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東海林はその日、山形に帰れなかった。
電車も高速バスも止まり、山形市に抜ける一般道の笹谷峠の道も使えなかった。
高速バスセンターと駅に近付いただけでも地震の被害をあちこちで見ることになった。東海林と同じなのか、帰宅の手段を失くした人たちがたくさん居た。
少し遠回りになるが車で国道48号線を通れば山形市へ向かうことができる。しかし、倒壊した建物が道を塞いでいるらしいという情報もあり、社用車が手元に無かったので、東海林は俺の部屋に泊まることになった。
震災当日は、まだ支店長のスマートフォンが繋がって、ネット上からの情報を手に入れることができた。携帯電話は使えず、公衆電話が無料で使えるようになった。昔ながらの電話回線は使えると分かり、近くの黒電話を置いているタバコ屋に頼んで、支店の連絡先として番号を使わせてもらう事になった。
翌日にはスマートフォンのネットも使えない状況になるのだが、この時はまだ知らなかった。それに使えていたことも奇跡的だったと後になって分かった。
「横浜の本社にはメールでこちらの状況を送った。ただ、沿岸部は津波がひどいらしい…」
日が暮れ始めた中、支店長がぽつりとこぼした言葉が重く、ただ俯いて頭を下げた。
埃まみれになった革靴の先が、薄暗い中で白々と見えた。
停電でテレビも見られない中、自家発電だろうか、ささやかな灯りをつけた小さな店先で、携帯ラジオを持った老いた文具店の主がベンチに座っていた。その隣に立ち、じっと耳を澄ませて情報を集めようとしていた。地名と避難所が読み上げられる。
その合間、合間にやってくる余震。
その度に心臓が早鐘を打つ。
「…支店長、避難所に行きますか?」
「いや、家に戻る。明日、来られない時はタバコ屋さんに連絡をするようにして下さい」
「…支店長、敬語が混じってますよ」
「慌ててるんでね。つい、年上の人たちに甘えてしまう」
「充分落ち着いて見えましたよ。あの時、コンビニに行かなかったら食料品も水も買えませんでした」
オフィスの片付けを終えて外に出ると、あちこちの店に長蛇の列が出来ていた。並んでいないのは、品切れの店だけだ。
「それなら、よかった」
日の暮れた街灯のないアスファルトの上で、苦笑いを浮かべた支店長の口から出た息はやけに白く見えた。
俺はラジオを聴かせてくれたお礼だと言って、文具店主に持っていたパンをひとつ渡した。ラジオを持った老人は「ありがとう」と言って受け取ってくれた。余震が怖くて外に出ているようだった。
東海林と一緒に歩いた仙台の街は、今まで見たことのない闇に満ちていた。普段からどれだけの灯りに照らされていたのか、改めて気がつかせられた。
そわそわと人の気配が何処かでしている。
みんな落ち着かないのだろう。
靴音が響く。
東海林が空を見上げて、「あ」と言った。
つられて俺も空を見上げると、綺麗な星空が見えた。
「…冷えるな、これは」
「そうだな」
星が見えて綺麗だとは、俺も東海林もその時は言うことが出来なかった。
自宅マンションに帰ってもエレベーターは動かない。階段を歩いて上る。
「…明日から毎日これか」
「中高年の運動に最適だな」
「お前もやるんだからな」
ぼそぼそと軽口を叩きながら、玄関までたどり着いた。はあはあと東海林の息が乱れている。
「おかしいな。登山部だったんだがな」
「東海林、それはいつの話だ?」
「40年…かな」
「時効だ」
真っ暗な中、先に部屋に入り、懐中電灯を手探りで探す。指先で形を確認して、スイッチを入れると、たわんだ光が部屋を照らした。
携帯電話は、繋がらないのと電池を残しておく為にと電源を切ってある。電灯のためだけに起動する気にもなれなかった。
「どうぞ」
「どうも」
ガラスなどの割れ物はなかったが、念のためスリッパを渡した。
懐中電灯をダイニングキッチンの高い所に横たえて、部屋を照らす。
ブレーカーを落として、浴槽に溜めたままの残り湯を確認した。
「トイレの時は、風呂から水を持っていってくれ」
「わかった」
そして、当然のように都市ガスは使えない。代わりに、鍋のために買っておいたガスコンロを出す。
「豪勢にカップ麺にしようか」
「まあ、確かに豪勢だな」
浅間山荘事件のテレビ中継を見ていた中学生時代の刷り込みか、あの時にブラウン管の中で食べられていたカップ麺は、俺と東海林の間では高級品扱いだった。
余震が続く。
ごごごと音が近づいた後の下から来る強い振動。それが不定期に休みなくやって来る。
ほとんどが床に置かれている俺の部屋では、地震で落ちたのかなんなのかが正直分からない状況だったが、カップ麺が落ちていたからそれなりにここも揺れたのだと改めて思った。壁紙のひび割れがその証拠だ。
コンビニで買った水を沸かして、東海林と黙ってカップ麺をすすった。
停電で、暖房も何もないので、早々に布団を出して中に入る。
部屋が狭いのと、心細さもあって東海林の隣りに布団を敷いたが、執拗に続く余震のせいで、どちらも眠れそうになかった。
もぞもぞと寝返りを打って何度目かわからなくなった時。
俺は停電中の冷蔵庫を思い出した。
がばりと布団から起き上がると、俺は東海林に呼びかけた。
「おい、酒盛りしようぜ」