4. 魔眼の少女の心臓に悪い日常
これは一体どういう状況なの?
ここは私の家。私のベッド。それはいい。
そして私の覚醒を促す、いつもの賑やかしい精霊たちの声。これも平常通り。
だけど、ここからが問題だ。
私の枕元で小首を傾げ、心配そうに見つめてくるカラスが一羽。
正直なところ、目覚め早々のボンヤリとした視界に飛び込んできた景色が、カラスのアップというのは、前世を通じても初めてのことで、よくぞ声を上げなかったと自分を褒めてやりたいくらいの気分だ。というより、正しくは声を出すよりも先に、息を呑んでしまったせいなのだが、そこは結果オーライということでヨシとしておく。
そして、寝起きの回らない頭で思うのは………
あれは、夢ではなかったのね
ということで、ならばこのカラスはサリュエルさまに他ならず、私は確認も含めて一先ずその名前を呼んでみることにする。
「サリュエル…さま……?」
すると、そのカラスことサリュエルさまは、僅かに目を細め、カラスなりの安堵の表情を浮かべた。
「ユリア、目覚めてよかった。あれから全然起きないから心配したんだぞ」
硬質な嘴を駆使しているとは、とても思えぬ流暢な喋りで、私の目覚めを喜んでくれるサリュエルさま。その様子に私も自然と笑みが零れて…………
「ご心配おかけしてすみません。母のことでも大変ご迷惑をおかけして…………」
と、言いかけて気づく。私をここまで運んでくれたのは誰だろう………と。
私の記憶に残っているのは、悪魔によって地中へと引き摺り込まれそうとなっているお母さんを……いや、お母さんの魂を助けるために、必死にしがみついたところまでだ。その後は、急に光に包まれたかと思ったら、お母さんの魂が天へと昇っていってしまって、それから………えっと…………………
………………まるで記憶がない。
その事実に浮かべたはずの笑みは、それこそ引き潮の如く見事に沖の彼方まで引いた。ついでに血の気も一緒に引いたと思う。
しかし、現状確認は必須だと、先ずはシーツを少し目繰り上げ、自分自身に視線を落とす。
服は……ヨシ、ちゃんと着てる。
もちろん黒装束のままで脱いだ形跡もない。ただ、この姿で寝ていたために、とんでもなくスカートが皺になっているだろうが、今は気にしている場合でもない。
でも、私が安心できたのはここまでで、結局最初の疑問へと立ち戻ってしまう。
誰が私を運んだのか……というところにーーーー…
考えるまでもなく、自力で歩いて帰って来たということは先ずあり得ない。私に意識を失くしたまま歩き出すような器用な真似はできないし、夢遊病の気もないはずだ。だいたい目を閉じたままで難なく家にたどり着けるほどの、帰巣本能が備わっているとも思えない。
だとすれば、当然の結論として、誰かがここまで運んでくれたということになるのだが、どう考えたってあの場にいた面々は、私の掌ほどの大きさしかない精霊たちと、今、私の視界を埋めるカラスのサリュエルさま、そして残るは…………
「やっと起きたか」
と、サリュエルさまの頭上から、私を覗き込んできたルークさまだ。
「ひゃッ!」
先程は息の呑むことで堪えられた声が今度はしっかりと漏れ出し、沖の彼方まで引いたと思われた血の気が、今度は津波となって戻ってくる。というより、襲いかかってくる。つまり今、私の顔は物の見事に真っ赤になっているということだ。それを隠すために、咄嗟にシーツの海へと深く潜り込む。
うわぁぁぁッ!寝起き早々、あの碧い瞳は心臓に悪すぎる!
な、な、なんで私、気絶なんか………
五百年ぶりの再会だっていうのに……絶対に寝顔まで見られてるしッ!
こんなの恥ずかしすぎる~~~ッ!
私だって、今更なのはわかってる。でもこれは前世から大事に抱えてきた想いと、乙女心ゆえと許して欲しい。
せめて潜ったシーツの海が、本物の海水並みに冷たければ、幾分か頭も冷えるはずだが、生憎潜った場所は、シーツの海。冷たいどころか、羞恥心からくる自らの体温上昇でさらに暑い。しかも……………
「あれれ?ユリア、シーツに潜っちゃったね」
「せっかく起きたのに、まだおねむ?」
「もう朝なのにね」
「だね」
へっ?朝?
精霊たちからの予期せぬ情報。
その瞬間、シーツの中で悶えていた私の乙女心は、忽ち新たに突きつけられた現実に固まった。代わりに動いたのは、冷静さが只今不在中の頭と、ほぼ反射で反応した身体だ。
精霊たちの情報の真偽を確かめるべく、今度は勢いよく自らシーツを剥ぎ取り、シーツの海から浮上する。そしてその勢いのままにベッドから身を起こして、窓の外へと視線を向けた。
「う…そ……明るい………」
その呆けた私の独り言に答えてくれたのは、精霊たちやサリュエルさまでもなく…………
「だろうな。朝だしな」
ルークさまだった。こうなれば、どれだけ恥ずかしくとも、「そうですね。朝ですしね。それでは失礼して……」と、再びシーツの海に潜る勇気もなければ、そんな選択肢もない。というより、そこまで礼儀知らずでもない。したがって、おそらく隠していた時以上に赤面となった顔を晒したまま、ルークさまにおずおずと尋ねた。
「あ、あの……私を家まで運んで下さったのは……ルークさまですか?」
「ここでユリアを運べそうな奴は、俺しかいねぇからな」
「そ、そ、そうですよね!す、すみませんッ!大変ご迷惑をおかけしましたッ!」
ベッドの上で、これぞ平身低頭のお見本だとでも言うように頭を下げ、ふと思う。
ちょっと待って……
ルークさまは私以外の人間には見えない。そのルークさまが私を運んだってことは………周りから見れば………………
う~ん…と、暫しその情景を思い浮かべること寸刻。
……………えっと
…………………やっぱり
………………………どう見ても
………フワフワと宙に浮きながら、家路を辿るこの世の者とは思えぬ娘ーーーーーーー……
うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!
