1. 死神の退屈で憂鬱な日常
死神は気楽な稼業ときたもんだ
「んなわけないでしょうッ!」
「おい、うるせぇぞ。カラス」
「私はカラスじゃありませんッ!」
人の独り言を勝手に拾い上げて、黒い羽をバタつかせながら俺の横でぶちギレてる野郎をチラリと見やれば、どこからどう見てもカラスだ。後々、白鳥に変身を遂げる見込みも予定すらもない正真正銘紛うことなき黒鳥。つまりカラスだ。
「お前…鏡見たことあるか?っていうか、カラスって生き物知ってるか?お前そっくりなヤツ。そこら辺よく飛んでるだろうが。知らねぇならちょっとひとっ飛びして見てこい。もしかしたら兄弟と感動の再会を果たせるかもしれねぇぞ」
「再会なんてしません。カラスなら知ってますし、私はカラスではありません。だいたいこんなにペラペラと流暢にしゃべるカラスがどこにいますかッ!」
「自覚ありか……つーかさ、前から真剣に思ってたんだけどお前の場合、カラスよりもむしろ九官鳥かオウムになるべきだったんじゃねぇのか?」
「んなこと前から真剣に思わないで下さいッ!そもそも私はカラスでも九官鳥でもオウムでもなく、れっきとした天の使いですからッ!」
そうなのだ。このやたらとうるさいカラスは天の使い……所謂“天使”ってヤツで、死神である俺に仕事を持ってくる安眠妨害な野郎なのだ。
だいたい天の使いならその使いらしく、それなりの格好で来りゃいいものを、毎回毎回わざわざカラスに化けてやって来るもんだから、俺からすればただの口喧しいカラスとしか到底思えない。
そもそもの話だが、人間に死神である俺の姿は見えないが、残念ながらこのカラス……もとい天使の姿は見える。何故なら天の使いは神と地上の者を結ぶ使者であり、地上の者たちにその姿が見え、その声が聞こえなければ、使いも何もあったもんじゃないからだ。
それ故に、普段天の使いどもはその姿を何かしらに変えているのだが、こいつが選んだのがよりにもよって何故かカラス。
それこそ、てめぇがカラスなんぞになってるからだろうがッ!というのが正当な俺の言い分なのだが、これ以上は面倒なので「あっそ」と毎回聞き流すことにしている。
「それにしてもルークさま、あなたさまだけですよ。こんな寂れた教会なんかを塒にされているのは……。他の神々さまはちゃんとしたご住居を天にお持ちなのに、ルークさまだけが住所不定のはぐれ神。神としての能力もその見目も、他の神さまにまったく引けを取らないどころか、それ以上のモノをお持ちになるルークさまが、この体たらくでは他の神々さまに示しがつきません。本を正せば、私がこんなカラスの姿にならなければならないのは、ルークさまがこんな人も寄り付かない教会で……………」
こうなるとこいつ……カラスの話はうるさいだけでなく長い。死神とはいえ一応神が付く以上、カラスは俺の従者でもあるのだが、これではただの口煩い小姑だ。
しかし、もし俺がこいつの立場だとしたら、やはり文句の一つや二つ言いたくなるかもしれんな……と自分のやる気のなさを棚に上げて思い、一つカラスにバレないように息を吐いた。
この世界には神なる存在と、それに使役する天使と呼ばれる存在、そして神が気まぐれに創造し作った数あまたの生き物たちがいる。もちろん人間もその生き物の一つで、神が唯一自分を模して作ったモノだ。
それは人間が自分を模した人形を作るのと同じ感覚だと言っていいだろう。だが、神と人間の決定的な違いはその人形に命を与えられるか否かということだ。さらに神は人間に言葉とそれに伴う知能、そして生殖機能と心を与えた。それは何故かと問われれば、答えは簡単明瞭。
作った大量の人形を動かすのに、手が幾つあっても足りないから。それだけだ。
