3. 死神の混乱と困惑の日常
おいおい、この状況は一体何なんだ………
俺のすぐ横には黒き醜悪の衣を纏った女。
その女と俺の視線の先には、どうやらこの女の娘らしい黒装束の少女。
しかもこの少女には、母親であるこの女だけでなく、死神の俺の姿まで見え、さらには何故か俺の名前まで知っているらしい。
これは幻覚か?さっきのはあれは幻聴か?
はたまた俺は夢でもみているのか?
死神が聞いて呆れるが、夜の色をそこかしこに滲ませ始めた空をふと見上げ、ちょっとした現実逃避をしてみる。
うん、これは夢だな
カァーッ!
んなわけないでしょッ!と謂わんばかりのカラスの鋭い一鳴き。いや、もしかしたらこれは……先ずはさっさと仕事を終わらせてくださいッ!……の方かもしれない。
どちらにせよ、こちらの様子を窺うためか、カラスは旋回しながら高度を下げ、先程よりも随分と低空飛行となっており、もうすぐここまで降りてきそうな勢いだ。
なら、さっさと降りてきて、先ずはこの状況を俺に説明しろよ!
俺は今、寝てるのか起きてるのかどっちだッ!
これが夢でないなら一体何なんだ?幻覚か?
だとしたら、俺は過労死一歩手前の働きすぎだ!
頼むから、まじで寝かせてくれ………
ここぞとばかりに内心で垂れる文句。
当然カラスにかかれば、むしろ寝すぎでボケてるだけですッ!と断言させるのがオチだが、それならそれで、寝ぼけてんならしょうがねぇな……と、ある意味あっさりと納得もできる。が、これが夢でも幻でもないのなら、この状況はどうにもこうにもとにかく解せない。
いや、違うな………
と、ため息に綯い交ぜた笑みでそれを打ち消す。
俺はその答えを知っている。
すべての疑問をその答えで補うのは無理だが、少なくともあの少女に、死神である俺とこの醜悪の衣を纏った女が見える理由については説明ができる。にもかかわらず、その唯一の可能性を何故か口にしたくない俺がいる。
そんな自分こそが、今の俺にとって一番不可解であり、俺自身をどうしようもなく混乱させるのだ。
魔眼ーーーーーー。
この世界のすべてを見通す存在。
それ故に、創造主が最も恐れ、この箱庭の世界から排除すべきだとされる存在。
死神である俺も、その排除の命を受けている。
だが今まで俺は、この魔眼を持つ者に会ったことはない。五百年前に、他の神々の手により排除されたと話で聞いただけだ。
そう…聞いた…だけ……………?
「くッ!」
何か異物を口に含んだような感覚となり、その異物の正体を確かめようとした瞬間、突如として全身に激痛が走る。
まるで俺の五体が引き裂かれるような痛み。
「ルークさまッ!」
「ルークさま、大丈夫ですかッ!」
カラスが俺の足元に舞い降り、少女が駆け寄ってくる気配を感じつつも、その激痛に思わず剣を支えにして地に膝をつく。
しかし、死神がこれほどまでの痛みを感じるとは……と苦痛に顔を歪め、驚愕と困惑に身を投じながらも、すぐ傍に感じる少女の気配に、やはり幻覚でも幻聴でもなかったなと、どこか冷静に再確認している俺もいて、我ながらなかなか図太い。
しかも、聞こえてくる声と気配はカラスと少女以外にもあり………
「あれれ?ルークさま痛い痛い?」
「ルークさま、苦しそう?」
「ユリア、痛いの痛いの飛んでいけってしてあげて」
俺の名前は、結構巷で出回っているらしい。知らぬは本人ばかりなりだ。そしてこの賑やかしい声のおかげで、この少女の名前がユリアだということも判明した。
それにしてもこの声の奴らは……と痛みをなんとかやり過ごしながら思ったところで、その答えは意外な場所からやってきた。
「ユリア……転生したんだな。周りの精霊たちがうるさいのは相変わらずか」
カラスの喜色すらまじる声音。その声に呼応するように少女ユリアの声にも僅かに喜色がのる。
「サリュエルさまですね。カラスの姿をされていたんで気づきませんでした。また、お会いできて嬉しいです」
「そうか……約五百年ぶりだな」
「はい……再び…この世界に………」
五百年………?
カラスの口から語られた“五百年”という数字に、確か俺もさっきこの数字を脳裏で巡らせた気が……と思うが、そう思っただけで再び身体中を駆ける激痛にその思考は即座に遮断される。
「つぅッ!」
咄嗟に唇を噛み締めることで、声を押し殺す。
さすがに、どんなに痛かろうが、痛い痛いと泣き喚くことだけは死神としての俺の矜持が許さない。
とはいえだ………
クソッたれがッ!
この痛みは何なんだッ!
