第32話 天空都市クイックシルバー
一方で、陽子は見知らぬ部屋で目覚めた。
「ここは……どこ?」
海に飛び込んでからの記憶があいまいで、この見知らぬベッドで眠っていたようだ。
周囲の風景が微かに滲む。眼鏡をかけようと近くとテーブルに手を伸ばすがそこには無い。
ここは一体どこだろうか。そもそも、自分はあのあと死んだんじゃないのだろうか。
しかし、あの世にしては蒸気と歯車の音が外から響いてくる。
「お気づきになりましたか」
お迎えなのだろうかと首をかしげて、黒いスーツを着た女性をベッドから見上げていた。
その視線に左右に首を振ってあなたは生きていると伝えられて、陽子は驚く。
ここはどこかという質問に対して、今にわかりますよと、立ち上がるように促される。
「夜の羽たちが待っています。貴女が姿を見せるのを」
その言葉に複雑な表情を抱きながらも、言われるままにいつの間にか来ていた寝間着から、サンモニカのシスター服を上等にしたような神聖な衣装を身に纏い、渡された自分の眼鏡をかけて、部屋に出る。
そこは一つの街のようであった。そこでは、ヒト以外にも魔族が闊歩しているのを見て陽子は驚く。
人と魔族の戦争があって50年。復興して戦いの傷は癒えたが、いまだ人と魔族の溝がなくなったわけではない。襲われたりしないかと心配しながらこっそりと歩く。
中心の礼拝堂に案内されて、出迎えた女性は祈る人々に声をかける。
「新代の聖女様がお目覚めになりました」
人々は新たな聖女の到来に沸く。
一方でそれに戸惑いが隠せないでいる陽子。
挨拶をするようにと促されるままに、軽く挨拶をする。
再び湧く人々に困惑しながらも、聖女としての務めと称してこの礼拝堂で祈りを捧げることになった。
祈りの時間の後、この場所は夜の女神メルエール様を奉る聖地であると説明をされる。
「そういえば、外から歯車と蒸気の音がしたのはどうしてかな?」
「聖女様は初めてかもしれないけど、ここは飛行船なんだ。空を飛んで同胞、玉眼を求めて聖地と共に世界を放浪しているんだ」
「空を……? 本当だね。すごい……」
窓から見下ろすと雲と海が見える。町は豆粒のようで本当に空を飛んでいることを実感した。
「ここが新しい家になるんだ。次は巫女様にあってくると良い。話をして我々の事を理解してもらいたい」
案内されて、一つの部屋に通される。
そこでは目隠しをした、女性がまるで目が見えているかのように、顔を上げて陽子を出迎える。
「あなたが新しい聖女様? たしかに闇の魔力が濃い……私は目はほとんど見えなくなってしまったけど、その分魔力を感じ取れるようになったからわかるの」
「私はヨーコ。……あなたは?」
メグ。と答える彼女はなんだか神秘的で、思わず息を呑んでしまう。
どうしてあなたはここにと陽子は彼女に問う。
彼女は生まれつきの目の病で捨てられて、孤児院でいつ見えなくなるかわからない恐怖と共に暮らしていたという。
「でもある日、ここの教団の人がやってきて、私を聖女として引き取っていったの……」
それからは、暗闇を恐れなくなった。いつかメルエールに迎えられるその日まで祈りを捧げることにしたと陽子に教える。
「でも……どうして私が新しい巫女に?」
メグの話によると、メルエールの加護を受けたヒト……玉眼を聖人や聖女として迎え入れてきたのだが、かなりの間聖人の席は不在で、代理として、盲目となった自分が聖女代わりの巫女という役割をしていたのだという。
あなたは待ち望まれて、ここに迎えられたというわけですと答えるメグに対して複雑な感情を抱く。
この感情を陽子はまだよくわからなかった。
「また、話に来ます。それまで元気で」
ええと頷くメグに別れを告げて次は聖女として女神の声を聴くための祈祷を始めることになった。
しかし、気がかりなことが多すぎて、あまり集中できずに神官たちを困らせてしまう。
ごめんなさいと謝る陽子にたいして初老にあたる神官は微笑んで慰める。
「大丈夫です。まだここにきて間もないのですから地上のしがらみが気になることもあるでしょう。じきに慣れますよ」
その後も街の子供たちにお菓子を配ったり、懺悔室で悩みを聞いて一緒に悩んだり、慣れないことばかりで目が回りそうだったがようやく護衛付きという条件での自由時間となった。
「この町には何があるんですか?」
何があるかといわれると答えに困る護衛。とりあえず酒場にでも行きますかと陽子に問えばこくこくと頷いて、護衛に案内されながら酒場へと訪れた。
席に座って、飲み物を待っていると大柄な魔族の男が絡んできた。護衛に睨みつけられ、蛇に睨まれた蛙のようになっていたが、害意はなさそうだと察知したのか護衛は警戒を解いて柱に寄り掛かったのを見て、安心して男は陽子に話しかける。
「聖女様だな? 俺はここの常連なんだが、ちょっと話を聞いておくれよ」
相槌をうって、相手の話を促す。
彼によると人が光の元で暮らすようになったのは大崩壊の後かららしい。
なぜなら、大崩壊の時に人はメルエールに見限られ、夜は人にとって安全ではなくなってしまったからだという。
魔族にとっては夜は心地いいからもっと長く夜が続けばいいのになと小さな愚痴をこぼしたかったようだ。
「それだと……魔族にとっては、ずっと真っ暗な方がいいんですか?」
ところが、そうじゃないんだと首を振る魔族の男。
喩え夜とメルエールを信奉するこの教団であったとしても、『永遠の夜』はあってはならないことだと陽子に教える。
バランスこそ異なれど、人にとっても魔族にとっても光と闇の循環は欠かせないものらしい。
そして、足りない光を補うために魔族領には、集光塔という巨大な塔があるという。
俺も昔はタロニアンと一緒に、あそこの整備をしていたんだがなと昔の武勇伝を語る。
楽しんで話を聞いていると、俺も俺もと昔の武勇伝を陽子に聞かせようと人が集まってきて話をかわるがわるしてくれた。
「聖女様。夜の祈祷の時間が近いです。そろそろ行きましょう」
そう言って護衛が立ち上がると、酒場中から聖女たる陽子を見送る声に包まれた。
その見送りは純粋で優しいものだった。心地よく見送られて酒場から出る。
その後、夜の祈祷を終えて就寝の時間となった。
(慣れないこともあって大変だったけど……優しい人たちばかりだったな……)
一人、ベッドでくるまりながらこれからの事を考える。
(助けてもらった恩もあるしここで聖女として生きる? でも、皆に会いたいな……)
新しい日常。それは穏やかなものだったが、なぜかもやもやとした感情が湧いて止まらなかった。
その感情はなんだろうと悩んでいるうちに夜に包まれるようにして眠りについた。