その感覚もまた人間の子供のままごと遊びと同じ。ただ人間のようにその人形を手に持たなくて済む分、神はそれを眺めておくだけで事足りるということだ。さらに言えば、心と生殖機能まで与えたおかげで、何もせずとも人間は多種多様に増え、その生き方もまた多種多様となり、神は飽きることなくその観察を楽しめるようになった
そう……神は人を救うためにこの世界を創造したわけでない。あくまでも神にとって人間は愛すべき愛玩人形であって、それ以上でもそれ以下でもなく、ぶっちゃけた話、神に祈ったところで無駄なのだ。
神はこの世界の創造主であると同時に、己で創った愛すべき世界の鑑賞者にすぎないのだから……………
とはいえ、神も創造主としての責任がある。
生を与えたならまたその死も必然。つまりどんな遊びにも一定のルールがあるということだ。
それを自然の摂理だなんだと御託を並べる奴等もいるが、俺に言わせればそんな御大層なものではない。
神の創造した世界は無限ではなく、どんなに器にも適量というものが存在するように、この世界にも住まうべきモノの数にも限界値があるだけだ。
そのため、生殖機能により新たな命を自然と生み出し続けるならば、逆に死を与えその数を減らす。そしてその死を迎えた命はまた神の定めた道を辿り浄化され、新たな命として再生する。但し、その命の穢れ具合も生前の行いによって変わるため、その穢れが酷い命の浄化には、それ相応の痛みと苦しみが伴う。つまりそれこそが俗に言う“地獄に堕ちる”ということだ。
とまぁ話はかなり脱線したが、早い話、神は創造主として、または純粋な鑑賞者としての責任を果たすために、各権能を持つ神々にこの世界を監視させることにした。
時に祝福と加護で人間たちを守り、時に人間の心の弱さと醜さを知らしめ、この世界のルールを守るために。
ちなみにここでいう神々とは、絶対的創造主としての神ではなく、俺のようなある特定の事柄にのみ権能を与えられた…所謂ーーーーー…
「神なんて名ばかりの使い走り?」
「なんですか?それ………」
俺の独り言を、またもや律儀に拾い上げたカラスが不思議そうに首を傾げた。それに苦笑しつつ「なんでもない」と己のくだらない思考と共にカラスの疑問も強引に霧散させる。それに異を唱えることなく、カラスは本来の仕事へとあっさりと舵を切った。
「ではルークさま、本日のお仕事です」
「いきなりだな……」
「いやいや、私がここに来た理由はそれしかないでしょ」
「たまには違う理由で来てみて欲しいもんだな。休みをくれるとか、寝てていいとか、起きなくてもいいとか………」
「どんなけぐうたらなんですか」
カラスでも、こんな呆れ顔ができるんだなと感心したくなるほどの見事な呆れっぷりで、カラスこと“天の使い”サリュエルは天より授かりし仕事を俺に告げた。
ところで死神の仕事とはなんぞや?と問われれば、人間が想像しているものと少々違うと答えるしかない。
そもそも死神と聞いて、ほとんどの人間がフード付き黒いマントを羽織り、大鎌を持った骸骨……なんてものを連想するかもしれないが、残念ながら今の俺の姿形はそれと大きくかけ離れている。
俺の趣味から言えば、黒いマントなど論外だし、大鎌をなど邪魔なだけで、荷物にしかなりゃしないし、あんな物を持って歩くのも嫌だ。そして俺は骸骨でもなんでもなく、そこら辺の人間となんら違わぬ姿形をしている。
まぁ…自分の容姿について得々と論じる気もないが、強いていうなら、黒髪の無愛想な面構え……ってところだろう。もしカラスあたりに述べさせれば、何故かここに鳥肌が立つような飾り立てた形容詞がアホほど付いてくるのだが、俺自身自分の見目にはまったく興味がないので、そこら辺はいつも好きに言わせておくことにしている。
で、実際の格好はというと、服装は黒いマントではなく、黒のコート。仕事道具は大鎌ではなく、どこぞの騎士の如く腰に下げた剣。
つまり、普通に町を歩いていても誰も俺を死神だと思うことはない。仮に俺の姿が人間に見えたとしてもだ。