声にもならない絶叫を内心で上げ、今度はベッドの上で頭を抱える。
私は、前世といい、現世といい、精霊たちが常に一緒にいるため、何もないところで1人喋っている変な娘……という有り難くない認定を受けている身。変人扱いは今更だ。なので、威張って言うことでもないが、周りからの目に対し、それなりの耐性もある。
だけど、一人意識ないままに、宙を浮いて家路についていたということだけは、まだなかったはずだ。というより、そんなことができるはずもない。これは変人という枠を軽く越えて、もはや人でもなくなっている。
いや、しかし……と、楽観的に思い直してみる。
ここは寂れた町だ。そもそも広場から家までの距離なんてたいした距離でもない。もしかしたら、誰にも会わず、家に帰れた可能性だって十分にあり得る。きっと、そうだ。そうに違いない。むしろそうじゃないと困ると、淡い期待を込めてもう一度ルークさまに聞いてみる。
「あの………つかぬことをお伺いしますが、私を運んで下さった時に、誰かに会ったなんてことは………?」
賢明にも口にはしなかったが、“なかったですよね!”という、決して淡くはない私の期待と願望が大いに含んだ問いかけだ。しかし、そういう期待と願望は、得てして脆くも崩れ去るのが世のお約束だったりするわけで、ルークさまは怪訝そうに首を傾げると、記憶を辿るように少し考えてから………
「……そういえば、会ったな。広場を出て、ユリアの家に向かう途中にある、犬を飼ってる家の人間に。犬が俺たちに吠えてきて、その声で出てきた年配の女とバッタリ?」
と、ご親切にその時の状況まで教えてくれる。もちろん私はそれに対し、怒れる立場でもないので………
「……バッタリ……そ、そう………ですか」
などと答えつつ、口と顔を引き攣らせながらもなんとかエヘヘ…と愛想笑い擬きを作る。が、内心ではガクンと膝から崩れ落ち、地に両手を付いた四つん這いの状態。そして、あぁ……これで終わった……と、まるでこの世の終焉を迎えたかのような有り様だ。
運んでもらっておいて、こんなことを思うのはなんだが、いっそのこと広場に捨て置いて欲しかった。
しかも、おそらくルークさまがバッタリ会ったというその年配の女性は、私の家の家主さんだ。とても世話好きないい人でもあるが、お喋り好きの少々厄介な人でもある。つまり、この町の人たちがこの件を知るのは、時間の問題だということだ。
これは真剣に、この町を出ることも考えなきゃダメかも………
なんてことを真っ先に考えてしまうのは、前世での魔女狩りの記憶がちらつくせいなんだろうと思う。
もちろん時代も人も移り変わり、魔女狩りなんてものは遠い昔に行われた負の歴史の一つで、今や学ぶべき過去からの教訓だ。
しかし、王都から目と鼻の先にあるにもかかわらず、旅人すら立ち寄らない、どこか閉鎖的でもあるこの寂れた町では、奇異な存在が即排除すべき存在へといとも簡単に成り果ててしまうのは、昔も今もさほど変わりはない。そうなれば、五百年前のあの日のように、町の人がこの家に雪崩れ込んでくる可能性だって十分にあり得るのだ。
この町から……この世界から………
また私を排除するためにーーーーーー
そんな私の危惧が、下手くそな笑みから透けて見えたのか、すぐさまサリュエルさまのフォローが入る。
「ユリア、心配するな。普段、何も考えてらっしゃらないルークさまも、そこら辺のことはさすがに考えてらっしゃる」
「えっ?」
「おいッ!」
私の疑問の声と、ルークさまの突っ込みの声はほぼ同時で、サリュエルさまの首は鳥類特有の柔軟さでクリリと傾いだ。私はそんなサリュエルさまを見つめ、その先の答えを待つが、その答えを知るルークさまは別に待つ必要もない。なので、突っ込みの声を皮切りに、サリュエルさまへの文句が数珠繋ぎとなって一気に出てくる。
「カラスッ!普段、何も考えてないってなんだッ!俺だってちょっとは考えてるわッ!」
「考えてアレですか……」
「ア、アレとか言うなッ!って、そもそもアレってなんだッ!コラッ、カラス!表情筋乏しいくせに、こんな時だけあからさまに残念そうな顔をするなッ!」
「いやいやいや、アレはアレです。自覚なしですか?だいたい暇さえあればぐうたら寝てばっかりだったくせに、いつ、何を、どれだけ考えてらっしゃったっていうんです。どーせ、もっと休みたいとか、ずっと寝ときたいとか、そんなところでしょ?」
「ぐっ……」
最終的に、サリュエルさまにやれやれとため息を吐かれ、呆れたとばかりに首まで横に振られたルークさまは、分が悪いと思ったのか、まだまだ言い足りなそうな口を、わなわなさせながら噤んだ。そんなルークさまの様子に、精霊たちが大人しくしているわけもなく………
「ルークさま、プンプン?」
「でも今日はカラスの勝ちだね」
「ルークさまの負けぇ~」
と、容赦なく負け判定を下し、「お前らなぁ……」とぼやきつつルークさまが力なく項垂れる。
それにサリュエルさまが、してやったりとばかりに胸を張り、そんなサリュエルさまを横目に睨みつけながら、「カラス、後で覚えてろよ」と、ルークさまが負け惜しみにしか聞こえない台詞を吐いた。私は思わず吹き出すように笑って…………
不意に実感した。
この光景は、前世の私が見ていた光景に似ていると。
そう実感した瞬間、幾星霜を経て前世から現世へと引き継いだ想いが堰を切ったように溢れ出し………
本当に……本当に……戻ってきたんだ
ルークさまがいるこの世界に………
急激に押し寄せてきた実感が私の涙腺を緩ませ、私はそのまま泣き笑いとなった。
五百年前の約束ーーーーーー…
“ この箱庭の世界で、何百年でも、何千年でもユリアの転生を待つ。だから、足掻け!諦めるな! ”
世界に蔓延した災厄の原因が私にあるとして、魔女狩りと称し火炙りとなった前世の私。
その肉体は、人の残酷さと醜さが放った炎に巻かれ、ルークさまの腕の中で朽ち果て、絶えた。
その最期を思えば、前世の私の生涯は、とても幸せなものだったとは口が裂けても言えない。だけど、この世界に再び生まれ落ち、まるで上等な厚手の布に閉じ込められた水の如く、少しずつ時間をかけて染み出した記憶は、前世での残酷すぎる最期を、恐ろしく悲しい出来事としてではなく、幸せな未来へと続く、愛しきものとして私に認識させた。
そう……ルークさまが最期の瞬間にくれたあの約束は、魔眼を持つ私がこの箱庭の世界に転生し、生きる、たった一つの理由であり、糧ーーーーー
何百年、何千年と、たとえどれだけの年月をかけようとも、私の魂はルークさまだけを想い、その時をただ待ち続けた。
だからあの時、黒きモノを纏ったお母さんの魂よりも、先ずルークさまの姿に釘付けとなってしまったのは、私の存在と生きる理由が、ルークさまの存在と交わした約束ゆえだったからだと、薄情な娘をどうか許して欲しい。
確かに、五百年という歳月は、ルークさまから私の記憶を消し、光と闇の神から死神へと変貌させていた。それに対して戸惑いや動揺がないかと聞かれれば、もちろん大いにある。ルークさまの身体を襲う激痛にしたって然りだ。
だけど昨日…………ルークさまは覚えのない私のことを守ってくれた。私の気持ちを汲み、お母さんから一時的に剣を引いてくれた。お母さんの魂を最後まで諦めず、悪魔の手から救い出してくれた。それが仕事とはいえ、神様にしたら、是が非でも排除しなければならない、魔眼持ちの私の望みを叶えてくれたのだ。
そして今、懐かしき光景が目の前にあって、たとえ私の記憶がなくとも、たとえ死神となっていたとしても、ルークさまは私の想い焦がれたルークさまのままで、私は泣きながら笑ってしまう。
「コラ、ユリアも泣くほど笑うなよ」
「す、すみません……でも……ルークさまの拗ねた顔が妙に可愛くて…………」
「か、可愛いことあるかッ!」
私の一言に耳まで紅くしたルークさまがやっぱりどこか可愛くて、ただただ愛しくて、この泣き笑いはすべてルークさまのせいだと、私はまた笑って、泣いた。