行き場のない悪態を内心で盛大に吐く。
だいたい俺たち神の身体は、人間たちに見えないように普段から敢えて実体化させていない。言い換えれば、その気になれば、いくらでも実体化できるということだ。したがって、霊魂のような不安定さはなく、しっかりとこの世界に存在している身なので、物に触れようと思えば好きなだけ触れられるし、地面を歩くことだって普通にできる。ただ実体化していないので、飯を食わなくとも平気だし、老いることもなく、痛みも感じなければ死ぬこともない。それなのにだ。
「サリュエルさま、ルークさまは大丈夫なんですかッ!それにそこにいるのは私の亡くなった母なんです!昨日、お葬式をしたばかりの……なのに何故こんな黒いモノに………サリュエルさま、ようやく再会してご挨拶もままならぬ中、大変申し訳ございませんが、私に今の状況をお教え頂けないでしょうかッ!」
尋常ではない俺の様子と己の母親の姿に、ユリアの焦燥と不安が口早の声に露になる。
しかし問われた当のカラスは「まさかユリアの母親だったとはな……」と痛ましげに呟きはしたが、そこで待つようにとユリアに告げた声は、何故かとても飄々としており、俺のこの状況も含めすべてを察しているかのようだった。
それからカラスは俺へと歩み……は寄れないので、雀の如き跳ねっぷりでチョンチョンと近づき、首を傾げながら俺の顔を覗き込む。
端から見ればその仕草はとても可愛く見えるかもしれないが、今の俺にとってはただのムカつくだけのカラス。しかも俺の従者でありながら、俺に隠し事をしているとんでもないカラスだ。
したがって、俺の声が地を這ったのは、何も痛みのせいだけではない。
「おい、カラス……お前、何を隠してる?」
「隠しているわけではありませんよ。その時が来るのを待っていただけです」
「物は…言い様だな」
「褒め言葉として承っておきます。それで、痛みの具合はどうですか?」
「死にそうだよ……」
「死神が死ねばただのお笑い種ですよ」
「お前…な………」
と、カラスの減らず口に文句を重ねようとしたところで、「死神……?」と問いかけにしては小さく、独り言にしては疑問を目一杯に含んだ、ユリアのか細き声がそれを止めた。カラスはハッとしたように、一旦俺との話しを切り上げると、身体ごとユリアに向き直り、「ルークさまは大丈夫だ。何も問題はない」と、医者でもないくせにそうキッパリと言い切りやがった。もちろんそれに異を唱えるのは激痛に悶絶中の俺で………
「おい、コラ……これのどこが大丈夫…なんだ……」
「大丈夫だから、大丈夫だとユリアに伝えたまでです」
「だから、これのどこがッ……」
「ルークさま、今は何も考えてはいけません」
「はっ?」
カラスの言葉がすんなりと入ってこず、俺から突拍子もない声が漏れ出た。が、そんな俺などお構いなしにカラスは続ける。
「今、ルークさまがユリアのことについても、ご自身の身体を襲う痛みについても訳がわからず、必死になってその答えを考えていらっしゃることはわかります。でもいくらここで考えたところで、おいそれと答えが出るようなことではございません。なので、ここは一先ずわからないことはわからなくて当然と、お得意の棚上げをなさってはいかがですか?」
「お得意の……棚上げって…お前な……」
「お得意でしょう?五百年間もそうなさってきたのですから、今更ではごさいませんか。ならば、これまで通りわからないものはわからない……覚えていないものは覚えていないと、さっさと棚に上げてお捨て置きください。これらについては後程、私がすべてご説明いたしますから」
「ほん…とう……だな………?」
「えぇ、ようやくその時が来ましたからね」
おそらく今のカラスはニッコリと笑っているに違いない。わざわざ違いないと言ったのは、なんせ相手は表情筋乏しいカラスだからだ。笑顔なんだか、企み顔なんだか、正直さっぱりわかりゃしない。
だが、後で説明するからと棚上げ許可のお墨付きまでもらい、俺も存外単純なもので、ならばお言葉に甘えて……と、面倒なことは棚上げという悪癖を敢行することにする。とはいえだ。右から左へとそう簡単に思考を切り替えられるほど、俺もそこまでおめでたい野郎ではない。カラスもそれがわかっているが故に…………
「ルークさまが先ず考えなければならないことは、ユリアの母親のことです。せっかく執着の鎖をお切りになられたというのに、このまま放置されて闇に呑まれるのを待つおつもりですか?それを娘のユリアにお見せになられるおつもりですか?」
「んなわけ………」
「ならば、さっさと死神としてのお仕事をなさってください!すべてはそこからですッ!」
いつもの仕返しなのか、倍返しなのか、ここぞとばかりに痛いところを突いてきやがる。それでなくとも、こちらは全身激痛だというのにだ。だが不思議なもので、これが俗にいうショック療法だったのか、堪えられない激痛から、なんとか立ち上がることができる痛みへとまるで潮が引いていくように凪いでいく。
あぁ……まったく……
お前は喰えねぇカラスだよ
しかし、その意見には乗ってやる
さぁ、お仕事再開といこうか………
「カラス……あとで覚えとけよ」
「どうでしょう。なんせ鳥頭なもので」
「……都合のいい頭だな」
ゆらりと剣を杖代わりにして立ち上がり、俺は足元のカラスを睨み付けた。そんな俺に竦み上がるどころか、なんとか立ち上がった俺を、カラスは満足げに見上げてくる。
ったく、しょうがねぇ奴な……と、内心で苦笑を零してから、俺はその視線をスライドさせ、改めてユリアと呼ばれる少女を見据えた。
「ルークさ…ま……?」
俺の名を心配そうに口にする少女。
周りには姦しい精霊たちを侍らせ、母親の喪に服しているため黒装束ではあるが、辛うじて立っている俺なんかよりもずっと本物の神に見える。
さらにその容姿は幼げにも見えるが、淡い金髪に澄んだ空色の大きな瞳がとても印象的で、きっと微笑めば、花が咲いたように可憐だろうな……とも思う。もしかしたら俺は以前、そんな笑顔を見ていたのかもしれない。もちろんこれは俺の想像でしかないのだが………