そして肝心のその仕事内容とはーーーーー
「ルークさま、あちらでございます」
俺の頭上をパタパタと飛ぶカラスが指し示す方向には、見るからに寂れた町。
「わかった。行け」
と、指示を出せばカラスはそのまま風に乗り、上空へふわりと舞い上がった。
神が創造した箱庭にある町。
もちろんこの町を作ったのは神ではなく人間だ。神の掌中とも知らず、自分たちが神の鑑賞物だとも知らず、日々を必死に生き抜くために人間たちが作り上げた町。
その中で貧しさに嘆く者もいれば、明日へと希望を繋ぎ、未来に夢見る者もいる。だが、数十年、数百年、数千年と人間の生き様を見てきた俺から言わせれば虚しさしかない。
掴んだ夢も、手にした財産も、漸く巡り会った愛しき人も平等に訪れる死に塵芥と消える。何一つ手に持って行くことなど許されず、魂の浄化と共に忘却に帰するのだ。なのに人間は、欲深きモノであれもそれもと手に抱えたがる。それが死に際に見せる未練となるのだが、その未練が強ければ強いほど、地中深く根付く大樹のように、その魂は現世に鎖で繋がれる。
そう……俺の仕事はその鎖、未練を断ち切ることだ。
なにも、死神は死んでいく奴の魂をその都度、おどろおどろしく大鎌を背負って狩りに行ったりなどしない。だいたいこの世界にどれだけの人間が存在し、日にどれだけの人間が死を迎えているかちょっと想像したらわかるだろう。
それこそ俺の身体はいくつあっても足らない。
間違いなく死神の俺が過労で死ぬ。
いや、実際死ぬことはないが(死神が過労死なんて目も当てられない)、死神に過労死を心配させるほど創造主は神であって悪魔ではない。そこまでの負担を俺一人にかけることなく、死んだ肉体から魂は自然と抜け出し、神が植え付けた帰巣本能に従い現世から離れ浄化の道を辿る。そのおかげで、死神は気楽な稼業ときたもんだ……などとくたびれた教会で鼻唄まじりに呟く暇もあれば、毎回毎回カラスに怒られる羽目にもなるわけだ。
まぁ、それはさておき、今回その未練が断ち切れずにいる魂がこの寂れた町にあるということで、カラスに強引に連れられ渋々やって来たのだが…………
あれか……
寂れた町の閑散とした広場。そこあるのは風に弄ばれる砂埃と、その風にも揺らがぬ黒く淀んだ塊だけ。上空へと舞い上がったカラスのカァーと鳴き声が町に響く。
「わかってる。見りゃわかる」
あの一鳴きは急げというカラスからの催促。
普段人間が来ることもない教会では、まるで九官鳥のように俺に文句を垂れ流してくるカラスも、人間たちが住まう町では一応カラスになりきり、カラス同様の鳴き声となる。
しかしカラスに催促されたからではないが、確かに急いだほうがいいかもしれない。今のところ、黒い塊に変貌しているとはいえ、なんとか人型を保っている。が、それも時間の問題。このまま放っておけばこの魂は悪魔どもの手に堕ち、この世界を襲う災いに変えられる。
それは創造主の箱庭を破壊し、その愛玩物、人間の心を侵し食い潰してしまうほどの災いへと…………
人々はそれを呪いだの怨霊だのいうが、本を正せば断ち切れぬ未練故にこの世に留まった魂の成れの果て。人間どもの醜き欲望の魂が変質したモノだ。
「さてと、お仕事の時間だな」
と、誰に告げるわけでもなく、一人そう宣言してみたところで、俺のやる気が急激に跳ね上がるわけでもないが、一応何事においてもメリハリは大事だ。所謂ぐうたらモードから仕事モードへの切り替え。何かが劇的に変わるわけではないにしても、死神だってそれなりに気分くらいは大事にする。
普通の人間たちには見えない黒き衣を纏った塊。
創造主、神はその黒き衣を醜き欲にまみれた”醜悪の衣”だと呼ぶが、俺にはすべてをその一括りで片付ける気は毛頭ない。
当たり前の話だが、欲は誰しもが持つもの。