しかし、同時に思うことは、せっかく会えた今を守らなければならないということで…………
私の思考は一頻り笑った後で、随分と遠回りしながら頭の痛すぎる現実へと戻ってきた。早い話、ふりだしに戻る…だ。
家主のおばさんのことどうしよう………
正直、起きたて早々にもかかわらず、とんでもない難問だ。呑気に笑ってる場合でもない。サリュエルさまは、さすがにルークさまも考えてらっしゃると言われていたが、ただの人間でしかない私には神様の思考などわかるはずもない。
ここはさっさとサリュエルさまに聞くに限ると、涙を拭いつつ、改めて視線の矛先をサリュエルさまに向ける。が、向けようとして、私はまたもや頓挫することになる。
えっ?……ちょっと待って……これって…………
先程の笑いが、起きてからずっと行方知れずだった冷静さを呼び戻す呼び水となったのか、私はようやくあることに気がついた。いや、むしろ遅すぎだとも言える。
それは、我が目を疑うほどはっきりと顕れたある異変。
サリュエルさまに向けられるはずだった私の視線は今、波打つシーツの上にある。そこにはサリュエルさまを覆うように、神々しい朝日から生まれ落ちた影一つ。私はその影を辿るようにゆるりと顔を上げていく。やがて焦点を結ぶように重なり合う視線。そこには拗ね顔ではなく、悪戯な笑み。
「ルークさま……もしかして……いえ、もしかしなくても……実体化を?」
「やっと気づいたか」
おっせぇーよ……と謂わんばかりの口調に、私はすみませんと小さくなる。
ほんとルークさまに言われるまでもなく、我ながら呆れるほどの愚鈍さだ。
これは言い訳にもならないが…………
魔眼を持つために、私には人に見えぬモノが見え、人に聞こえぬモノが聞こえる。しかもそれは、薄ぼんやりとなんとなく見えるのではなく、ここにしっかりいますと自己主張してくるかのように、はっきりくっきりと見える。そのせいで、前世の幼き頃の私はその事に戸惑い、『ここにたくさんの精霊たちがいるのに、なんで皆には見えないの?』と、両親や使用人たちを困らせ、あっさりと変な娘認定を受ける羽目となった。まぁ、そこは今更どうでもいい話だ。
では、明らかに見た目の大きさからして人とは違う精霊たちはともかく、それ以外のモノに対し人外であるか否かの判断を、私がどうやってしているのかというと、一つは影の有無。実体のないモノには、影も生まれないという単純明快な理屈だ。
そしてその声の聞こえ方も、まったく違う。実体化していれば、その声は耳から音として拾い上げるが、そうでないモノの声は、直接頭の中に響いてくる。
あとの判断要素としてはやはりその見目と、現れた場所、そして私の感覚ということになるのだが、今回の場合、影の有無と声の聞こえ方で、すぐに察して余りある状況だった。いくら、心臓に悪い目覚め方をし、冷静さを欠いていたとはいえ、ほんと言い訳にもならない。
うぅ……我ながら情けなさすぎる
まったく……驚いたり、羞恥に身悶えたり、困惑したり、凹んだりと、なかなか心臓に悪い朝だ。まだ朝だというのに、今からこんなに疲労困憊で、一日持つのか、私………と心配になる。
でも…………と、危惧していた怪奇現象だけはどうやら免れたみたいだと、私はホッと胸を撫で下ろす。と同時に、私の頭に降ってきたのは、ルークさまの大きな手。
「というわけだから、誰に見られていようが心配はない。まぁ、しつけぇくらいにお前との関係を聞かれたが、そこも適当に答えといたから問題はない」
くしゃくしゃと髪を掻き乱されながら告げられた内容は、私にとっては問題なくもないもので………
「て、適当って?」
「ん?俺はユリアの保護者だから、全然怪しくないってな」
「保護者なんですかッ?」
「そりゃ、そうだろう。保護したのは本当だし?」
「……………そう……です…ね」
うん……確かに私はルークさまに保護はされたんだと思う。ある意味、あの広場で…………。だけど、きっと、おそらく、いや絶対に、家主のおばさんはそうは理解していないはずだ。というか、何も知らないのだから、理解できるわけがない。
これはこれで、どうあのおばさんのお喋りな口を塞げばいいのか、新たな難問浮上に、私は内心で頭を抱え込む。
そんな内心の私の様子がまたまた透けて見えたのか、サリュエルさまから「ユリア……なんかすまんな」と同情を寄せられ、私は笑えていない笑みをそのままサリュエルさまに返した。
それを訝しそうに眺めていたルークさまが、こっちを向けとばかりに私の頭でポンッと手を弾ませる。促されるままに見上げたルークさまの顔は、何故かまた拗ね顔。不思議そうに見つめる私に、ルークさまは僅かに苦笑を滲ませ、切実な問題を口にした。
「それより当面の問題はだな………」
「問題は?」
「実体化したせいで」
「したせいで?」
こてんと首を傾げた私に、ルークさまは慌てたようにぷいっと顔を背けて、不機嫌そうにその先を告げた。
「……腹が減った」
わたわたと起き出し、髪に櫛を通すと、黒装束の上からエプロンだけをつけ、大急ぎで朝食の支度に取りかかる。
家庭菜園ほどの畑から収穫した季節の野菜をサラダとスープにして、切らしているパンの代わりに、常備している小麦粉でパンケーキを作る。そこにハムとチーズをのせて、塩コショウで味を調える。それでもまだお皿の上がなんとなく寂しいので、目玉焼きを添えて、ミニトマトを彩りにした。
それにしても………と、忙しい自分の心模様を思って、一人笑みを零す。
お母さんが亡くなり、今日からはまた一人なのね……と呟いたのは昨日の朝のこと。それが今は、一人どころの騒ぎではなく、カラス姿とはいえサリュエルさまと、会いたくて堪らなかったルークさまが傍にいる。それも神様なのに、実体化したせいで朝食をご所望だ。
今の私が作れる精一杯の朝食、ルークさまが喜んでくれるといいな………
そんなことを思いながら、手狭の部屋に置かれた申し訳程度のダイニングテーブルに、パンケーキが乗った皿を並べ、スープをよそう。それを物珍しそうに眺めているのは、絶賛空腹中のルークさまとサリュエルさまだけではなく…………
「ねぇねぇ、今朝は随分と豪勢な朝食だね」
「ふんわりパンケーキまであるよ」
「いつもはパンとミルクだけなのにね」
「カラスにはパンケーキなし?」
「カラスのスープは冷ましてあげてね」
などと、とても正直者で実は気配り上手な精霊たちも、我が家ではなかなかお目にかからない朝食メニューに、興味津々だ。
もちろんそれに対し、私は彩りに添えたミニトマト並みに顔を熟れさせて、スープ皿と一緒に言い訳ならぬ弁解を必死に並べ立てる。
「ほ、ほら、うちは女所帯だったし、朝からそんなに食べられないしで、敢えて作らなかっただけなのよ。それにパンケーキになったのは、お母さんが亡くなってからまだ買い物にも行けてなくて、パンが切れちゃってたからなの。あとサリュエルさまが、今はカラスの姿だから、少しのサラダとスープがあれば十分だと仰って……だからパンケーキがないのは、なにも意地悪とかじゃないのよ。スープはもちろん冷ますから心配しないで……」
「うんうん、ユリアは意地悪しないよね」
「でもお顔すごく真っ赤だよ」
「それにすごく早口」
「もしかしてユリア、プンプン?」
「えぇ、プンプンしちゃったの?なんでなんで?」
「きっとユリアも、お腹ペコペコなんだよ」
「そっかぁ、じゃあ早く食べて、プンプン直して」
いやいや、そうじゃないから……と声を大にして言いたいところだが、私も伊達に精霊たちと付き合っているわけではない。そもそも付き合いの長さでいえば、それこそ前世からとなる。ゆえに、悪気一つなく、純真にそうだと信じて発せられた精霊たちの言葉を訂正するのは、かなり骨が折れる仕事だということも知っている。
だいたい今回の件は、ただただ私が我が家の家庭事情をルークさまに暴露されて、恥ずかしかっただけに他ならず、精霊たちの言葉に嘘はないということだ。なので、むしろ必死に言い募るだけ、自らせっせと墓穴を掘っているのとなんら変わらない。
