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19 野盗騒ぎ ~出立の朝

 翌朝、アンジェリカは予定通り、トエ帝国に向けてひっそりと出発した。

 持ち物は離宮に置いていたトランク三つだけである。侍女もいない。身一つで構わないというあちら側の厚意に甘えたにしても、王女の輿入れとは思えない簡素さであった。


「今日のために揃えたはずの調度品が、その……手違いがありまして、後ほどトエ帝国へ送るそうです」

 

 近衛隊長のマウロ・ベルトイアが憐憫の情を滲ませながら説明する。

 ちゃんと嫁入り支度がしてあったことの方が驚きだった。大方、どちらかの王妃の、いや元王妃の妨害工作があったのだろう。こんなことすら阻止出来なかった父親にうんざりしながら、アンジェリカは馬車に乗り込んだ。


「結構ですよ。ウェディングドレスはもう間に合いませんから、自前でどうにかします」


「えっ? 自前とは?」


 マウロが目を丸くしながら、アンジェリカの少ない荷物と身に纏っている着古しのワンピースを交互に見ている。どうするんだと言いたげである。


「持っているドレスを着るだけです。それしかございませんでしょう? さあ、早く参りましょう」


 アンジェリカは、さっさと会話を打ち切り、ぴしゃりと馬車の窓を閉める。

 誰もいないのをいいことに、靴を脱ぎ、お行儀悪く足を前に投げ出してから、オルガに渡されたバスケットの中から焼き立てのパンを取り出した。旅路は長い。馬車の中にいる間くらい寛ぎたいのだ。


“アンジーちゃん、朝からご機嫌ななめね”


 スターサファイアの指輪からシンナが現れた。


“あ、シンナさん。嫁入り道具が行方不明らしいのですよ。ま、大したことじゃありません。離宮にあった私物は無事ですし、貴重品は肌身離さず持っているので大丈夫です!”


“ええ~、嫁入り道具は女にとって、とても大切なものじゃないの!”


“どうせ相手は四十路のオジサンです。ウェディングドレスを着たいほど、この結婚に夢も希望もありゃしません。ただ、王妃たちにしてやられたお父様が情けないだけです”


 馬車はノロノロと王都中心を抜けてから、郊外に続く道をひた走る。

 王都を出ていくつかの領を横切り、トエ帝国の従属国であるぺルメ公国を通って帝都に到着するまで、二週間ほどかかるという。


 アンジェリカが焼き立てのレーズンパンを口に運んでいると、翡翠の腕輪からユッカも飛び出してきた。膝の上で“ワシも、ワシも”とおねだりをする。半分ちぎって手渡すと、肉球の小さな手でパンを器用に掴む。はぐっ、はぐっ、とかぶりつく様子が可愛らしい。


“ユッカはなぜ、茶トラの猫姿なの?”


 アンジェリカが尋ねると


“ん? たぶんガイオ爺が、家にあった虎の置物に念を入れて作ったからかな。この姿が一番落ち着くんだ”


 と答えた。


 朝食を食べ終え、ユッカの背中を撫でながら、アンジェリカは昨夜から考えていることを口にする。


“シンナさん、トエ帝国では、皇帝が退位すれば子のない皇妃は自由になれるそうなんです。暇を出された皇妃たちは、通常、国や実家に帰ります。ジスラン帝は、そろそろ引退が近いんじゃないかという噂があるから、それまで辛抱して東方の国へ行ってみたいと思っているんです”


“へえ、東方の国かぁ。懐かしいわね。じゃあ、私はそれまでアンジーちゃんの『白い結婚』を守ることにするわ。夫が寝室に来ても、さっさと眠らせてしまえばいいのよ、簡単よ”


“シンナさんは、そんなことまで出来るんですね。スゴ~イ!”


“そうでしょ、そうでしょ……って言いたいところだけど、これくらいのことは、神なら普通よぉ。基本の基ね”


 そんな会話を交わしながら、夕刻前には王都の関所を抜ける。マウロ率いる近衛隊とは、ここでお別れである。


「ベルトイア近衛隊長、ご苦労様でした。皆も、ありがとう。トエ帝国へ行っても、今日のことは忘れません」


 散々嘲りを受けた王女からの労いなど意味はないように思われたが、礼儀である。しかし意外にも騎士たちは嬉々としていた。


“アンジーちゃんが美人だから、皆、鼻の下を伸ばしてるわぁ”


“ん。そうだな”


 シンナとユッカがのん気に呟く。


(そんなわけないって!)


 赤面するアンジェリカであった。


「くれぐれもお気をつけください。昨日の騒ぎで殿下の護衛が、急遽、第一騎士団から第三騎士団へと変更になりました。不慣れな点も多々あるかと思います」


 マウロに最後まで心配されて、馬車は再び走り出す。

 何日もかけて、いくつかの領を通り過ぎる。穏やかな旅路だった。

 その土地の食べ物や風景。書物で読むのとでは全然違う。川魚の塩焼きは美味しかったし、青々と広がる田園は心を和ませた。立ち寄った領主の館でいただく葡萄酒は、頭がクラクラした。お酒を飲むのは、生まれて初めてだったのだ。

 離宮とドゥッチ侯爵邸しか知らないアンジェリカにとって、新鮮な体験の連続だった。

 ところが、大きな川を渡って野原を走り国境近くまで迫った頃、事態が一変した。


 アンジェリカが、みずみずしいブドウを一粒口に放り込んだ瞬間、馬車が大きく揺れ速度を上げた。


「んぐっ」


 ブドウを飲み込み、頭を強か打ちつける。


「野盗です!」


「や、野盗?! 何がどうなってるの!」


「後方で、護衛が交戦中です! 絶対に扉を開けないでください」


 馬車の動きの荒々しさに耐えかねて、思わず叫ぶと御者が叫び返してきた。

 ガタンッと車体が跳ねた拍子に、ブドウの粒がゴロゴロと床に転がっていった。


“ああっ、ドルシ子爵領名産のブドウがっ! 滅多に食べられないのに”


 ドルシ子爵領のブドウは、ほとんどがワイン用なので、生で食べるには現地を訪れるしかないのだ。小さめの粒の中に、ぎゅっと甘味が閉じ込められていて、癖になる旨さである。

 アンジェリカの目は、床に転がるブドウに釘付けになっていた。


“姫! 今はそれどころじゃないっ”


“そうよ、アンジーちゃん”


“ハッ、そうだった!”


 二人に言われて、アンジェリカは体勢を立て直す。ポケットに手を突っ込み、紙札を取り出した。


 ――――我が目、我が耳となれ!


 息を吹き込まれた紙札が、鳥に姿を変えて外へと飛び立つ。空高く舞ってから、交戦中の一団の上で旋回した。

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