23 トエ帝国の教育係
本日2回目の投稿です。
アンジェリカが、トエ帝国に到着して、一か月ほど過ぎた。
あれから、ボルツィ辺境伯に「まあ、こんなもんやろ」と及第点をもらえるくらいの嫁入り支度が大急ぎで調えられ、辺境伯領の兵たちに警護されて帝都入りしたのだ。
ジスラン帝の謁見も済んで、アンジェリカは離宮を与えられ、そこに滞在している。ネーブ国にいた時の簡素なアトリエとは違う。ちゃんとメイドも常駐している立派な建物だ。
皇妃が何人もいるこの国の宮廷では、それぞれに離宮が割り当てられ、皇子皇女たちも自分の宮を持っている。とは言え、八人の皇子のうち三人は属国の王配として婿入りし、三人は総督として地方に赴任している。残っているのは皇太子と第八皇子だけで、皇女たちも末娘のロザリア以外は、既に嫁入りしていて、ここにはいない。
その第八皇子アルフォンスが、アンジェリカの夫となる相手である。ジスランより十ほど年下の寵妃セリアとの間の子で、年は十七歳。他の皇子たちが二十代半ばなので、少し年が離れている。そのせいか、皇帝はアルフォンスを溺愛しているらしい。
残念ながら彼は、アンジェリカと入れ違いで、軍の任務のために王都を離れてしまった。
アンジェリカは、のんびりと暮らしていた。
こちらの社交デビューは十六歳、結婚もそれからということで、まだ十五歳のアンジェリカはそれまでの数か月間、教育係からトエ帝国の歴史やマナーについて学ぶことになっている。いわば、準備期間だ。
「きょ、今日は、こっ、ここまでに、しましょうか」
教育係の皇女ロザリアが、パタンと本を閉じた。
引っ込み思案だという彼女は、二十三歳だ。とっくに結婚していてもおかしくない年齢だが、本人の希望であまり表には出ず、宮廷の裏方の仕事を手伝っている。
人見知りで人前に出ると緊張してしまうのだと、アンジェリカを前にして耳が薄っすら赤くなる。それでも教育係を引き受けてくれた。いい人である。
トエ帝国にも黒い靄のかかった人はたくさんいた。政略が蠢く国の中枢で、悪意を持たないという方が無理なのかもしれない。そういう環境の中では、ロザリアのように内気なタイプは生きにくいだろう。
「ありがとうございます、ロザリア様。今、お茶を入れますね」
チリン、チリンと手元のベルを鳴らすと、メイドがお茶の用意を始める。香り高い紅茶を蒸らしている間、赤いチェリーのクラフティが切り分けられた。
歴代の皇妃たちから、故国の様々なお菓子が持ち込まれ、宮廷のデザートとして根付いている。ネーブ国では食べたことのない種類もあり、アンジェリカは、このお茶の時間が楽しみだった。
「ア、アンジェリカ様は、勇気が、おっ、おありですよね。今まで、ど、毒を盛られたり、おっ襲われたりなさったとか。そっ、その上、お一人で異国に嫁いで、こ、こられるなんて。怖くは、ありませんか?」
ネーブ国の騒ぎや野盗の一件が耳に入っているのだろう。
一人ではなく、専属の護衛としてアルバーノがいるのだが、他の護衛たちはもう帰国してしまったし、侍女などのお世話係が随行しなかったので似たようなものかもしれない。
「怖いですよ。だから毎朝、剣の稽古をしているのです。簡単に殺されてなるものか、返り討ちにしてやるぞ! ってね」
「い、勇ましいですね。うっ、羨ましいです。わ、私は、兄が毒で血を吐いて以来、ど、ど、どうしても恐ろしくて。幸い、兄は無事でしたけど、い、いつ、またそうなるのかと思うと、あ、あまり食欲がなくて………す、すみませんっ、こんな話を」
ロザリアの伸ばした手が、淹れたての紅茶のカップの手前で躊躇した。トラウマになっているらしい。アンジェリカは、ロザリアの細い指先を見つめ、かつての自分と重ね合わせた。
「わかります。私も以前は、何でもかんでも銀の針を刺して、毒がないのを確かめてから、恐る恐る口に入れていました。『食べられるときに食べておけ』が、剣の師匠の教えなんです。ロザリア様、このクラフティに毒は入っていません。どうぞたくさん召し上がってください。それに、どうせ死ぬのなら、私は、美味しいものを食べて死にたいです」
アンジェリカはそう言って紅茶を啜り、クラフティをもう一切れ自分の皿に移して頬張ってみせた。
「そ、それも、そうですね」
ふふふと口元を綻ばせて、ロザリアもお代わりをする。
ふらりとユッカが姿を現して、ぴょんとロザリアの膝に飛び乗った。猫好きの皇女は、ユッカの背中を撫で始める。
シンナは姿を隠したまま現れ、ロザリアの頭を撫でている。
“喉が詰まってるわ。よっぽどショックだったのね”
“詰まってる?”
“喉のチャクラが、きゅっと閉まってるの。ここは自己表現のチャクラだから、乱れるとコミュニケーションに支障をきたしたり、自分の生き方がわからなくなったりするのよ”
人の体にいくつもあるチャクラは、くるくると円を描きながらエネルギーを取り入れて、心身を活性化させている。場所により働きが異なり、たとえば、胸のチャクラは愛情を、額のチャクラは直感を司っている。
気が不足すると鈍感になったり、疑り深くなったり、頭痛になったりと、悪影響を及ぼすのだとシンナは言う。
“どうすれば治るんですか?”
“こうやって人にものを教えるのはいい傾向ね。手っ取り早いのは、直接チャクラに気を流して、無理矢理こじ開けることだけど、あれは荒治療だから。あとはダンスとか?”
“ダンスですか!”
アンジェリカは、ダンスの授業が好きだ。曲に乗ってステップを踏んでいると、自然と楽しい気分になるのだ。
「ロザリア様、よろしかったら、今度ダンスの練習をご一緒しませんか?」
「だっ、ダンス?! だ、だ、だ、だ、ダンスは、ちょ、ちょっと苦手で………」
ロザリアの体がビクンと跳ねた。良かれと思い、誘ってみたのだが、どうやら逆効果だったらしい。
「すみません、無理しないでいいです」
アンジェリカは、あっさりと引いた。
「い、い、いえ、その代わり――――」
翌朝。
突然増えた弟子を目の前にしても、アルバーノは動じなかった。
「よ、よ、よろしくお願いします」
「……では、木刀の構え方から」
頭を下げるロザリアに凪の精神で対応し、師匠の貫禄を見せたのだった。