しかし今のユリアの顔には不安の色しかなく、それが無性に残念に思えて、俺はそこから目を逸らすようにユリアの母親である女へと視線の矛先を変えた。
俺など眼中にないとばかりに、ユリアだけを凝視する女。現世に執着する鎖は断ち切ったにもかかわらず、動く気配すら見せない。それはつまり、愛する者から憎しみの対象へとすり変わったユリアが今、女の目の前に現れたせいだろうと勝手に推察する。ならば、どうするか……………
「なぁ…何で動かない。俺はあんたに“切った”と伝えたはずだ。それとも、そこから動けねぇ訳が他にできたってことか?」
俺の声に目だけを動かし、ようやく俺を見た女はむしろ不思議そうに問いかけてきた。
「ねぇ……どうすれば…ユリアを連れて行ける…の?その娘をここで…殺せばいい?それとも……殺さずとも連れて……行ける?」
「何故、そんなに連れて行きたがる?」
「私が死んだのに……その娘だけ…生きてるなんて…狡いわ」
「お母さんッ!」
ユリアの悲痛な声も、醜悪の衣に汚染された女の魂には届かない。それどころか、愛の女神イリーナが与えた愛の祝福に仕込まれていた憎悪の種は、今まさに禍々しいほどの大輪の花を咲き誇らせ、女の顔に醜き笑みを浮かばせている。
そして女は獲物を定めたように目を眇め、動いた。
ユリアが欲しいと、女の手が伸び、あれほど動かなかった女の足が勢いよく踏み出される。
「ルークさまッ!」
「わかってるッ!」
カラスの声に反射的に返し、素早く女の喉元に剣先を突きつけ、その動きを封じた。
正直、身体の痛みはまだある。だが、動けないほどでもない。それこそこの女の魂を狩り取ることなど朝飯前だ。
しかし、イリーナにも言ったが、それはあくまでも最終手段であって今ではない。つまりまだ女の魂を救う手立てはあるということだ。ただその手立てが少々気に入らないだけで…………とはいえ、もう背に腹はかえられない。
「ユリア!」
俺の背後で、カラスと精霊たちに守られているユリアに声をかける。そのユリアからは………
「はい!ルークさま」
と、大変いいお返事。それに口端を持ち上げながら、剣を女に差し向けたままで背中越しに伝える。
「今のお前の母親の状況を簡単に説明するが、生前のユリアへの愛情が、己の死を受け入れられないがために、憎しみへと変貌した。しかしまだ、お前の母親の魂は救うことができるかもしれない」
「つまりそれは……浄化によって現世の記憶と穢れが消され、縁深き人の傍にまた生まれてくることができる……ということですね」
「………そうだ」
そう返事をしつつ、俺は驚いていた。
ユリアがこの箱庭の世界における魂の循環システムを理解していることに。だがそれも、今は考えることはしないと、そのまま棚上げを決め込む。
「そこでだ、ユリアに頼みがある。お前も見て、聞いていたからわかるだろうが、お前の母親はお前の魂も一緒に闇へと引き摺り込もうとしている」
「ッ!」
ユリアの小さく息を呑む気配を感じたが、振り返ることなく話を続ける。
「だが、愛情が憎しみに変わったのなら、もう一度その憎しみが愛情に変わるようにしてやればいい!」
「ルークさま……」
「ユリア!お前の母親に思い出させろ!どれほど愛情深き母親だったのか、ユリアはそんな母親と一緒にいてどれほど幸せだったのか、全部思い出させてやれ!」
「はいッ!」
背中の向こう側から聞こえてきた迷いなき返事。
そこに続くのは精霊たちからの応援。
「ユリア、頑張れ」
「ユリアならできるよ」
「でもお母さん、普通じゃないから気を付けてね」
「いざとなったら僕たちがいるから大丈夫だよ」
ユリアに群がり口々に激励やら心配を繰り返す精霊たちに「お前ら少し静かにしておけ」と、カラスからの注意が飛ぶ。が、すぐさま「カラスが一番声がデカくてうるさい」と容赦ない返り討ちにあっている。
それを背中で聞きながら、俺は妙な懐かしさを覚え、また全身を疼かせた。
夜の闇が星々を連れ、完全に空を占領するまでの僅かな時間。西の空を焦がしていた太陽も今や反対側の世界へと落ちてゆき、その残り火だけが闇をうっすら茜色にぼやかせている。
寂れた町の広場に灯り始める電灯。
ゆっくりと歩み出て、俺の隣に立ったユリアの横顔を静かに照らす。
そのユリアが真っ直ぐ見つめる先は、俺に剣を向けられ、その動きを封じられた黒き醜悪の衣を纏い、憎悪に染まった己の母親。その目は既に娘を見つめる母の目ではなく、憎き獲物を狩ろうとする歪んだ敵意に満ちている。
自分の母親とはいえ、ここまでの憎悪を隠しもせずに向けられれば、恐怖にかられないわけがない。横目でチラリとユリアを見やれば、案の定と言うべきか、その横顔は恐怖に色を失い、微かな震えと強張りを同居させている。
それでも気丈に変わり果てた母親を想い、ユリアはずっと胸に抱きしめていた想いを一つ一つ言葉に変えながら、健気にも慎重に紡いでいく。
「お母さん……覚えてる?私の誕生日には、年に一回の贅沢ができる日よ……って、私の大好きなミートパイ作ってくれたよね。お母さんの誕生日には、私がいればそれだけで十分だからって、お祝いらしいお祝いもさせてくれなかったのに……私の誕生日だけはいつも祝ってくれて………私たちずっと母娘二人で、決して生活は楽ではなかったけど、楽しかったよね」
「………………」
「お母さん……今だから言うけどね。私には前世の記憶があるの………ちゃんとすべてを思い出せたのは十歳の頃だったけど……私ね……前世ではずっとずっと一人で、実の両親にも……誰にも愛されていなかったの………」
ユリアの話を隣で聞きながら、前世という言葉を拾い上げ、そういうことかと一人納得する。しかし、そこでやめときゃいいものを…………
そうか……さっきもカラスが転生云々と言っていたが、どうやらユリアと俺は前世で会っていたらしいな。道理で俺の名前を知っていたわけだ。だが、そうなってくるとユリアの前世での魂の浄化は…………
と、再び思考の波に浚われそうになり、それに待ったをかける勢いで脳天から激痛が一気に貫く。
クソがッ!