それをすべて悪だと言い切ってしまえるほど、この世はそう単純でもないからだ。
だからこそ問う。
「お~い、まだ自我は残ってるかぁ?」
俺の声に反応したのか、辛うじて人型を保っている黒き塊は、風にも揺らがぬその身体をゆらりとこちらに向けた。
まだ俺の声が聞こえるか……ならば…………
巧くいけば魂の浄化はまだ可能かもしれない。死神の俺が言うのもなんだが、何事も諦めよりもまず希望を持つところから始めるべきだ。
「で、お前をこの世に縛り付ける未練とはなんだ?」
「…む……すめ…………」
「娘?」
「娘……ひ…と……り………のこし…て……」
なるほどな…と納得する。これは愛という名の欲だ。しかし、誰かに想いを残して死ぬことなんて日常茶飯事。それでも神の魂回収システムは死神の手を煩わせることなく自動的に働き、有り難いことに暇と自堕落な睡眠を俺に与えてくれる。
だが、この魂はそれができなかった。
それだけ純粋に愛情が深かったのだと言ってやりたいところだが、残念ながらそうではない。
「それだけじゃねぇだろ?お前が纏ってるのは醜悪の衣。つまり、それだけお前の魂は荒み穢れてしまったという証拠だ。だが、自我が残っているならまだその魂の救済も可能かもしれねぇ。お前を縛り付けるモノはなんだ!言えッ!」
俺の怒号にその黒き塊は小さく跳ねた。それからゆっくり身体を侵す穢れを吐き出すように、この世への未練というには憚れるほどの歪み切った想いを口にする。
「に…くい……憎い……私は……あの…子…の傍にもう……いられないの…に……どんなに神に…望んでも叶わないのに…私たちを親子を……蔑ん…だ奴らが…生き残る。私の命は……こんなにあっさり…途切れた……というのに……憎い………憎くて殺してやりたい。それに生きて…益々綺麗になる…あの子も…憎い。私の手を取ると……約束したあの人も……あの子に夢中になる。父親ではなく…夫になろうとする………あぁ…憎い。呪って…殺してやりたいほど…すべてが憎い。だから…皆…呪い殺してやる…の………」
黒き塊……いや、女の言葉を聞きながら、これは………と、俺は天を仰いだ。
遥か上空を焦燥を隠しもせずに忙しなく旋回する一羽のカラス。
それを目に映しながら思う。
あの女神めが、この女に過分な祝福を与えやがったな
しかし、なんてことを考えたのが薮蛇だったと気づいたのは、頭上から降ってきたこの声を聞いてからだった。
「嬉しいわ、ルーク。今、私のことを考えてたでしょ」
「やっぱりお前か、イリーナ」
などと答えながら、額に手を当て盛大なため息と共に項垂れる。そんな俺の耳を擽るのは、コロコロと鈴が転がるような女神の笑い声。
「ご挨拶ね。昔あれほど愛し合った仲だというのに」
「そんな記憶など俺には微塵もないが?」
「あら、残念」
黒き塊を挟む形で俺の対面に、まさしく羽が舞い上がるようにふわりと現れた女神イリーナは、たおやかに小首を傾げ、口元に指を添えながらふふふっと艶然な笑みを湛えた。おそらくだが、神々しいとはこういうことを言うんだろうなと、達観気味に考える。
光の粒子をその身に纏い、無数の星を宿すエメラルドの瞳。細い首筋から鎖骨へと流れる長い髪は艶やかに金色に煌めき、その髪の合間から覗く肌は透けるように白い。また着ている白のドレスも光の糸を織り込んだように輝き、とにかく何もかもが俺の対極に位置する女神を前に………
相変わらず無駄に眩しいな。目がチカチカする……
と、決して口には出せない台詞を内心でぼやいた。
「ルーク、前に会ったのは百二十年ほど前だったかしら?」
「さぁな。いちいちいつ会ったとか覚えてねぇよ。それよりこの女に祝福を与えたのはお前だろ?イリーナ」
「だとしたら、何? 」
微笑みはそのままで、俺を見据えた女神はチラリと女に視線を向けてから、軽やかに続けた。