それにもう、ルークさまは空腹の腹を最大限に捻らせ、笑いの渦の中だ。こういうのを抱腹絶倒っていうんだろうな……なんてことが、完全に湯立ちきった頭にポッカリと泡のように浮かんでは、モクモクと立ち上る水蒸気となって消えていく。そして…………
「ルークさま、笑うなとは言いませんが、もう少し威厳を持ってですね……」
「カラス……うるせぇ………笑いに威厳もクソもあるか……」
と、こちらも既に平常運転となっており、私だけが一人恥ずかしがっていても仕方がないということだ。
ならば、今の私ができる唯一のことは…………
「さ、さぁ、お口に合うかわかりませんが、どうぞ召しあがれ……」
有無を言わさぬ、このカオスの終結宣言だった。
目の前の光景は、その麗しき見目には不釣り合いで、なんとも不器用なものだった。
それ以上に、なんとも微笑ましく、ある意味母性本能を擽られっぱなしで、私はいけないと思いつつも、どうにも堪えきれずに何度も何度も笑ってしまう。そうなると、テーブルを挟んだ向こう側に忽ちでき上がるのは、これまた可愛くしか見えない拗ね顔で…………
「ユリア、笑いすぎだ。食うのが下手なのは仕方ねぇだろ。初めて物を食うんだから」
「初めてなんですか?」
「まぁな、実体化ができることは知っていても、実際、実体化なんてしたことも、やろうとも思ったこともなかったからな。ほんと腹が減るのも初めての感覚で、マジで空腹で死ぬかと思ったよ」
そう言ってるそばから、ミニトマトをフォークで刺そうとして、皿の外へと飛ばす。それに軽く舌打ちして、ルークさまはテーブルをコロコロと転がるミニトマトを指で摘まみ上げると、そのまま口に放り込んだ。
その点、サリュエルさまは日頃から、鳥の姿とはいえ実体化をしているせいか、上手に嘴を使って食べている。こういうのもやはり慣れなんだな……と妙な感心をしてしまった私を他所に、ルークさまは美味しそうにトマトを咀嚼し呑み込んでから、しみじみと零した。
「でもさ、飯を食って旨いと感じることもいいもんだよな。実体化しなければ、俺たちは飯を食わなくとも、寝なくとも、歳も取らず、老いることもない。確かにそれは面倒がなくていいかもしれんが、その分、俺たち神は大事な何かを見落とし、掴み損ねているのかもしれない。たとえばさ、飯を食うことで満たされる腹と、満ちてくる幸せな気持ちとかさ………」
しかし、私の耳に止まったのは、最後の部分ではなく、実体化しなければ…というところで………
「ルークさま、あの不躾な質問で大変恐縮なんですが、実体化をしなければ、歳も取らず老いることもないんですよね。と…いうことはつまり………今のルークさまは……」
「俺の肉体は今、ユリア同様、時を刻み出したってことになるな。老いに向かって?」
なんてことを、まるで他愛もないことのように口にして、目玉焼きのど真ん中にフォークを突き刺している。とてもじゃないが、そうなんですか……と簡単に納得できる内容ではない。
「だったら、早くお召し上がりになって、さっさと実体化を解いてください!歳を取られて、老いられるってことは、寿命があるということですよね?それって、いつかはルークさまも死ぬってことですよね?そんなの絶対にダメです!」
「ご明察。だけど、なんでダメなんだ?寿命はユリアにだってあるだろ?ここにいるカラス……サリュエルにだってある。といっても、人間の数百倍以上はあるけどな。でも、終わりがないわけじゃない。そしてそれは、決してダメなことなんかじゃないはずだ」
ルークさまはそう告げてから、突き刺していた目玉焼きを頬張る。その顔は本当に無邪気で、満足げにも見えて、私はどう言葉を返せばいいのかわからなくなってしまう。そんな私に苦笑して、ルークさまは目玉焼きの味を堪能してから、再び口を開いた。
「なぁ、ユリア。俺は一応曲がりなりにも神だから、説得力の欠片もないかもしれんが………」
「曲がってなどいません。正真正銘の神です。その自覚はともかく……」
などと素早く突っ込みを入れたのはサリュエルさまで、「カラス、口を……じゃねぇ、嘴を挟むなッ!」と、ルークさまも間髪入れず打ち返してから、途切れかけた話の先を続けた。
「寿命があることは、何も悲しいことでも嘆くことでもない。限りがあるからこそ、その制限の中で必死に幸せを掴もうとする。飯を食うことにしたって、たとえそれが命を繋ぐだけの摂取にすぎなくとも、不味いものを口にするより、旨いものの方がずっといいと、人間は昔から創意工夫を重ね努力してきたんだろ?それを“欲”だと、我らが創造主の神は言うが、それを“欲”という一言で片付けてしまえるほど、俺は人間の心も単純じゃねぇと思ってる。だいたい“欲”を持つこと自体、悪いことじゃないからな」
「“欲”は……悪くないんですか?」
思わずそう聞き返した私に、ルークさまは深き碧眼をゆるりと細めた。
「“欲”にも色々あるからな。旨いものを食いたい……とか。夢を叶えたい……とか。金持ちになりてぇ……とか。もっと寝てぇ……とか?」
「最後のは明らかにルークさまの“欲”ですね」
「一々、嘴を突っ込んでくるなッ!野暮カラス!」
ルークさまの反撃にも、澄まし顔でスープを器用に啜るサリュエルさまに、ルークさまは「ったく……」と、呆れたようにため息を漏らしつつ三度、私へと視線を戻した。
「……でもさ、それを“欲”だと言わず、“望み”だと言えば、聞こえはいいだろ?人間は、命に終わりがあることを知っているからこそ、自らの“望み”を叶えるために、貪欲になる。その“望み”を明日に繋げるために、旨いものを食って今日をまた生きようとする。俺は、ユリアの作ってくれた飯を食ってそう思った」
微笑みすら浮かべてそう言い切ったルークさまは、覚束ない手つきで、今度は果敢にパンケーキを食べ始める。そんなルークさまの、不器用なナイフとフォーク使いを眺め思ったことは…………
やっぱりルークさまは、その見目はともかく、中身は全然神様らしくないな……
と、いうことで…………
だけど、こんな神様だからこそ、前世でも排除すべき魔眼である私を守ってくれたんだと改めて思う。
誰かに排除されるのではなく、自分自身の寿命を最期まで全うしろと、そのために“足掻け”、“諦めるな”と、ルークさまは何度も私の心を鼓舞してくれた。
その命の終焉は、お世辞にも報われたものではなかったけれど、その“望み”は今、前世から現世へと間違いなく繋がっている。
ならば私も、明日のために今日を頑張らなきゃね……と、皿の上のパンケーキに視線を落とすと、ヨシ!と気合いを入れてフォークとナイフを手に取った。が、その気合いは、突然の来客に空回りすることになる。
パンケーキを一口も口に運べないうちに、コンコンと突如鳴り響いたドアノッカーの音。妙に忙しなく叩かれたその音に、私の身体は小さく跳ねた。そして咄嗟に私の脳裏を駆け巡ったのは、ルークさまのことで………
狭い我が家には玄関なんて呼べるものはなく、ドアを開ければ、このダイニングテーブルが丸見えとなる。つまり現在、実体化しているルークさまも丸見えとなるわけで、私としては非常によろしくない状況なのだ。
もちろん居留守という手もある。だけど、朝のこの時間に、それもお母さんを亡くしたばかりで喪に服している私が、ここで居留守を使うには少々無理がある………気もしないでもない。
さて、どうしよう………
ドアとルークさまを交互に見やる私。
悪いことをしているわけではない。ルークさまを、絶対に隠さなければならない理由があるわけでもない。頭を捻れば、上手な言い訳の一つや二つ出てきそうなものだ。しかし、今の私にはその時間的余裕も、精神的余裕もない。
しかも、楽しい朝食の時間に鳴り響いた無粋なノック音は、忽ちルークさまの眉間に深い渓谷を作り出している。言い換えるまでもなく、ルークさまはご機嫌斜めということだ。
