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還暦を前に介護生活に追われるようになったが、妻とそれぞれに息抜き時間を計画的にとった。
家で晩酌だったり、外に呑みに行ったり。ぼんやりと外に出掛けたり。
義父母と妻の健康がかかっていると思っていたせいなのか、環境の変化なのか、それとも山形の酒の力なのか、不思議と俺が寝込むことは減っていった。
10年以上の長期戦を覚悟していたが、2年後に義母が亡くなると続けて義父も急逝した。
なんだか気の抜けたような生活になりそうだと思っていた矢先、定年退職をした東海林に遊びに来いと誘われて、山形県へ旅行に行っているうちに元気になっていた。
そういえば、支店長は本社への異動が出たのを機に、仙台市で起業をしたらしい。
このままだとなんでも屋に支店長はなりそうだと、電話で笑って話していた東海林が、コロナ禍の去年亡くなった。
入院を知らせるメールでは、『生活習慣病だ。病院食で治ったら酒を呑もう』とだけ送ってきていた。
県外からの見舞いも出来ないと遠慮をしていたら、呆気なく亡くなってしまった。
山形県内でのコロナ患者数が増加している頃の葬儀で、身内だけで執り行うと聞いたこともあり、花と香典を送るだけにした。
だから、だろうか。
東海林がまだどこかで生きているのではないかと思ってしまう。
人混みの中で見間違えた人も、苺栽培のビニールハウスで何度も会った人だった。
地震の後、沿岸部に住む家族の所へ向かって亡くなってしまったらしい。
みんな、遺体を見ていない人ばかりだ。
日常の会話の中で不在を何度も確認して、ようやく亡くなっていったのだと実感する。
義父母のように、毎日体を触り、支えていた人の体から命の抜ける瞬間を見て、死を確認することは、滅多にない。
葬式にも出ていない。
それでも死は存在している。
どこかで生きていると、思ってしまった時に。
帰宅して、酒とつまみの瓶詰めを冷蔵庫にしまう。
今日は買い物に付き合って疲れた。
酒を飲むのは明日にしよう。
そう、疲れたから、明日にしよう。
*
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買い物の翌日。
それは3月の第2週目で金曜日。
震災と同じ金曜日。
晴れた空気の居間の中で、午後2時半からテレビをつけて、ぼんやりと眺める。
11年目の春。
テレビ画面に映る海辺の空は、青く柔らかく見えた。
寒さが抜ける頃になると、東日本大震災の時を思い出す。
あの日は寒かったのに、春の訪れと黙祷が俺の中で繋がってしまっている。
『黙祷』
テレビからの声。
仙台市のある方向に体を向けて、目を瞑る。
ーーーどうか、安らかでありますように。
生きている人も含めて、俺は祈りを捧げる。
日が暮れて、いつも通りの夕食の前に、昨日買った宮城県の酒とつまみを並べる。
よく冷えた酒は、とくとくと音を鳴らしながらぐい呑みに落ちる。
「あら、わたしも飲むからちょうだいね」
台所から妻の声がかかる。
無言のまま、ホヤとナマコの綿入り塩辛を小皿に盛り付け、箸をつけた。
あの時、食べたものとは違う。それでいい。それで、いいのだ。
そう思いながら、口に運ぶ。
医者には止められそうな塩気が口いっぱいに広がる。コリコリと食感を楽しみ、飲み込んだらすぐに日本酒を口に含む。
しょっぱかった口の中が冷えた日本酒でキリリと引き締まる感覚を味わいながら、じんわりと甘みも感じる。
その後にくる鼻に抜ける辛口の香り。
宮城の酒は飲みやすいが、かならずキリッとした味わいを感じる。
強い塩気が日本酒の甘さを引き出し、呑みやすさで何度も杯を重ねてしまう。そうなるとまた磯の香りと味わいと食感が欲しくなって、塩辛に箸がのびてしまう。
「これは体に悪い」
思わず笑って言ってしまう。
もしかすると東海林の生活習慣病は、「呑兵衛」と言うものだったのかなと思った。
酔いの回った頭で、東海林は元気かなとスマートフォンを手に取った。
ロックを解除する前に、去年死んだのだと思い出して、涙が出た。
「年をとったなぁ」
あえて、妻が目の前に並べていた手製のキムチに箸をのばすと、皿から多めに口の中に入れた。洟をすすりながら、
「辛い、辛いなぁ」
と、ひとりで言い続けた。
妻は何も言わずに、箱ティッシュを俺に渡すとテレビのチャンネルを変えた。
何も変わらない、ただの日常。
もう仙台市には住むことはないが、それでも時々は思い出して酒と肴を買う。
それが俺にできることだと思っている。
わずかでも続けられること。
忘れない事。
無理をしない事。
それが日常で、自分を大事にすることなのではないだろうかと、柄にもなく考えている。
だから、これからも日本酒を呑み続けられるように、健康に気をつけると言ったら、東海林は笑うだろうか。
酒で赤ら顔になって笑う東海林を思い出した途端、また涙がこぼれてきた。
「何やってるのよ」
妻が呆れた顔でゴミ箱も持ってきた。年寄りの酔っ払いは涙もろいんだと言おうとしたが、声にならなかった。
今夜も、星は見えるのだろうか。
ぐすぐすと泣きながらも、手は止まることなく、ぐい呑みにのびた。
今日も酒が美味い。
それでいい。
それだけで、いい。
俺は鼻水と一緒に酒を呑み込んだ。