剣を落とすことも地に膝をつくこともなく、なんとか眉間の皺を深くする程度で誤魔化せたが、己の学習能力のなさにウンザリする。というより、カラスの説明を待たずして、さすがの俺もいい加減わかってきた。
誰が俺の身体をこんなにしたかは知らんが、俺の記憶は特殊な力によって封じ込めれられているらしい。それもユリアに関することすべてが………
しかし、幸か不幸かこの五百年間、こんな激痛を味わうことなく呑気に過ごせてきたのは、この世界にまだユリアが転生していなかったためと、面倒なことは考えずに棚上げする俺の性格が災い……いや、今回に限っては功を奏していたからだ。
でもこうしてユリアは転生し、俺たちはまた出会えた。
俺たちの間に過去何があったのか、今の俺にはわからない。 そして今はそれを迂闊に考えて激痛に見舞われている場合でもない。それでも、これだけははっきりと理解できた。
カラスの言う通り、今まさにその時が来たのだと。
ならば……と俺の腹も据わる。
ただ今は、たとえこのユリアが魔眼を持つ者だろうが何だろうが全力で守り、この母親の魂を浄化することだけに俺の意識を集中させる。
そんな覚悟を決めた俺の隣では、尚もユリアの話は続き………
「でもね、現世では違ったの。私はお母さんに愛されていた。それを肌で感じることができたの。だから私はこの十六年間、幸せだったと言えるのよ。お母さんが私のお母さんで本当によかったと……心から言えるの………」
そして何故か母親から一旦視線を外し、隣に立つ俺の横顔を見上げてきた。それからそっと俺の剣を持つ右腕に手を添える。俺は母親から視線を逸らさぬままで、ユリアの言葉を待つ。
「ルークさま、お願いがあります。一度その剣を収めては頂けませんか?」
「なッ!」
「無茶なお願いをしているのはわかっています。ルークさまが、どうにかして母の魂を助けようとしてくださっているのも、わかっているつもりです。だけどやはり、剣を突きつけながら憎しみを解いて、優しい母に戻れと言うのは無理があるような気がするんです。だから、もしこのまま私にお任せくださるのなら、一度剣を収めて頂きたいのです」
ユリアの言う理屈はわかる。
剣に突きつけられながら、憎しみを捨てろだの、愛を思い出せだの、これでは単なる脅しだ。もし俺がこの母親の立場なら、間違いなく御免蒙る。
だが、相手はユリアの母親とはいえど、醜悪の衣に侵された魂。一度はそれを手にしようとした悪魔どもを蹴散らし、この世界を蝕む災いとなることは防いだ。そう……確かに防ぎはしたが、今もなお、虎視眈々と悪魔どもが狙っていることにかわりはない。しかもこの母親は、ユリアの魂までも道連れにしようと言うのだ。
それがわかっていて、この剣をそう簡単に下ろせるわけがない。それでなくとも、ユリアを全力で守ると決めたその矢先に…………
さて、どうするか……
右腕に触れるユリアの手の感触に、ふと意識が向く。
温かいと感じた。
僅かに残っていた痛みさえも、癒されていくような気がした。
人の温もりとは、優しさとはこういうものなのかもしれないと思った。
かつての俺もそう感じ、この魔眼を持つ少女を今のように守りたいと思ったのだろうか。
この少女の言葉を無条件に信じ、俺はその背を押したのだろうか。
だけど……と思い直す。
今決断するのはかつての俺ではなく、今の俺自身。かつての俺がどうかは知らんが、今の俺ならばこう決断を下す。
「ユリア、わかった。好きにやれ」
「ルークさま!」
「ル、ルークさまッ!」
ユリアの嬉々とする声と、カラスの絶叫に近い声が交差する。それにニッと笑って、俺はユリアの母親である女に剣を突きつけたままで告げた。
「いいか、ユリア。ここはお前に任せると言ったのは他でもない俺だ。だから俺はお前の望む通りにする。だがな、これ以上はダメだと俺が判断した場合は、悪いがお前の母親の魂は俺が即座に狩る。それでいいな!」
「構いません!」
潔すぎなくらいのお返事。それに物申してくるのはやはりカラスで…………
「ユリア!それではお前の身が危険に……」
「いいから、カラスはその嘴を閉じとけ。自分で閉じれねぇなら、精霊たちに縫ってもらえ」
「ルークさまッ!」
「カラスの嘴、僕たちで縫う~!」
真っ黒な顔を蒼白にさせたカラスと俄然やる気となった精霊たちの攻防戦が、俺の背後で押っ始まる中、俺は母親から剣を一旦引きユリアを促した。
ユリアは小さく頷き、俺の右腕からそっと離れると、そのまま母親へと歩みを進める。
「お母さん……」
「ユリア……私と一緒に来て…くれるの?」
小首を傾げ、まるで幼子のような物言いで尋ねてくる母親に、ユリアはううん……と小さく首を横に振って、その醜悪の衣ごと母親の身体を抱きしめた。
そのユリアの行動にカラスが咄嗟に飛び出ようとするが、それを俺が腕で制する。
「ルークさま!」
「黙って見てろ!」
母親の目には相変わらず憎悪の感情が見てとれる。しかし、自分を恐れることなく抱きついてきた娘に、戸惑いの色が見え隠れしているのもまた事実だ。今はその色に憎悪が跡形もなく溶けていくのを信じるしかない。
「お母さん…ごめんね。私は一緒には行けない。だけど前世の私がこうして抱きしめてもらいながら死ねたように、今は私がお母さんを抱きしめてあげる」
「馬鹿な娘ね……ユリア。こんなことをすれば、あなたの魂も…私の穢れに染まって………」
「大丈夫よ、足掻くから。そして諦めない。そう前世の最期に約束したから」
足掻く?誰と?
そんな疑問がふっと湧いて出て、我ながら愚問だなと、霧散させる。
ユリアが前世の最期で誰の腕の中で死に、どんな約束をしたかなんて、それこそ今の俺には関係のない話だ。
チクチクと先程とは違う痛みを胸の奥に感じているが、これもさっきまでの激痛の名残りのせいだと、母親を抱きしめるユリアの背中を見つめながら、その痛みをはぐらかす。
だが、母親の目から戸惑いの色が消えたことだけは見逃さなかった。
その感情はそのまま母親の声音にものる。
「そう…なのね……ユリアは足掻くのね……」
「お母…さん……?」
「ユリア!離れろッ!」
ユリアを母親から引き離すべく伸ばす手。
その瞬間、母親はユリアを腕に抱き込み、素早く後方へと退いた。ユリアへと伸ばした俺の手は、虚しくも空を切る。と同時に、寸分の迷いもなく風を斬りながら再び突きつける剣。
「ユリアを離せ」
「いいえ、離さないわッ!この娘は私が連れていく!足掻くなら足掻けばいい!そして思い知ればいいのよ!底無しの闇に堕ちれば、どんなに足掻こうとも、もう二度と這い上がれないと……一度憎しみに身を沈めればもう………」
ただの愛には戻れない………か。
一度、その形を変形させてしまえば、元の形には二度と戻れない。それは物の理だ。
だけど、たとえ元の形が失われようとも、その面影はどこかしらに必ず残っているはずで、俺とユリアが信じているのはまさにそれなのだ。しかし…………
「ルークさま、やはりもう手遅れなのかもしれません。さすがにもうこれ以上は、ユリアの心を悪戯に傷つけるだけです」
カラスの言うことにも一理ある。何事にも引き際は肝心だ。
「ルークさま、ユリアを助けて!」