こんな状態のルークさまに、さすがに隠れてくださいとも言えず、私の視線はさっきからずっと、ドアとルークさまの間を、ウロウロしているだけとなっている。だが、痺れを切らしたらしいドアの向こう側から、直接声がかかった。
「ユリア、いるんだろ?ジルだ。開けてくれないか?」
ジルさんは、生前、お母さんが再婚を考えていた人で、一人になった私を不憫に思い、同居を提案してくれた人だ。
でも昨日、その同居話を断りに行く途中で、思いがけずルークさまと再会し、黒きモノに侵された母の魂を浄化へと導くため、私たちは悪魔とも戦った。その結果、私はジルさんの家にも行けず、意識なく家に帰るという不本意極まりない失態を仕出かしたのは、もはや記憶に新しいどころではない。
それにしても、こんなに朝早くからジルさんが家に来るなんて珍しい。きっと仕事前に立ち寄ったのだろうが、その声には普段の穏やかなジルさんからは、とても想像できないくらいの焦りの色が見える。
そして私は、その尋常ではないジルさんの焦りにあっさり釣られて、「はい、ちょっと待ってくださいッ!」と、うっかり返してしまった。 我ながらうっかりにも程がある。
しかし、返してしまったものは、今更取り戻すこともできず、私は助けを求めるように、彷徨くばかりだった視線の矛先をサリュエルさまへと向けた。
「ルークさま」
「はいはい……」
鶴の一声ならぬ、カラスの一声。
私の視線の意味を察したサリュエルさまがルークさまに声をかけ、ルークさまは実体化を解いた。といっても、魔眼の私にはくっきりはっきりと見えるわけで、不貞腐れたように頬杖をつき、そっぽを向いている様子までも、しっかりと見える。ただ、ルークさまが実体化を解いたと確信できるのはテーブルの上に落ちていた影が消えたからで、私は『すみません。ジルさんには、すぐに帰ってもらいますから』と内心で告げて、ようやくドアを開けた。
短く整えられたアッシュブラウンの髪。
人の良さそうな少し垂れたグレーの瞳。
私より一回り上にもかかわらず、見た目は年齢よりも若く見え、性格は優しくて穏やか。
普段のジルさんを形容するとこんな感じなのだが、今日のジルさんは違う。
まるで精霊たちに悪戯されたかのようにその髪は乱れ、その瞳は大きく見開かれているために垂れてもおらず、私がドアを開けたと同時に発せられた言葉と口調は、とても穏やかだと言えるものではなかった。
「ユリア!ミランダさんに聞いたんだが、昨日、意識のない状態で、保護者と名乗る見知らぬ男に抱かれて家に帰ったって、本当なのかッ!」
あぁ、そういうことか………と合点がいく。
ミランダさんとは、ルークさまがバッタリ会ったという家主のおばさんのことで、早速おばさんのお喋りが発動したらしい。
しかし、合点はいったが、その答えはまだ用意できておらず、私は案の定しどろもどろとなる。
「いえ、あの……それはですね…」
「まさか、まだその男が家にいるのかッ!」
「えっ?」
ジルさんの視線を辿るように振り返ってみれば、ダイニングテーブルに並べられた、どう見ても一人分ではない朝食と、サラダを啄んでいる一羽のカラス。
もちろん私には、その朝食を前にして、お預けを食らっているルークさまの姿も見えるが、ジルさんの目にその姿は映らない。それゆえに、我が家の朝食風景がより一層異様なものに見え、そんな質問になったのだろうと、ここでもテーブルの上を片付けなかった自分を軽く呪いそうになる。とはいえ、ジルさんらしからぬ剣幕に、私はたじろいだ。
「ミランダさんが言ってたんだ。その男の肩にはカラスが乗っていたと。あのカラスがそれだろ?それに朝食も二人分はある。男は奥の部屋かッ!」
「えっと……あのカラスは………って、ちょっと待ってください!ジルさんッ!」
私の制止も聞かず、強引に入ってきたジルさんが、奥の部屋のドアを開けた。そして、そこに誰もいないことを確認すると、今度は洗面所のドアを開ける。そこもまた無人を確認し、開けた勢いのままドアを閉めると、次は物置の扉に手を伸ばす。どうやら大小関係なく、家中のドアと扉をすべて開けて回る気らしい。
当然ルークさまは、ダイニングテーブルから、それを不愉快そうに眺め、サリュエルさまもサラダを啄むのを止め、目を丸くしながらクリリ首を傾げている。精霊たちはというと、自分たちの姿が見えないことをいいことに、ジルさんの後を一緒になって付いて回り、私は唖然と立ち尽くしながら、ジルさんの狂気にも見えるその行動を見つめていた。
これじゃまるで、奥さんの浮気現場の証拠を、必死に掴もうとしている旦那さんみたい…………
なんてことを考えて、いやいや私は奥さんでもないし……と、その馬鹿げた思考を振り払うべく、思いっきり首を横に振る。
だいたい、ルークさまが実体化して朝食を食べていていようが、責められることなんて何一つないのだ。そう思うと、ルークさまに実体化を解くお願いをしたことが、急に申し訳なく思えてきて、私はきゅっと手を握りしめた。
食器棚の扉まで開けて、やっと満足したらしいジルさんが大きく息を吐いた。誰もいないと自分の目で確認して、ようやく納得ができたのだろう。
そして、どこかに放り投げてきた普段の穏やかさも、一緒に回収してきたらしく、ジルさんは罰が悪そうにすごすごと戻ってくると「ごめん」と頭を下げた。
「仕事に行く途中に、ミランダさんに男の話を聞かされてね、ユリアのことが心配で心配で………朝から押し掛けた上に、大騒ぎして本当にごめん」
「いえ………」
「ほら、俺は生前に、君のお母さんから君のことを頼まれているからさ……居ても立っても居られなくてね。本当にごめん。だけど………なぁユリア、もうこんなことは懲り懲りだよ。一度はユリアの返事を待つと言ったけど、もう無理だ。一緒に住もう。引っ越しはゆっくりするとして、今日からここに泊まるようにするからさ。心配しなくても、ユリアの面倒は俺が最後まで責任を持って見るよ」
「最後まで……?」
「その意味がわからない?」
ジルさん熱を帯びた視線と言葉。
私も十六だ。その意味がわからないほど、子供でもない。
だけど、それを受け入れられない自分がいる。
その理由は言わずもがな…………
ジルさんの真剣な眼差しから逃げるように、私の視線はルークさまへと向かう。
一線となり、交わる私とルークさまの視線。
しかし、繋がった糸を断ち切るかのように、ふっとルークさまから目が逸らされる。そしてルークさまはゆっくりと立ち上がると、ドアを開けることなく、すり抜けるようにして奥の部屋へと入っていった。
ルークさま…………
私の心は、どうしてもルークさまだけを求め探してしまう。それこそ、私がこの世界で生きる理由なのだから仕方がない。五百年という歳月がとても残酷で、ルークさまにあの頃の記憶がないとしても……………
だから私の答えは端から決まっている。そもそもその返事を昨日しに行くところだったのだ。それを今、この場ですればいいだけのこと。
ならば……と、私はルークさまが消えたドアから、ジルさんへと視線を戻すと、そのグレーの瞳を真っ直ぐと見据えた。
「ジルさん、私は………」
「ユリア?」
不穏な空気を読み取ったのか、ジルさんの瞳が不安げに揺れる。それでも、私の決意は揺らがない。
「ごめんなさい、ジルさん。私はジルさんとは同居できません」
「何故?」
ジルさんの瞳に、怒りにも似た感情が宿る。しかし、それぐらいのことで怯んではいられない。
「私には内職もありますし、小さいけど畑もあります。一人ですから、食べることにも困りません。だから………」
「俺はそんなに甲斐性なしじゃないよ。ユリアの一人なら十分養っていける。それとも他に、俺と同居したくない理由があるとか?」
「それ…は…………」
答えはある。でもその答えを口にはできない。
思わず言い淀んだ私に、ジルさんのグレーの瞳が鈍く光った。
「昨日の男か?」
「違ッ…違いますッ!」
「ユリアッ!」
私の名前を叫んで、ジルさんの手が私の肩を鷲掴む。その刹那ーーーーーー……
バァンッ!
