58.アイレーネ
その後、コールスは“不可視化”スキルで店の片隅に隠れてもらっていたターセンたちを呼び寄せた。
「交渉はうまくいったみたいだね」
ルミナの言葉に、コールスは頷いた。
「うん。最も、そのアイレーネって人に信じてもらえるかはわからないけどね」
「いえ、ありがとうございます。後は俺が頑張らないといけませんね!」
とターセンは笑った。
「うん、そのことなんだけど、ちょっと僕に考えがあるんだ」
とコールスは切り出した。
* * *
30分後に、再びジンクが現れた。
「これで全員ですか?」
「はい。案内をお願いします」
とアナスタシアが答えると、ジンクは頷いて隠し扉を開いた。
一行は暗い廊下をしばらく歩いた。
そこは迷路のように道が入り組んでいて、案内がなければまず迷子になってしまうだろうと思われた。
幾度か分岐を辿るうちに、急に明るいところに出た。
そこは、広い建物の中。
「ようこそ、我らがアジトへ」
とジンクは微笑み、コールスたちを奥へと誘った。
広間にはビロードの幕が吊られた一角があり、一行が近づくとサッと幕の中心が広がった。
その奥には一人の女性が、深々とソファーに腰を下ろしていた。
艶々とした黒髪の女性は絹で出来た着流しを纏い、藍玉のような瞳でコールスたちを見ながら微笑んだ。
「うむ、来たか」
そう言って女性が立ち上がると、ジンクはその場に片膝をつき、アナスタシアたちもそれに倣った。
「話はジンクから聞いている。公爵家の隠し子、というのは誰か?」
女性の問いに、
「私です。ターセンと申します」
と俯いたままターセンが答えた。
女性は静かにターセンに近づくと、しゃがみこんでその顔を見た。
真剣な目で見つめながら、
「ふぅん、確かにビクセン様によく似ているねぇ」
と言った。
「……それで、ビクセン様に会ってどうするつもりなんだい?」
女性の問いかけに、ターセンは顔を上げた。
「ヴィルネイス公爵家の末席に加えていただき、ビクセン様のため、そしてお家の将来のために力を尽くしていきたいと考えています」
そう言って真っ直ぐな視線を投げる。
すると女性もまた、鋭くターセンの瞳を見つめ返していたが、ふっと表情を緩めると立ち上がった。
「なるほど。ならば、このアイレーネ・ティフリクト、そなたの力になろう」
「感謝申し上げます、アイレーネ様!」
ターセンが頭を下げると、アナスタシアたちもそれに続いた。
「ジンク、後の手配はよろしく頼むぞ」
「はい!」
ジンクがアイレーネの言葉に応えると、
「そなたらはひとまず身体を休められよ。傍に人を置かせるから、何かあればその者に言ってくれ」
と言ってアイレーネは再び幕の向こうへと戻っていった。
* * *
「ふぁ~、疲れたぁ~!」
客間に通されると、ルミナはふかふかとしたソファーにもたれかかった。
「確かに、今日はいろいろなことがありましたね……」
ソフィヤも深々と息をついている。
「でも、とりあえずは一息つけるね」
アナスタシアはそう言ってコールスの頭を撫でた。
「皆さん、お疲れさまでした!お陰様でアイレーネさんにも協力してもらえることになりましたし」
とターセンは礼を言う。
“いや、ターセンも頑張ったよ。広間でのやり取りも堂々としてたし”
コールスは念話で労った。
部屋の外にはアイレーネの使用人が控えているはずだから、狼のコールスが声を出すわけにはいかない。
“いえ、コールスさんの指導のおかげですよ”
とターセンは頭を掻いた。
さっき、コールスが『提案がある』と言ったのは、アイレーネとの面会についてのことだった。
面会時にアイレーネが何を言ってくるかを予想して、どう答えるか考えておくべきだと思ったのだ。
“確かに、しどろもどろなこと言ってたら信用されないからね”
とルミナは頷く。
“コールスの予想通りだったね。『ビクセン様に会ってどうするのか?』って”
アナスタシアは感心している。
“表向きは『義理を重んじる』と言っているけれど、こういう人たちは、利のないことには本気で手を貸さないからね。
ターセンが、自分は領主になる、と明言すれば話に乗ってくれると思ったんだよ。
ターセンがゆくゆくはヴィルネイス家当主になることで、その擁立に影で貢献した自分たちも、ヴィルネイス家に影響力を持てるようになる――
アイレーネさんたちがそう思ってくれれば、こっちのもんさ!“
“でも、そうすると、ターセンはこれからずっと、あの人たちに弱みを握られることになるのですね”
とソフィヤは顔を曇らせた。
“まぁね。でも、仕方がないよ。いくらコールスが超常的なスキルを使えるといっても、アタシたちだけで相手するには敵が大きすぎる。
本当のところ、一体どれだけの人間がアタシたちの、そしてビクセン・ヴィルネイスの敵なのか、それすらもまだ分からないんだから“
ルミナが天井を見上げる。
“そうだね、それに正直なところ、アイレーネファミリー全員が僕たちに協力してくれるとは限らない。
もしかしたら、ビクセン様の敵対勢力が既に入り込んでいるかもしれないし。
それでも、この道を行く以上気を付けていかないと……“
コールスがそう指摘したとき、扉をノックする音がした。
「……!」
今しがたしていた話題が話題だけに、一同に緊張が走る。
「お食事をお持ちしました」
そう告げる声に皆で胸をなでおろす。
「どうぞ、お入りください」
ターセンが答えると、「失礼いたします」と使用人たちがカートを押して部屋に入ってきた。その中にいる一人の少女に、コールスとアナスタシアは目を見張った。
「あ、君は、ルシーラ!?」
アナスタシアの声に、メイド姿の少女は恥ずかしそうに会釈した。