑下してるわけじゃないの。私は、恥ずかしい生き方はしていないと胸を張れる。ただ、もう誰かのお荷物になるのは嫌なのよね」
「誰かのお荷物だなんて言うなよ。第八皇子が結婚を嫌っているかなんて、わからないじゃないか。会ったことがないんだろう?」
アンジェリカは、静かに首を振る。
「軍の任務を理由に、ずっーと私と会うのを避けていた方よ。アルフォンス様の本心は明白だわ」
「で、でも……」
「それに、いくら私が社交デビュー前でも、皇子の婚約者にお茶会の誘いすらないのも変よね。本来なら、アルフォンス様のお母様であるセリア様や他の皇妃様のお招きがあるものでしょう? きっと結婚の白紙のこともご存知で、歓迎されていないのかもしれないわね」
国賓の王女や令嬢を招く際には、あの意地悪なマリアーナやフランカでさえもお茶会を開いている。そうやって年回りの近い令嬢と親睦を深められるよう配慮していたのを、世情に疎いアンジェリカは、メイドたちの噂話で知っていた。
「そ、それは、ほら、教育期間が終わってからということかもしれないよ?」
テオは、困り顔で眉を八の字に曲げながら、一生懸命に慰めようとしている。優しい人だ。
本当はアンジェリカだって、薄々わかっている。教育期間と称してあの離宮に隔離されているのは、アルフォンス不在の嘘が発覚するのを防ぐためなのだ。
(茶会に出席したら、すぐにバレちゃうものね)
人の口に戸は立てられない。わざと耳に入れようとする者もいるだろう。
そう考えれば、今日までロザリアやメイドなど、特定の者たちとしか交流がなかったのも頷ける。
「そうね。話を聞いてくれてありがとう。なんとなく気持ちの整理がついたわ」
これ以上、愚痴愚痴と不平を並べて楽しい時間を台無しにしたくない。
アンジェリカは、場を盛り立てるように、明るくお礼を言った。
テオが何か言いかけて、口を噤んだ。
沈黙が訪れた。