「私は“愛”の女神よ。この箱庭の愛玩人形たちが“愛”を欲するなら、それを与えてやるのが私の使命であり役目。なんの問題があって?」
「よく言う……お前が与えるのは“愛”だけじゃないだろうが」
俺の言葉にイリーナの目は三日月状に細まり、口端が上がる。
「そうね。でも当然でしょ。光を知るためには闇を知らなければならない。希望を知るためには絶望を。幸せを知るためには不幸を。愛を知るためには、そう……憎しみを知らねばならない。違う?」
「………」
「そもそも、私たち神は対極の力を宿している。“希望”の神が“絶望”の神でもあるように、“豊穣”の神が“不毛”の神でもあるように、私は“愛”の神であると同時に“憎悪”の神でもある。そしてこの世界の創造主である神がこの世界の破壊神でもあるようにね。ま、死神であるあなただけは、例外みたいだけど」
そんなことをまるで詩を歌うように告げたイリーナを、俺は地獄からの使者の如き形相で睨み付ける。いや、ここは一応神と名の付く死神である以上、死神としての凄味を最大限に活かした睨みとでも言っておくべきだろう。
確かにイリーナの言う通り、死神である俺には対極となる力を宿してはいない。それは死神には必要ないことだからと理解している。だからそんなことはどうでもいい。ただ気に食わないのは、正しくもあるその理屈の方だ。
しかし、敵……もとい女神も然る者。涼しげな顔でより一層笑みを深めた。
「ルーク、何をそんなに怒っているの?これも創造主、神の鑑賞の一部なのよ。愛しき人形たちが、いかに心を惑わせ、その身を愛にも憎しみにも溺れさせていくか………。どんな時でも紡がれる物語が退屈に終わらないのは、そこに愛も憎しみも、幸も不幸もあるからなのよ。言い換えれば、我らが創造主が破壊神にもならず、今この瞬間でさえも飽きもせずこの箱庭を鑑賞し続けられているのは、人形たちの紡ぐ物語が愉快で面白いからに他ならないわ」
「我らが主の創造主は随分と悪趣味だな………」
地を這うほどの低さで言い放たれた俺の台詞を、イリーナは肩を竦めて受け止め、そっと細い指を口の前に立てた。
「今の台詞、私は聞かなかったことにするわね。そして愛するルークのために祈ってあげるわ。我が創造主の耳に届かなかったことを」
正直なところそんなことはどうでもいい。
届こうが届くまいが、創造主の心はそこまで狭くもない。というより、こんな台詞一つで俺の身が滅ぼされるなら、俺は疾うの昔に塵となって消えているに違いない。
だが、それをしないのは、創造主にとってはこんな台詞など単なる戯れ言にしか過ぎず、これもまたお楽しみ中の余興の一つなのだろう。
この目の前の憎悪に染まった魂が一つ、浄化することも叶わず、死神の俺に狩り取られることもまた………
「それより、どうするつもりなの?この黒き醜悪の衣を纏った魂を。まさか、まだ浄化できるなんて本気で思ってるわけじゃないでしょう?私も、愛の祝福を与えた直後に流行り病で命を落とすなんて思ってもみなかったけど、こうなると哀れなものよね。そのまま愛を愛のままで終わらせることもできたというのに、生に縛られるあまり、愛を憎悪に変えてしまうなんて」
「抜かせ。お前の愛の祝福には、憎悪の種も含ませているだろうが」
「そうね。それが私の持つ力だから仕方がないわ。でもその憎悪の種を、そのまま種で終わらせることもできるのも確かなのよ。そして彼女はそれができなかった。綺麗になっていく娘に嫉妬し、愛した男を盗られるかもしれないと猜疑心を持った。その結果、娘への無償であった愛が憎悪に変わり、死にゆく自分を嘆き、この先を生きていく人々すべてを呪った。それのどこに私の責任が?」
ねぇ、ないでしょ?と謂わんばかりに、愉悦に目を細める女神を前に、俺の苛立ちも限界値を超える。
「責任があるかないかは、俺の知ったことじゃねぇよ。ただ、俺は俺の仕事をするだけだ」