けたたましい音と共に、蝶番が外れてしまうんじゃないかという勢いで、奥の部屋のドアが開いた。
そこから出てきたのは、先程その部屋に消えたルークさまで、私はジルさんに肩を掴まれたまま、ルークさまを見つめ固まった。
ルークさま、もしかして……
という疑問は、口を衝いて出る前に呑み込んだ。
確認せずともわかる。今のルークさまは実体化している。その証拠に、ジルさんの瞳が間違いなくルークさまを捉えている。さらに…………
「さっきは確かに……誰もいなかったのに……」
ジルさんがポロリと漏らしたその言葉が、その事実を赤裸々に物語っていた。
私の困惑とジルさんの驚愕の視線も意に介さず、 コツコツと足音を鳴らし、近づいてくるルークさま。腰に剣をさげ、黒きコートを纏ったルークさまは、まるで黒騎士のようで、とても神様には見えない。
そんなルークさまの周りを、精霊たちが加勢を買って出るかのように飛び回るが、サリュエルさまの「カァーッ!」という一声に呼び戻され、不服そうにサリュエルさまの元へと集う。それに一切見向きもせずに、ルークさまは私たちへ歩み寄ると、私とジルさんの真ん前でその足を止めた。
「お前……どこに…隠れてた?」
ジルさんからのご尤もな問いかけ。その問いに、ルークさまは表情一つ変えずに答える。
「そっちの探し方が下手だっただけだろ?それともその目がただの節穴だったのか………それより、自分の思い通りにならねぇからって、おいそれと激昂してんじゃねぇよ」
そう言いながら、私の肩を掴むジルさんの手首を握った。と同時に、私の耳にまで届いた、ミシリと何かが軋む音。
「ッ!」
痛みに顔を引き攣らせたジルさんの手が、ルークさまによって私の肩から引き剥がされる。と同時に、私の身体はルークさまの腕に誘導されて、その背後へと回された。完全に私とジルさんの間へと身を滑り込ませたルークさまは、ジルさんの手首を離し、自分の背丈よりも五センチ程低いジルさんを見下ろしている。
ジルさんは解放された手首を擦りながらも、負けじとばかりにルークさまを睨み付けた。
「お前は誰だッ!」
「ミランダさんとやらに、聞かなかったのか?昨日、とある事情で、意識を飛ばしたユリアを保護した保護者だよ」
「ふざけるなッ!俺は、ユリアの母親から直接ユリアの面倒を頼まれてんだ!保護者を名乗るなら、この俺の方だ!」
「よくもまぁ、ぬけぬけと……誰がユリアの保護者だって?お前が求めてるのはその立場じゃねぇだろうが」
グッと唇を噛みしめたジルさんに、ルークさまがさらに畳み掛ける。
「確かあんたはユリアの母親と……って話じゃなかったのか?それとも、ユリアが美しく成長して、途中から母親ではなく、娘の方が欲しくなったってところか」
「………………」
「図星みたいだな。案外、ユリアの母親の憎悪は的外れじゃなかったってことか」
「なんの話だ!」
「悪いな。こっちの話だよ」
そう告げて、ルークさまは一歩前へと踏み出した。その威圧に押されるようにして、ジルさんは二歩後退る。
「ユリアの意志はさっき聞いたはずだ。そろそろお帰り願おうか。こちとら楽しい朝食の途中なんでな」
「お、お、お前になんの権利があってそんな……」
「権利?」
ルークさまは、ふと考える素振りを見せたが、それもほんの一瞬のことだった。
「誰かを守りたいという想いに、権利とかいるのか?」
「なッ……」
「そりゃ、堂々と如何なる時でも守れる立場ってやつはあるだろうさ。それを権利と言うなら、それはそうなんだろう。だがな、大事な誰かを身命を賭してまで守りたいと想うことに、大層な権利なんて要らねぇはずだ」
「ッ!」
「ユリアを心底守りたいと想うなら、守ってやればいい。母親に頼まれただのなんだの、そんな言い訳じみた理由付けもいらない。だがな、大事な人を守るってことは、決して養ってやるから同居しろと、相手の気持ちも考えず、嫉妬に狂った目で告げることじゃないはずだ。たとえそれが守るための一つの方法だとしても、そこに邪な男の欲が絡んだ時点で、その想いは穢れたも同じ。つまり、権利云々抜かす前に、あんたにはその資格もねぇんだよ」
「馬鹿げたことを言うなッ!だいたいお前は、昨日ユリアに会ったばかりだろ!ユリアのことを何も知らないくせに、出しゃばって来るなッ!」
「まぁな………確かに何も知らねぇ……な」
ドクンッ………
私の心臓が跳ねた音。
ルークさまの記憶がないとわかっていても、仕方がないと理解していても、私の心臓がその痛みに悲鳴を上げた音だ。
どうやら私の頭と心は仲違いをしているらしい。頭で理解しようとしていることを、心がそんなのは嫌だと拒絶する。
本当のことを言えば…………
覚えていて欲しかった。
待っていたぞと笑いかけて欲しかった。
でもこの痛みも、今、こうして会えたからこそだと、私は自分の心をいなし、前世から後生大事に抱え込んできた想いごと、胸を貫く痛みを抱きしめる。
しかし、そんな私にさらに届いたルークさまの声。
「あんたの言う通り、今の俺はユリアのことを何も知らない。そこのカラスの命令で、棚上げ中の案件でもあるしな。つーか、迂闊に考えるだけで、我が身が危険だし?」
「カラス…?棚上げ……?危険?」
まるでちょっとした呪文でも唱えるように、ルークさまの発した言葉を繰り返したジルさんの関心が、ダイニングテーブルで事の成り行きを見守るカラスことサリュエルさまへと向いた。ジルさんの心の中を覗き見ることができるならば、『あのカラスが命令?』と眉を寄せ、首を傾げているに違いない。
その怪訝しかないジルさんからの、不躾な視線を一身に受けたサリュエルさまは、丸い目を限界まで見開き、黒い身体が白く見えてくるほど、まるで石の彫刻の如くピシリと固まっている。そんなサリュエルさまの様子に、ルークさまは一人ククッと笑って「悪い。これもこっちの話だった」などと反省の色もなく告げ、あっさりとその笑いを霧散させた。
そしてその声は、突如として地を這う。
「だとしてもだ。知らねぇことがどうした。そんなもん今から知っていけばいいだけの話だ。それにな、今のユリアを守ると決めたのは、今の俺だ。昨日会ったばかりとか、過去がどうとか、前世に何があったとか、一切関係ねぇんだよ。今の俺がユリアをあんたから守ると決めた。ただそれだけだ」
ドクンッ!
再びルークさまの言葉に、私の心臓が大きく音を立てて跳ねた。
だけど先程のものとは明らかに違う。
これは痛みにではなく、心が喜びに打ち震えた証。
どうやら私の心はとことん自分の気持ちに素直らしい。
大事なことは………
過去ではなく、前世でもなく、目の前の今ーーーーー
昨日までの私は、この箱庭の世界でもう一度ルークさまと出会うために生きていた。それが、ここで生きる私の理由であり、糧だった。だけど、今は違う。
今の私はこの今を守りたいのだ。ルークさまと出会えた今を守り、その先の未来へと繋げたい。
“足掻け!” “諦めるな!”