「僕たちも手伝うから」
「ユリアは私たちの大事な家族なの」
「また五百年も待つなんて嫌だ!」
精霊たちの意見もご尤もだ。残念ながら、五百年前の記憶はまださっぱりだし、実際何があったのかもわからないが、俺ももうあの退屈で憂鬱な日々には戻れはしない。
たとえどんなにそれを切望しようとも、ほんの数刻前までの、死神は気楽な稼業ときたもんだ……などとくたびれた教会で鼻唄まじりに呟く日々なんかには。
にしても、起き抜けの準備体操にしては些かハード過ぎるが、どうやら俺は五百年もの間ぐうたらしていたらしいから、これくらいが丁度いいのかもしれない。
とはいえだ。それは無事に解決して初めて言えること。
ったく……カラスの野郎………
とんでもねぇ仕事を持ってきやがって
クッと喉奥で込み上げてきた笑いを押し殺して、改めて今の状況を冷静に見てみる。
いつだって事を起こす前の足元確認は必要だ。
町は既に夜の装い。ポツポツと灯り始めた家々の明かりは広場には届かず、ここを照らすのは少々心許なげな電灯と薄闇に浮かんだ三日月と星々の瞬きだけ。
その僅かな光の中で、馬鹿の一つ覚えのように突き出した剣は、ユリアを抱え込んだ女の顔を真っ直ぐと捉えている。
距離はほぼないに等しい。故に、女の魂を狩り取るだけなら俺にとっては何の造作もないことだ。たとえユリアがその女の腕の中にいようともだ。
そもそも、これ以上はダメだと俺が判断した場合は即座に狩るとユリアには言ってある。そこに遠慮もなければ、容赦する気も毛頭ない。
それがわかっているからなのか、先程からユリアの瞳が俺に何かを必死に訴えかけてくる。だけどそれは、恐怖でも諦めでも、ましてや絶望でもなく……………
あぁ……そうだよな
俺もユリアに賛成だ
どうやら俺は見誤っていたらしい
再び込み上げてきそうになる笑みを、一つ息を吐くことで相殺させ、俺はわざとらしくユリアの母親に怪訝な目を向けた。
「なぁ…ウチのカラスはもう引き際だと言うが、あんたの娘はまだあんたの魂の浄化を諦める気はないらしい。で、ちょっと質問なんだけど……」
「な…に?」
「あんたはユリアが憎いんだろ?愛した男があんたの死後、綺麗になっていく娘に言い寄るじゃないかって不安で、それが許せないんだろ?あんたがもう生きれないこの先の未来を、愉しげに生きていく者たちが憎くて憎くて仕方がないんだろ?」
「そう…よ……その通りよ……」
「なら、どうしてあんたはそんなに大事そうにユリアを抱え込んでる。憎くて仕方がない存在を、未だ殺そうともせずに、後生大事に抱きしめているんだよ」
「それ…は……………」
その答えは、言わずもがな……
どんなに憎悪に呑まれようとも、この女が我が子であるユリアを愛し慈しんだ母親に他ならないからだ。
生前のユリアに向けていた愛情は、女神イリーナの過剰な加護により、憎悪へと形を変えた。だが、その形がどれだけ歪み変わっても、その面影も記憶も女の中には残っている。
当初俺は、その面影と記憶が残っていれば、それを思い出させればいいと考えた。だからこそユリアにそれをさせようとした。だが、違った。そう、俺は見誤っていたのだ。
女の中に存在しているものは、憎悪へとその形を変え、面影として残った愛情ではない。
憎悪という感情を知ったがために、その形を歪に変えた愛情そのもの………憎悪の果てに残骸となった面影や記憶などではない、禍々しいまでの狂気をはらんだ愛情が、母親の中に今も確固として存在しているのだ。
たとえそのことを、今の本人がもはや自覚できなくなっているとしても……………
おそらくユリアも、母の魂にそれを見たのだろう。
この世界の真実をも見通すというその魔眼で…………
そして俺にももうそれが形となって見えている。
醜悪の衣を纏いし女の身体から新たに延びる、娘への歪んだ愛情が生んだ執着の鎖がーーーーー。
つい先程、群がる悪魔を蹴散らし断ち切った鎖は、“憎悪から生まれし執着の鎖”。生への強い執着が生きとし生けるものたちへの憎悪を生み、この世界に我が身を縛りつけたモノだった。しかし、今度の鎖はまたそれとは別物。その証拠に、新たに女の身体を縛りつける場所はこの世界ではなく、自分の娘。その結果、まるで蛇の如く、女の執着の鎖がユリアの身体に何重にも巻き付いている。
母娘二人で生きてきたからこその、異常なまでの愛情が生んだ娘への執着……か…………正直、厄介だな
だが、それが見えた今、俺が為すべきことは一つ。
その執着の鎖を断ち切ることだけだ。
「あんたが認めようと認めなかろうと、今、俺にはユリアの身体に巻き付くあんたの執着の鎖が見える」
「えっ?」
驚きの声を漏らし、自分の身体に視線を落としたのはユリアだ。それから私には見えないとばかりに、俺に向かって首をプルプルと横に振ってくる。ユリアの魔眼もまだそこまでは育ちきってはいないらしい。
それに不思議と安堵を覚えて、俺はふと目を細めた。が、すぐさま切り替える。
「俺は死神だ。この執着の鎖を断ち切り、魂を浄化に導くのが俺の仕事。悪いが、その仕事を完遂させてもらう」
俺の言葉に女は一瞬目を見開いてから、ふふふっと愉快そうに笑った。
「そんな事をすれ…ば、私の鎖とやらに縛られた…ユリアも一緒に…真っ二つよ。私としてはユリアを一緒に連れていくためにも…ここで殺すつもりだったから、その手間が省けて助かるけど……それでも切る?」
そんな女の言い種に今度は俺が笑う番だ。もちろん腹を抱えてまでは笑わないが、それでもユリアや女だけではなく、カラスと精霊たちにもギョッとさせたようだ。それにまたクククッと笑って、その笑いの波はすぅっと引いた。そしてその後に残ったものは、静かな焔。
「俺を嘗めるなよ。誰がユリア諸共、鎖を断ち切るって?」
一段トーンが下がった俺の声に、女の顔から笑みが消えた。死神の怒気に当てられたのか、ユリアを連れてゆっくりと後退る。もちろん俺は剣を突き付けたままで平然とその距離を詰め直す。それを何度か繰り返す間も、俺の声は地を這い、その言葉は着実に女を追い詰める。
「この剣は少々気位が高くてな、光だろうが、闇だろうが何でも斬れるくせに、自分が何を斬るのか一々俺に問いかけてくるんだよ。ったく、訳のわからねぇモノを斬りたくねぇっていう気持ちはわからんでもないが、その度に確認させられるこっちの身にもなれってんだ。だが……あんたにはそれがどういうことかわかるか?」
「…………………」
「こいつはな、斬るモノを自由に取捨選択できるんだよ。そして俺はその鎖の正体をもう知っている」
「ッ!」
女の顔がこれ以上なく引き攣った。瞬間、後退りを続けていた女の足がピタリと止まる。
「ユリアッ!俺を信じてそのまま動くなッ!」
「はいッ!」
相変わらずのいいお返事。
そんなユリアにフッと笑みを零しながら、剣を持つ右手を頭上高く振り上げる。
「やめて…お願いッ!」と女が叫ぶが、それに耳を貸すほど、俺も優しくはない。
「お母さん、ルークさまなら大丈夫!信じて!」と言うユリアの声には、ご理解感謝と内心で告げ、両手に持ち変えた剣を一切の手加減なく、大きく踏み込み振り下ろした。
ザンッ!