「死神としての仕事?」
「あぁ、だからさっさと俺の前から消えろ!」
俺の言葉に、イリーナからふと笑みが消える。
宝石の如きそのエメラルドの瞳に宿る感情は憎悪。
愛の女神が持つもう一つの顔だ。
だが、その顔を見て何故か俺の中で湧き上がった感情は、畏怖でも驚愕でもなく、得体の知れぬ悲しみと懐古の念だった。
それもこの憎たらしさしかない女神にではなく、他の別の誰かに対して………
それに疑問が渦巻かなかったわけではないが、今はそれを考える間さえ惜しいと、もう一度口を開く。
「聞こえなかったのか?さっさと消えろ」
繰り返された台詞に、イリーナの憎悪は増幅されることはなく、むしろ同じ事を二度も言われたことにショックよりも呆れが勝ったのか、あっさりと霧散した。
「ほんとあなたって、何百年経とうがまったく変わらないのね。愛の女神自ら心底愛してあげてるというのに、靡かないどころか、こんなにも邪険にするなんて」
「だから……」
「ねぇ、ルーク。この世界から一つ魂が消えたところで、なんの問題もないのよ。この魂の輪廻がここで途絶えるだけ……この魂が結んだ縁がここで途切れてしまうだけのことなのよ。つまり、あの魂が闇に染まり、悪魔たちの手に堕ちなければ、この世界にとってなんの問題も影響もないわ」
間違ってはいない。そこに異論を挟む気など毛頭ない。
しかし、俺がこの魂を狩り取るのはあくまでも最終手段であり、完全にお手上げとなってからの話だ。なので…………
「ご高説は承った。だからもう消えろ」
三度目となる台詞。三度も言われれば、さすがのイリーナも根負けしたように苦笑を浮かべ、俺にとっては姦しいだけの口をようやく閉じた。それから一つため息にもならない程度の息を吐き、ふと空を見上げる。
「あらあら、サリュエルの旋回のスピードがさっきよりもぐんと上がったわ。ルークと一緒にいれば、そりゃイライラもするわよね。その気持ち、よくわかるわ。でも、あのままだとその内、目を回して墜ちてきそうね」
などと、愉しげに呟く女神に俺のイライラが募る。間違いなくカラスのイライラもこの神経図太い女神のせいに違いない。常日頃の自分のことは丸ッと棚に上げて、そう言い返してやろうかと思ったところで、イリーナの瞳が再び俺を映し、淑やかに微笑んだ。
「どうやらここにいると、目を回したサリュエルの墜落に巻き込まれそうだから行くわ」
「なら、さっさと行け」
「まったく……少しは別れを惜しんでくれてもいいのに」
「イリーナッ!」
「はいはい。死神としてのお仕事、精々頑張って」
何か思わせぶりにも聞こえる口調でそう言うや否や、イリーナの姿は音もなく光とともに消えた。それを上空から眺めていたカラスから矢のような催促が届く。
カァーカァーカァー
「わかってるッ!そう急くなッ!」
まったく、文句ならイリーナに言いやがれ!と返してやりたいところだが、その時間もどうやら本気で無さそうだ。
もう呑気に黒き塊と化した女の魂に問いかけてる暇もない。というより、もうその必要もない。先程の女の言葉と、招かざる珍客のおかげでこの女の魂を現世に繋ぐ鎖の正体が知れたためだ。
実のところ俺の持つこの剣は、あらゆるモノを断つことができる。地上のモノだろうが、天のモノだろうが、姿なきモノだろうがなんでもだ。だが、そのモノの正体を知ることができなければ、断つことも斬ることもままならない鈍な剣と成り下がる少々厄介な剣なのだ。
しかし、女の鎖が“憎悪から生まれし執着の鎖”と知れた今なら、俺の剣はこの鎖を断つことができる。言い換えれば、その鎖の正体がわからなければどれだけ剣を振るっても断つことすら叶わなかった。だからこそ、カラスに散々急かされようとも一手間をかけざるを得なかったのだが、う~ん……どうやら少々時間をかけすぎたらしい。