五百年前のルークさまがくれた言葉は、今も私の中でキラキラと輝いている。五百年経とうが色褪せることはない。ならば、この今を守るために、自らの手足で足掻かなければ嘘だ。
「ルークさま」
そう思った瞬間、私の唇はルークさまの名前を形作りっていた。その声は躊躇いも迷いもなく、ルークさまに向けた瞳は、小さな揺るぎさえも許されないと、力を込める。
そんな私を深き碧眼に映したルークさまは、一瞬驚いたように瞠ってから、やがて何かを察しゆるりとその瞳を弓なりに細めた。
「そうだな。ユリアは守られるだけの弱い人間じゃなかったな」
「はい!」
「悪魔相手にも喧嘩を売れる奴だった」
「売ってません!」
そうだったか?とルークさまがクスクスと笑う。今度は私がそれに目を細める番だ。そして、ルークさまは少し横にずれながら後ろへと下がると、さぁどうぞとばかりに、恭しく手を差し出し私に場所を譲った。またそれがその麗しき見目ゆえに、とても様になるのだから、私の心臓は休まる暇がない。しかしここは跳ねっぱなしの心臓をなんとか宥めすかし、私はしっかりと頷いてから、ルークさまの前に出た。ジルさんと再び対峙するために。
「ユリア……」
さっきまでとは打って変わって、頼りなげにも聞こえるジルさんの声。きっと、私とルークさまの会話の意味がわからないことも、その要因の一つだと思うが、それを懇切丁寧に説明する気はない。というより、説明したところで、ジルさんは一生かかっても理解できないと思う。もし、理解できる時が来るとしたら、それはお母さんのように魂になってからの話だ。だから、私の口は伝えるべき言葉だけを、唇にのせる。
「ジルさん、母の生前からのご厚意には感謝しています。でもジルさんの提案に、お応えすることはできません。私は守られたいんじゃない。この大切な今を、自らの手で守りたいんです。だから、ごめんなさい。私はジルさんとは同居できません。ジルさんはジルさんの未来を生きてください」
そう告げて深々と頭を下げる。
勝手なことを言ってる自覚は大いにある。しかも、私が大切にしたい今に、ジルさんは含まれていないと明言しているようなものだ。
頭を下げた視線の先には、小刻みに震えるジルさんの握り拳。私はそれで殴られることも正直覚悟した。しかし私の頭上に降ってきたのは、ジルさんの感情を押し殺した声。
「ユリアの大切にしたい今とは、その彼と生きる今なんだね?」
もちろん、その答えは私にしてみればイエスだ。しかし、相手は神様。実体化さえしなければ、永遠の命さえも約束された神様と、生涯、同じ時を過ごすなんてことは土台無理な話。
それでも、この今だけは………と、私はゆっくりと顔を上げると、すぐ後ろに立つルークさまには、自分の顔が見えないことをいいことに、ジルさんの質問の答えとして、そっと微笑んだ。
ジルさんはそんな私の顔を見つめ、それから私にとってもやはり顔が見えないルークさまへと視線をやってから、もう一度私に視線を戻す。そして、苦笑にも呆れにも見える表情で「そっか……わかった」と呟き、一人出ていった。
ジルさんが立ち去った後の部屋に残ったものは、ちょっとした安堵感と僅かな沈黙。しかし我が家では、沈黙はすぐさま精霊たちによって破られると相場が決まっており………
「ねぇねぇ、もうあの人、来ない?」
「今度来たら、水かけちゃう?」
「それより、パンケーキ冷え冷えだよ」
「スープも冷え冷え~」
と、あっという間に平常運転だ。
その精霊たちの声に対して、「もう大丈夫だと思うよ」……やら、「そんな事言わないの」……やら、矢継ぎ早に返しつつ、私はルークさまへと向き直る。だけどそこには、少し拗ね顔のルークさまがいて、私は今回のお礼を伝える前に、何故拗ね顔?という疑問を前面に押し出しつつ、こてんと首を傾げた。
「あの……ルークさま?」
「ったく……このモヤっとした感じは何なんだろうな」
「えっ?」
むっとした顔を隠しもせず、さっぱり意味がわからないと不服そうに告げられた台詞。
それはこっちの台詞です、と言いたいところだが、どうやらルークさま自身、自分の拗ね顔の理由を掴みきれずにいるらしいことだけはわかった。それを、先程のジルさんの問いかけに、端から見れば無言にしか見えなかったことによるものだと、ふとそんな淡い期待を持ちそうになるが、私もそこまで図々しくもない。
したがって、このルークさまの拗ね顔は、パンケーキとスープが冷めてしまったせいだと自己完結して、私は「ルークさまがあの時出て来てくださって、嬉しかったです。ありがとうございました」と、本来真っ先に口にすべきだったお礼の言葉を伝えた。
ルークさまもそれにようやく笑みを見せて、「ヨシ、飯食うぞ!」とダイニングテーブルへと戻っていく。そして……………
「おい、カラス。さっさと食って、さっさと棚上げ案件を説明しろ。ユリアが起きるまではダメだって、昨日からずっとお預け食らってたんだからな。いい加減俺も限界だ」
と、再びサラダを啄み始めたサリュエルさまを睨み付ける。それに対しサリュエルさまは、ひょいと顔を上げると、ルークさまをまじまじと見つめてから、今度はあからさまにため息を吐いた。
「なんでここでため息だッ!」
「そりゃ、吐きたくもなるってもんです。ユリアが目覚めてすぐに、腹が減ったと朝食を優先させれたのはどこのどなたですか?だいたい、ユリアを運んでからすぐに実体化を解いておけば、お腹が空くこともなかったはずです。なのに…………」
「う、うるさいッ!ちょっと解くのを忘れてただけだッ!」
「寝すぎによるボケが進行中ですか。その内、私のことも“お前誰だっけ?”とか言いかねないボケっぷりですね。まったく死神がボケるなんて聞いたこともありませんよ」
「サリュエルッ!」
すっかりこちらも平常運転(?)となったようで、私はクスクスと笑いながら、せめてスープだけでも温め直そうとスープ皿に手をかけた。が………今日の我が家は、とにもかくにも私の心臓には優しくないらしい。
部屋の隅にある古い振り子の柱時計。
時計としての機能はなんとか果してはいるが、定刻を知らせる鐘は数年前から鳴らなくなっていた。なのにーーーーー……
カァーン……カァーン……カァーン……カァーン………
と、高らかに鳴り響き、部屋の空気を震わせる。それも、定刻でないにもかかわらずだ。
「どうして……ずっと鐘は壊れていたのに……」
私にしてみれば摩訶不思議な状況。しかしルークさまとサリュエルさまにすれば、頭を抱え込みたくなる状況だったらしい。
「マジか……」
「マジ……みたいですね」
「カラス、ちょっと確認してこい」
「わ、私がですかッ?そんな恐れ多いこと……」
「いい。許す。なんならその時計ごと放り出してこい」
「いやいやいや、そんなことできませんからッ!」
「なら、ここで叩き斬るか。そいつの名前も知れてることだし、この剣でも十分斬れる」
「いやいやいやいや、物騒なこと言わないでくださいッ!」
ルークさまとサリュエルさまの、保身に走った地味な攻防戦。それを背中に聞きながら、私は部屋の隅に置かれた振り子の柱時計へと歩み寄る。
私の身の丈程ある我が家にしてはそこそこ立派な柱時計。お母さんの話によると、赤ん坊の私を連れてこの家に越してきた時には、もうここにあったらしい。
一体何時を知らせてくれる気なのか、未だに鳴り止まない鐘の音に、私は懐かしさよりも不思議な印象を受ける。
こんなに綺麗な音だったっけ…………