斬るモノを知ろうとし、斬るモノを選ぶ剣。
それは、どれだけユリアの身体を一刀両断しようが、俺がユリアだけは斬らぬと決めれば、この剣もユリアを選らばない。
故に、ユリアの右肩から左足にかけて振り下ろされた剣は、ユリアの身体に巻き付く鎖のみを見事断ち切った。おそらくユリア自身、痛みはなくとも剣が身体を貫いたという感覚だけはあったのだろう。それでなくとも大きな瞳をさらに大きく瞠り、ふらりとバランスを崩す。己を縛っていた鎖と、いつの間にか女の腕からも解放されていたユリアの身体は、なんの抑止も受けずに前へ大きく傾ぎ、俺はその華奢な身体を余裕を持って受け止めた。
「ユリア…大丈夫か?」
「ルーク…さ…ま…ありがとうございます。私は大丈夫です」
身体を駆け抜けた違和感と、俺をどれだけ信じていても、我が身を一瞬襲った恐怖に、空色の瞳を涙の水面で揺らし、大丈夫も何もあったんもんじゃないが、今はそれをさらりと受け流して、敢えて問わないことにしておいてやる。その代わりに重ねる言葉は、念のための確認だ。
「痛むところはないか?」
「はい……でもまだお母さんが……」
「あぁ……」
自然と向けられた二人の視線の先には、依然として黒き醜悪の衣を纏ったユリアの母親。
一本目の鎖を切った時には何も起こらなかった。いや、それどころか目の前に現れたユリアの存在に、新たな執着の鎖を生むこととなったが、今はそれも切った。今度こそ昇天し、浄化の道を辿るか、完全に闇へと沈むか、何かしらの動きがあるはずだ。
そう、醜き欲は断ち切った。このまま醜悪の衣が霧散してくれれば……………
ただただ自分の腕から消えた娘を不思議に思うのか、己の黒く染まった手を呆然と眺めている。そして、緩慢なほどゆっくりと顔を上げて、俺の腕の中にいるユリアを見つけた。
娘を見つけた安堵と、自分の腕から俺への腕に移ってしまったことへ寂しさが綯い交ぜになったかのような表情。しかし、そこにもう狂気はない。
「ユリ…ア…………」
「お母さん…」
「ユリア、ごめんね……一人にして………」
「お母さんッ!」
ユリアの悲痛な声に、母の顔に微かに笑みが滲む。と同時に、目に見えて徐々に薄くなっていく醜悪の衣。
よし!これで完全に消えてしまえば、ユリアの母親の魂は救われる……
しかし、そう思ったのも束の間。今日に限ってはそうは巧くいかないらしい。なんせ俺にとって今日は退屈には縁遠い日。というより、退屈が終わった日。もうこれを厄日と言うつもりはないが、それにしてもてんこ盛りすぎだ。
「ルークさまッ!また悪魔どもの気配がッ……」
「わかってる!ユリア!俺から離れるなよ」
「はいッ!」
カラスの声に、周囲への神経を尖らせつつ、ユリアにすかさず指示を出す。
この女の魂が諦め切れないのか、それとも魔眼の存在に気がついたのか………どちらにせよ、招かざる団体御一行様にはもう一度お帰り願うまでだ。
「悪魔!悪魔!大変!」
「ユリアを隠さなきゃ!」
「大丈夫!まだ気づかれてないよ」
「でも、危険!」
ただでさえ姦しい精霊たちがより一層騒がしくなる。しかし、今はカラスもそれに構っている暇はないらしく…………
「カラスの姿のままではありますが、ルークさま、加勢いたします」
「さっきの悪魔来襲の時には、呑気に空を飛んで、加勢なんてしてくれなかったのにな」
「あ、あ、あれは…その………もちろんいざとなれば……とは思っておりましたが、あの程度の悪魔どもなら、ルークさまにはなんてことはないかと…………」
「冗談だよ。それより、もうすぐうじゃうじゃ湧いて出てくるぞ。後方の奴らは頼んだ。大天使サリュエル」
「お任せを」
階級第八位の“大天使”は、神と地上を結ぶ連絡係を務めるだけでなく、いざとなれば天の兵士として悪魔との戦いにも馳せ参じる天使。たとえカラスの姿だろうが、戦力にならないわけがない。
ただ、問題はユリアだ。現時点でユリアを守るためには、俺から離すわけにはいかないのだが、ユリアは魔眼を持つ者………できることなら、奴らの目の届かぬところに隠してしまいたいというのが本音だ。
しかし、そんな俺の思考を読んだらしいカラスことサリュエルが…………
「ルークさま、詳しい話は後程しますが、ユリアのことでしたら大丈夫です。精霊たちが申すように、おそらくまだ気づかれてはおりません。奴らにはまだ、ユリアの姿も見えなければ、声も聞こえないはずですから」
と、断言する。どうやらこれも激痛を伴う案件の一つらしい。もちろん俺もここで無闇に考えて悶絶コースとはなりたくないので、「わかった」とだけ告げ、さらに神経を研ぎ澄ました。
来たな………
俺の張ったアンテナに引っ掛かると同時に、ユリアが反応を見せる。
「ルークさま!悪魔が地面から……」
「鎖は見えなくとも、悪魔は見えるみたいだな」
ユリアの言葉に、改めて魔眼の成長具合を推し量る。しかし、どうやらそんな時間も許してはもらえないらしく、ユリアを念のために俺の背に隠して、有象無象の悪魔どもへと意識を向けた。が、その悪魔どもの中には……………