言わずもがな、イリーナ来訪が明らかに余計だったのだが、今更それを蒸し返しても仕方がない。
とは思いつつも、俺は内心でクソがッと舌打ちしながら、俺たちを取り囲むように周囲で蠢き始めた存在へと目をやった。
「またもや招かざる客登場か。しかも今度はゾロゾロと……」
こうなると出るのは愚痴とため息ばかりなり……だ。
俺を…いや、俺とこの黒き醜悪の衣を纏った女の魂を取り囲んでいるのは、一様に棒切れのような細い黒き身体と、それに釣り合わない異様に大きな頭に刃物で切り裂かれただけのような目と口、そこに山羊のような角を生やし、蝙蝠のような翼を持つ、下級クラスの悪魔ども。
早い話、俺が神の使い走りなら、こいつらは悪魔の使い走りどもだ。
悪魔ーーーーー。
それは罪を犯した堕天使たちの末路。
なんてことが真しかに言われているが、正しくはそうではない。
本当のところは、罪により翼をもがれ堕天し、命を落とした堕天使どもの魂が、今度は悪魔として生まれ変わり実体化したものだ。
つまり、堕天使そのものが悪魔に転じたのではなく、その魂が悪魔となって再生したというのが一番正しい説明となる。
ただその悪魔としての階級は天使時代の階級に準じるらしく、今回現れた悪魔どもは以前の天使の階級で言えば、九階級の中、最も下位の“天使”、名もなき大多数の天使たちに位置していたと思われる。
ちなみに、今も上空であわあわと旋回し続けているカラスの階級は第八位の“大天使”アークエンジェルズで、神と地上を結ぶ連絡係を務めるだけでなく、時に天の兵士として悪魔との戦いの任に就く天使でもある。
そのため、さっさと降りてきて一緒に戦えよと思わなくもないが、人間に姿が見えるカラス……大天使サリュエルを無闇に晒すわけにもいかないため、その考えは早々に切り捨て、俺は腰に下げた剣に手を添えた。
やれやれ、多勢に無勢とはまさにこの事だな
おそらく……というか、考えるまでもなく、十中八九この女の穢れた魂を狙って現れたのだろう。
やっと面倒な女神が消えたと思ったら、次は下級悪魔どもの登場。寂れた町の閑散とした広場が、人間には見えないとはいえ、千客万来の大賑わいとなっており、俺からしたらお祭り騒ぎどころか、とんだ厄日としか言いようがない。
「あぁ、めんどくせぇ」
カァーッ!
俺のぼやきにすかさずカラスが突っ込みを入れてくる。
訳すと“めんどくさがってる場合ですかッ!”といったところだろうが、考えてもみてほしい。本来ならこの女の魂の鎖を断てば、それで事足りるはずだった。たとえそれが無理でも、この女の魂を狩り取れば俺の仕事は終わり、また呑気に教会でごろ寝ができたはずなのだ。なのに、どういう因果かこの招かざる客二組目の団体様の面倒までみなくてはならなくなっている。
これを面倒と謂わずしてなんとい謂う!と声を大にして言ってやりたい。
「結局こうなるんだったら、イリーナを追い払うんじゃなかった………」
愛の女神だろうが、下級悪魔相手ならイリーナも十分過ぎるほどの戦力だ。いやむしろ、いざとなれば俺より強いかもしれない。
しかし、後悔先に立たず。こうなれば諦めて、俺自身がこの数えるのも億劫な悪魔どもの相手をするしかない。一刻も早く教会に戻って寝るために………。
「さてと、纏めて片付けてやるから遠慮なく来い。こっちも時間が惜しいんでな」
と、告げると同時に俺は剣を腰から引き抜いた。
飾り気一つない剣。それは愛でるための剣ではなく、何かを斬り、両断するための道具としての剣故だ。
そしてその能力はこの世に現存する剣の中でも指折り。
光と闇をも斬ると謳われた剣は、黒き醜悪の衣を纏う女の穢れた魂を手中に収めんと、次々に地中より湧き出でて群がる悪魔どもを容赦なく一閃で薙ぎ払う。が、質より量とばかりに、有象無象の悪魔たちが次々に湧き出してくる状況では埒が明かない。
カァーッ!