壊れていたとは思えぬほどの、淀み一つない澄んだ音。それはまるで大空へと鳴り響く教会の鐘の音のようで、私はこれが俗にいう怪奇現象であることも忘れ、引き寄せられるままに柱時計へと手を伸ばした。
規則正しく揺れ動く振り子。アンティークとまでは言わないが、それでも年季の入った色合いの木目がいい味を出している。でも、この木目……ここまで光沢があったかな?……なんてことを思いながら、その木目を辿るようにして指でなぞる。すると……………
「ひゃははははははははッ!」
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!」
「ユリアッ!そいつから離れろッ!」
ルークさまの声に従い、私は柱時計から離れ、ルークさまの元へと駆け寄った。そしてそのまま、またもやすっぽりとルークさまの背に隠されてしまう。
それにしても、大爆笑をし始めた柱時計を前にして悲鳴でなく、驚愕の声を出した自分の逞しさに心底呆れてしまう。
ダメだ、私………
もう何が来ても、平気な気がする………
我ながら、妙齢になろうかという女性としてどうなの……と落ち込みそうになるが、ここで悲観してても仕方がないと、さっさと気持ちを切り替える。
ちなみに柱時計はというと、笑い声と同時に鐘を打ち鳴らすのを止め、今はとにかく笑うことに忙しいらしい。おそらく、材質が硬い木でなければ、今頃床を転げ回っていたに違いない。
だけど、直立不動で大笑いする柱時計は不気味というか、やはり異質で、普段姦しい精霊たちも、怖そうに遠巻きで眺める始末だ。そんな自分の異様さにようやく気づいたのか、柱時計は粗方笑ったところで、息も切れ切れにちょっとした言い訳をしてくる。
「ユ、ユリアが………指で撫でたとこ……ちょうど俺の……ウィークポイン……トでさ……思わずゾゾゾって…感じちゃって……」
「ご、ごめんなさい!私、知らなくて……」
柱時計のウィークポイントなんて知ってる方がおかしいが、ルークさまの背中から咄嗟に謝った私に、ルークさまがすかさずフォローを入れてくれる。
「ユリアが謝る必要なんてねぇよ。元々こいつが上戸なだけだ。だいたい、感じて笑うって変態かッ!」
「あははは………変態…って……俺とは無縁な言葉だ……」
「それだけ笑っといて、どの口が言うんだ!」
「クククッ…ルークの突っ込み……久しぶりで……なん…か…新鮮……あぁ…ダメだ……笑いすぎでまた時間がぶれる」
「なら、笑うなッ!」
「だ、大丈夫……そこら辺の調整……つーか、帳尻合わせは……な、慣れてる……」
「慣れるなッ!それは“時の神”としてどうなんだ!」
「自堕落な生活態度の死神にだけは…言われたくないよ」
「お前な………」
なるほど………この柱時計は、いや、この柱時計の中にいるのは、ルークさまのお知り合いの“時の神”様で、とてつもなく笑い上戸らしい(変態並みに)。しかも、笑いすぎて、時間をぶれさせることもしばしばあるらしく、その微調整ももはや手慣れたものだそうだ。
とはいえ、ずっと笑って、喋っているのはウチの柱時計なので、もしかしたらウチの柱時計こそが神様だったのかもしれないと、半ば真剣に思い始めてくる。
しかし、この怪奇現象にしか見えない光景を正したのはサリュエルさまだった。
「クロードさま、その辺でお姿をお現しになったらどうですか。ユリアを驚かせたばかりじゃなく、怖いもの知らずの精霊たちでさえも、すっかり怯えてしまっておりますよ。それとも、暫くお姿を見ない間に、すっかり柱時計になってしまわれたのですか?もし、そうでないなら、お戯れも程々になさってくださいませ」
見た目はカラス。でもその正体は大天使だけあって、その声も、立ち姿も、凛としていて非常に頼もしい。ただ場所が、ウチのダイニングテーブルの上というのが、なんとも申し訳なく、残念なだけだ。
そんなサリュエルさまの窘めに、柱時計ことクロードさまは「はいはい、サリュエルには敵わないね」と、怒るでもなく、むしろ楽しげに答えて、ようやく完全にその笑いを呑み込んだ。そして……………
振り子の柱時計が大きく脈打った。そう見えた。だが、実際起こったことは、柱時計にとんでもなく美しい顔と、手足が生えただけだ。
とどのつまり、胴体はウチの柱時計ということになる。
「これでどうかな?」
「…………ど、どうかなと言われましても……」
えぇ……と、まさか本当に?
我が目を疑うとは、まさしくこういうことを言うのだろう。
ルークさまとは正反対の、眩しいほどの金色の髪に、明るいグリーンとブルーのオッドアイの瞳。口元に優しい笑みを湛える柔和な顔立ちは、見ているこちらまでをも微笑みに変える魅力を放つが、その身体はとにかく驚きと笑いしか生みそうにない。
「…………なぁ、カラス。あれは叩き斬ってもいいだろう」
「………えぇ、許可します」
正式にサリュエルさまからの許可を得て、ルークさまが腰の剣に手をかける。それを見た瞬間、クロードさまの顔が引き攣った。
「ちょっ、ちょっと待ってよ!ルークの剣じゃ、真っ二つ確実じゃないか!まったく冗談も通じないんだから……」
などとぶつぶつ文句を垂れながら、慌ててウチの柱時計からするりと出てくるクロードさま。早い話、先程、実体化を解いたルークさまが、ドアのすり抜けをしたのと同じ原理で、クロードさまは実体化していないだけだ。
それにしても………と、ルークさまの背中からこっそり覗き見て思うことは、ルークさまといい、クロードさまといい、神様というモノは本当に世にも美しい存在であるらしい。
前世でルークさまに初めて会った時にも感じたが、その神々しさはやはり人外なモノであるが故なのだろう。
ちなみに、召されているその服装もまたルークさまとは真逆で、白を貴重とした装束を纏い、優雅さを備えた貴公子といった風情だ。この姿だけ見れば、とても上戸の変態には見えない。
「やぁ、ユリア。大きくなったね……って言うのも変かな。俺が君に会ったのは、君が光の加護を存分に受けた魂の頃だったからね」
「えっ?魂……?」
ひょいとルークさま越しに覗き込まれ、尚且つ記憶にない魂の頃の話をされて、思わず面喰らう。そんな私にニッコリと笑って、クロードさまはあっさりとルークさまに視線の矛先を変えた。
「ユリアの手前、頑張って平気な顔してるようだけど、本当はそこら中、痛むんだろ?」
「なっ!」
ルークさまが答えるよりも前に、思わず漏れた私の驚きと心配が入り混ざった声。その声に、ルークさまは「心配ない」と肩越しに答えてから、クロードさまを見据えた。
「そんなことより、なんでここに現れた?」
「あれ?ご挨拶だね。さっき鐘を鳴らしたはずだけど?」
そう言ってクロードさまは踵を返すと、窓際に置かれた硬いソファーに、なんの躊躇いもなく腰を下ろした。流麗な仕草で長い足を組み、ふわりと微笑む様は、その味気ない背景と貧相なソファーさえも優美に魅せ、どこぞの巨匠が描いた一枚の美しき絵画のようだ。
そしてその微笑みを私たちに向けながら、たおやかに告げる。
「鐘は“時”の訪れを告げるもの。そう、今まさに、ルークとユリアに“知るべき時”が訪れたということだよ」
お日様はまだ目覚めたばかり。これから天辺目指して昇ろうかという時間だ。なのに我が家は千客万来の大賑わい。昨日までの日常はそこにはなく、私の待ち焦がれた今がここにある。
だけど、突如としてウチの柱時計から現れた“時の神”クロードさまは、この今を守るための救世主なのか、それともそれを壊す破壊者なのか………。その言動は、ただただ私の心臓を早鐘のように打ち鳴らす。
どうやら私の心臓に悪い日常は、まだまだ当分終わりそうにない。