「おいおい、さっきより数が増えただけじゃなく、今回はサリュエルと同等クラスの奴がいるみたいだぞ」
「どうやらそうみたい……ですね」
表情の薄いカラスでしかないはずのサリュエルの顔に、あからさまにうんざりだ……と書いてあるが、俺もまったくの同意見で心底うんざりだ。
そもそもな話、悪魔は罪を犯し、翼をもがれ、堕天した天使どもの魂が再生したもの。そのため、悪魔としての階級は天使時代の階級に準じている。
つまり、今回俺たちを取り囲むように、ゾロゾロ湧いてきやがった奴らの中には、元“大天使”クラスの悪魔が一名、混じっているということだ。
その容姿は、最下級の悪魔どもの棒切れの身体をがっしりと肉付けし、背中には一回りデカい蝙蝠の羽と、頭には御大層な山羊の角が付いている。そしてその顔は切り裂かれただけの目や口などではなく、俺たち同様の目も口も鼻もあり、個人差はあるがそれなりに整っている。戦闘能力に関して言えば、闇に身を染めた分、“大天使”時代の戦闘能力よりも遥かに面倒くさい。
この決して喜べない状況を前に……………
うん、今日はやっぱり厄日だな
と、あっさりと思い直す。しかし、ここで嘆いたところで、事態が好転するわけでもないので、本日、何度目かの腹を括るところから始める。
「ところでサリュエル、あいつはお前のお友達か?」
「堕天使に友達なんていませんよ。でもあいつは…確か……」
サリュエルがその名を口にしようとしたところで、悪魔がそれを止めた。
「我が名は悪魔アゼル。天使の名などもうない」
それはそれは左様でございますか……と、サリュエルと肩を竦めてから、取り敢えず今回の用向きを尋ねることにする。最下級の悪魔どもを従え、わざわざ自ら湧いて出てきたのだ。それなりの理由があるに違いない。
「まぁ、こちらも昔話に花を咲かせる気はさらさらねぇしな、お前の名前が天使の名だろうが、悪魔の名だろうがどっちだって構わねぇよ。で、アゼル、お前がわざわざ出張ってきた訳はなんだ?この女の魂が目的なら、ご覧の通り醜悪の衣は消えつつある。少々、腰を上げるのが遅かったみたいだな」
多少の嫌味はご愛嬌だ。
しかし、そんな俺の嫌味にも眉一つ動か……せる眉もそもそもないが、まったく表情を変えることなく、アゼルは淡々と言ってのける。
「心配は無用。たとえ醜悪の衣が薄れようとも、我が手、我が囁きだけで、その魂は何度でも闇に沈む。だが、私がここに来たのはそれが理由ではない。我が長、サタンさまの命によりこの目で確認に来た」
「何をだ?」
「わからない。気配は感じるが、我らには見えも聞こえもしない何かだ」
「ッ!」
俺の背でユリアが小さく息を呑む。
思わず掴んでしまったらしい俺のコートを通じ、ユリアの震えが伝わる。
大丈夫だ、心配ないと、その身体を抱きしめてやりたい衝動にかられるが、そのらしくない衝動にアゼルの言葉なんかよりも混乱を覚え、今度は俺がそれに息を呑む。しかしここは、数百年、数千年と貼り続けている、少々のことでは微動だにしない仏頂面でやり過ごす。
それにしても、どうやらこいつらの本命はユリアの方らしい。しかし、このアゼルの言葉で精霊たちやサリュエルの言葉が実証されたわけだが、何を隠そう、何故そんな事が起こっているのか、この俺が一番不可解に思っているし、教えて欲しいくらいなのだ。とはいえ、アゼルの手前、そんな事を微塵も感じさせないままに答えてやる。
「なら、さっさと帰ってお前の長に伝えな。あんたの気のせいだったとな」
「それは、あまりに早計すぎる。故に問う。死神ルークさま、その背に我らが目にも耳にも届かぬ何をお隠しで?」
そりゃそうだよな……と思う。
何かしらの気配はするのに、それが何かわからなければ、誰だって余計に気になるってもんだ。それは、俺やアゼルに限らず、元天使の最上位であり、悪魔の長であるサタンも例外ではないということだ。とはいえ、それを親切に教えてやる義理もないので、当然の如くすっとぼける。
「何のことを言っているのか知らんが、俺はこの醜悪の衣を纏いし女の魂を浄化に導くために、ここにいるまでだ。サタンの命だが何だか知らんが、邪魔立てするなら遠慮なく薙ぎ払うぞ」
俺の台詞にアゼルの目がゆっくりと細まる。
「さすがは死神ルークさま。その戦闘力は我が長サタンさまも一目置き、他の神々の追随をも許さないと聞く。これだけの数の我らに囲まれても恐怖すら抱かぬとはな」
「買いかぶりすぎだよ。それに俺はお前らの数を一々数えるのが面倒なだけだ。早い話、アゼル……お前さえここで斬って捨てればこいつらは逃げ帰るしかねぇ……だろ?」
「いかにも……しかし、それでは我々がここにこうして出でた意味がない」
「それは残念だったな」
「残念だと思われるなら、是非とも教えて頂きたいものだが」
「何かもわからないものを教えてやれるほどの想像力は俺にはねぇよ。この箱庭の世界を創造し、創り上げたうちの主とは違ってな」
「なるほど……ならば仕方がない」
そう言うや否や、アゼルの身体は有象無象の悪魔たちを残し地に沈み、俺たちの前から消えた。しかし、それは諦めて帰ったわけではない。
来るッ!