「わかってる!先ずは女の鎖を断ち切るッ!」
悪魔どもが狙っているものが女の魂ならば、この魂を現世に繋ぐ執着の鎖を断ち切り、ここから引き離す。
それが浄化への道を辿るか、闇に堕ちた魂として俺に狩られるかはまたこの後の話だ。
ちょうど太陽が西の空へと落ちかけた頃合い。
オレンジ色の火の玉となり、今日を名残惜しむかのように西の空を焦がし始めた太陽の光が、俺の剣先でキラリと反射する。そして、その西からの斜光を俺自身、諸に背中へと浴びながら、悪魔たちの集いし中心部目掛け飛び上がった。
「はあぁぁぁぁぁぁぁッ!」
ザンッ!
着地と同時に振り下ろされた剣。剣はその剣先に何の障害物も感じることなく、渇ききった大地に突き刺さった。が、それでもその剣によって断ち切られたモノがある。
俺がふと視線を上げれば、そこには黒き醜悪の衣を纏った女の悲しげにも、安堵にもとれる顔。その口から紡がれる言葉は怒りでも喜びでもなく、ただの問いかけだった。
「切った……の…ね?」
「あぁ、切った」
その一言だけを返し、俺は剣を即座に地より引き抜き、俺たちを幾重にも囲みながら動きを止めた悪魔どもに、剣を差し向けた。
「この女の魂は今、死神ルークの手により解放された!もうお前らの手に堕ちることはない!このまま立ち去れッ!」
痩せても枯れてもこちらは死神。どんなに大群で囲まれようとも下級悪魔なんぞに恐れを為すことない。
しかもその手に握られるものは光と闇をも切り裂く無二の剣。
一見、多勢に無勢に見えようとも、どちらに分があるかは下級クラスの悪魔にだって容易にわかることだ。
カラスが一鳴きするほどの間。
たったそれだけの間だけで、相手が悪いと悟ったのか、悪魔どもがジリッジリッと後退を始めた。俺たちを中心に狭まっていた悪魔の輪は、後退を繰り返す内に徐々に大きく広がっていく。そしてある程度俺との距離を取ったところで、悪魔どもは地中へとその身を沈め、二組目の団体様もまた、なんとかお帰り願うことに成功した。
これで後はこの女の魂の行く末を見守るだけだな……と息を吐き、女に視線を戻す。執着の鎖は切ったが、残念ながら黒き醜悪の衣は依然として女を被い、このまま女の魂が浄化の道を辿るか、俺に狩られその輪廻の道を閉ざされるかは五分と五分といったところだろう。
本来なら、鎖を切ればすぐに何らかの変化が顕れるものなのだが、何故か今回その変化がなかなか見られず、それどころか女の視線は俺を通り越して広場の入り口付近へと向けられている。
一体どういうことだ?
内心で首を傾げながら、その視線の先を追うように振り返って見てみれば、そこには黒装束姿の少女が一人。
もちろんここはいくら寂れた町とはいえ、人が住む町であることにかわりはない。少女の一人や二人くらいは当然いるだろう。だが、どうしても解せないことが一つ。
少女の目が、間違いなく俺たちに釘付けとなっている点だ。
「まさか……俺たちが見えているのか?」
思わず俺の口から零れ落ちた疑問。
それを拾い上げたのは他でもないこの少女で、俺の疑問に答えるという形ではなく、疑問に疑問を重ねることで、それを俺に知らしめた。
「どうして……ルークさまとお母さんが一緒にいるの?」
俺の名を口にした少女。
この黒き塊と化した女がこの少女の母親である事実よりも前に、自分の名前を知られ、さらにその名を呼ばれたことへの動揺が隠せない。
いや…これは動揺というより……胸を締めつけて焦がす………一体なんだ
思考さえ手放そうとする頭で、その答えを探してみるが、どの言葉もしっくりとこず、俺は途方に暮れたように少女を見つめた。
カァー…カァー…カァー…
西の空は茜。しかし、東の空は星々を連れた夜をひっそりと纏い、空を徐々に闇へと染めていく。
あれほどうるさいと思っていたカラスの声が、今はどこか遠い。
そしてこの瞬間、俺の退屈で憂鬱な日常は終わりを告げた。