俺の直感がそれを察する前に、もう俺の身体は動き出していた。
ビュッと剣が風を両断する音が耳に届くよりも早く、ピタリと合わされた剣先の照準。その刹那、地表より現れしアゼル。しかし、顔しか浮き上がらせられなかったのは、先回りをした俺の剣が、既にアゼルの額を捉えていたからだ。
「なぁ、いくら買いかぶりすぎだと言ったからって、これはさすがに嘗めすぎなんじゃねぇのか?死神の背後を取ろうなんてな」
アゼルが現れた場所は、俺の背後の地面。俺の背中にくっ付くユリアと、現在醜悪の衣が消えかかっている女との、丁度中間地点といったところだ。
なので身体の向きを変える素振りでさりげなく、そっとユリアを移動させ、アゼルの場所から遠ざける。もちろんその間もアゼルの額に剣先を突き付けたままだ。が、敵も然るもの…………
「確かに愚策も愚策。しかし、愚策には愚策だけの意味があるというもの。例えば質より量…とか?」
俺に剣を向けられながらも、アゼルがニタリと笑う。しかし、アゼルには悪いがそれも想定内。
「俺の背後の確認ついでに自らを囮にして、その隙にせめて女の魂を量でと踏んだらしいが、うちのカラスを甘くみてもらっちゃ困る。サリュエルッ!」
「御意!」
俺の一声で忽ち舞い上がったカラス、もといサリュエル。といっても高度は俺の腰ほどで、飛行速度はおそらくだが、現時点で鳥類最速。その速さと嘴を武器に、女に向かって一斉に群がり始めた悪魔の身体を貫いていく。貫かれた悪魔どもは、断末魔とともにその場で黒い煙となって消える。その様子を、慌てることもなく眺めていたアゼルからはご尤もな指摘。
「さすが“大天使”サリュエル。だがあれではすぐに目が回る」
「だな。だから、サリュエルが目を回す前に、俺がお前をここで叩き斬るッ!」
「ッ!」
アゼルの額に照準を合わせていた剣を、叩き斬るなどと抜かしておきながら、振りかぶることもせず、己の重心移動だけで不意をつくようにアゼルに力一杯突き刺す。しかし、その手応えが俺の手に伝わらないまま、アゼルが地中に潜る。
「チッ!」
思わず盛大に舌打ちをして、ユリアの腕を掴むと、女の元に急ぐ。次に現れるのは間違いなくそこだ。
そして案の定…………
「やめ…て……離し……て」
地より湧き出たアゼルに足を掴まれ、再び女の身体に消えかけていた黒き衣が、闇の色を濃くしながら纏わり付いていく。と同時に、地中へと抗う術なく引き摺り込まれるその身体。
させるかッ!
已む無くユリアの腕を離し剣を両手で持つと、文字通り地面を叩き斬った。
ある意味空間ごと斬ったため、目に映る景色が歪んだが、そんなものはその内直る。
それよりも、この一撃が地中のアゼルに届いたのか、それが一番の問題だった。がーーーーーー……
「ダメよ!お母さんは行かせないッ!」
歪んだ空間が修復していく中で、俺の目に、耳に飛び込んできたものは、母親の身体をこれ以上は沈ませないとばかりに、母親に抱きつくユリアとその声。アゼルには依然ユリアは見えず、その声も聞こえていないと思うが、何かしらの気配は感じているはずだ。そして何より、俺の一撃は浅かったらしい。
あの野郎、モグラみてぇに地中でちょこまかとしやがってッ!
下半身がすっかり地中に沈んだ女の身体。その下には間違いなくアゼルがいる。その地中のアゼルを串刺すために俺は剣を逆手に持ち変えた。何がなんでもユリアの存在を奴らに覚られるわけにはいかないのだ。さりとて、ユリアはユリアで必死に母にしがみつく。
「お母さんの魂は、絶対に闇になんか沈ませないんだからッ!」
「ユリア……ユリア……もういいの…よ……」
「ダメよッ!最後まで足掻くッ!」
そうユリアが母親に言い放つのと、俺が剣を地中へと突き立てるのはほぼ同時だった。だからこそ、すぐにはわからなかったのだ。
瞬く間に俺たちを包んだ光の出所が、どこだったのか。
夜の闇をも蹴散らすほどの閃光。
その光に温度や質感などないはずなのに、優しささえ感じる温かい光。
今の俺にはその正体さえわからぬ光。
なのに…………間違いなく地中から聞こえたアゼルの断末魔。湧き続けていた悪魔たちの消滅。醜悪の衣を完全に脱ぎ去り、浄化のために昇天していった女の魂。これらはこの光がもたらしたモノだということだけは、頭のどこかで理解していた。
これはーーーーーー光の加護だと。
母親の魂が昇天していくのを、目が眩むような光の中で、まるで自分の魂までもが抜け出してしまったかのように見送ったユリアは、その光が夜の闇に溶けて消えるのを待たずして、すべてのスイッチを落とし、俺の腕の中へとふらりと舞い戻ってきた。
「意識……飛ばしちゃいましたか?」
「みたいだな」
一仕事終え、ヘロヘロで戻ってきたカラスが、俺の腕の中のユリアを覗き込む。だが滞空しているだけの体力は既にないらしく、俺の肩を止まり木代わりとして、さらにユリアを心配そうに眺めている。そんな俺のたちの周りを飛び回るのは、今も元気いっぱいの精霊たちだ。
「ユリア、大丈夫?」
「もう悪魔いない?」
「カラス、ボロボロ~」
「早くユリアを家に連れて帰ろう」
途中、カラスの悪口も程よく挟んではいたが、精霊たちもユリアのことが心配で堪らなかったことだけは分かる。それに俺も、いつまでもこうはしていられないので、ユリアを家に運ぶことは大いに賛成だ。
それにしても………………
「なぁ、カラス。さっきの光の出所はやっぱり……」
「ユリアですね」
「だったら、その説明も?」
「謹んでさせて頂きます」
俺の肩で恭しく頭を下げたカラスに苦笑しかないが、とにかくさっさと説明してもらわないと、またあの激痛に見舞われそうで、それだけは本当に勘弁願いたい。棚上げの有効期限も、どうやらそんなに長くはなさそうだからな……と、腕の中のユリアに目を落とし思う。
夜の帳がおり、千客万来の大賑わいだったこの町の広場にも、ようやく本来の静けさが戻る。だけど、あのくたびれた教会で過ごす日々には、俺もカラスももう戻れない。いや、戻るつもりもない。
突如として俺の前に現れた、魔眼を持ち、光の加護までも有する少女ユリア。
俺の混乱と困惑の新たな日常は、今まさに始まったばかりだった。