小さなお姫様。
フィデリオは「もう一箇所行く場所があります。付いて来て下さい」と城の廊下を歩く。
アウロラは立ち止まる。
当然だ。後をついて行ったら、城だったり王妃の部屋だったりととんでもない場所ばかりなのだから。
「私に何を見せたいのですか?」
アウロラにはフィデリオの考えがさっぱり分からなかった。
フィデリオは「おや? 分かりませんか?」と僅かに目を見開く。
「……はい」
(分からないに決まってます)
フィデリオは眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。
「どちらにせよ。アウロラさんは私に同伴しないと城から出られません。諦めて最後までお付き合い下さい」
「……」
(身分の高い人って強引)
アウロラはフィデリオが少し嫌いになった。
フィデリオが向かったのはカステッロ城内部にある王立図書館だった。ホール会場並みに広くて高い天井の部屋に本棚が並び壁一面に本が埋め尽くされた光景は圧巻だ。
「……凄い」
「ここは世界中の書物が集められています。一般の方でも手続きさえすれば入れますよ」
「いえ。私は文字を読めませんから必要ありません」
貧しい家だから学校に行かなかった。文字を読めなくても、言葉さえ覚えればどうとでもなる。大した事ではないと思ったが
「……嘘ですよね?」とフィデリオは信じられない物を見る目を私に向けた。
(フィデリオ様は裕福だったのでしょう。貧しい者の事を知らないのだわ)
「台本をどうやって覚えているのですか?」
「耳で聴いて暗記してます」
「あの台詞の量を? 演題も多いですよね……」
(そりゃ大変ですよ。必死に覚えました。一言一句聴き逃さない様に気をつけました)
頭の中で台詞を何度も何度も反芻した。頭が痛くなる事もあった。
フィデリオは顎に手を添えて考える素振りをすると真剣な表情で私に言った。
「宜しければ文字を教えましょうか?」
(え?)
何を言っているのか分からなかった。
(文字を教える? 将来宮中伯になる方が? 忙しい時間をわざわざ割いて下民の私に? 聞き間違いね)
戸惑っていると何かを勘違いした様で「ああ。私だと嫌ですよね。では殿下に頼みましょう」とスタスタと図書館の奥に進む。
アウロラも付いていくと、先程王妃様に叱られていた赤髪の少女がいた。少女は椅子に座り机に向かって勉強をしていた。
(さっきは遊びたがっていたのに、ちゃんと勉強しているんだ。偉いなぁ)
少女はフィデリオに気づくと「ちょうど良い所に来たわね。ここを教えて」と分厚い本のページを指差した。
「おや? 勉強が嫌なのでは?」
「別に嫌じゃないわよ。お母様が私を嫌ってわざとさせていると思うと腹が立つけど」
ぬいぐるみを抱きしめる王妃を思い出して、アウロラは何とも言えない気分になった。
「私が教えないといけないのですか?」
「フィデリオが一番頭が良いからよ。教育係は当てにならないわ」
(アンナ様は随分としっかりしてますね)
アウロラはまだ11歳の王女のはっきりと物を言う姿勢に感心した。
「そうですか。では私が教える代わりに彼女に文字を教えていただきませんか?」
「「え?」」
私もアンナ様も首を傾げた。
「持ちつ持たれつって言葉を知ってますか? 相手に求めるなら自分も求めに応じるのが筋です」
意味が良く分からないアウロラはぽかーんとなったが意味が分かったらしい王女は「なるほどね」と頷いた。
「良いわよ。貴女のお名前は?」
「あ、アウロラです。女優をしてます。初めまして王女殿下」
「私の名前はアンナ・フィオーレ。よろしく。文字とはカルマ語? ヴィント語? もっと遠くの国だと少し自信がないけど……」
当然の様に他国の文字を教えようとする王女にアウロラは内心ビビる。
「ち、違います。私は自国の文字すら分かりませんっ!」
王女はフィデリオの様に僅かに目を見開いた。王女はフィデリオに視線を向けて真剣な表情になる。
「……庶民でも学校に行ける筈よね。どういう事かしら?」
「……どうやら我々には把握しきれなかった漏れがあるそうです」
「直ぐに調査をする様に」
「分かりました」
(え? 学校に行けない事がそんなに大変な事なの?)
王女は「授業料が庶民には高いのかしら?」とぶつぶつ言っている。
私は当然だと思っている事をアンナ様に伝えた。
「学校ってそんなに必要ですか? 男ならまだしも女には必要何ですか? 周りの男の人は良く『女の子は頭が良く無くても可愛ければ生きていけるよ』と言うのですが……」
実際問題、ピアチェーヴォレではやっていけた。母だって文字を読めずとも生活出来ている。
王女は「え?」と呆気にとられた。
フィデリオは眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げて「なるほど」と呟く。
(なるほど? 何が?)
私もアンナ様もフィデリオ様に注目した。
「最近カルマの哲学書を読みまして、気になる論文がありました。『女らしさ、とは社会的に作られるモノ』だそうです。だから、『頭が良くなくても女性は可愛くしていれば良い』じゃなく『勉強してはならない。可愛くしていなければならない』と社会的に女性は強制されている事ですね」
アンナ様はその言葉に呆気にとられた。
「……これがお母様が男を嫌う理由?」
フィデリオ様は溜息を吐いた。
「他国は当たり前の様に男性優位の家父長制ですからね。ピアチェーヴォレはアッローラ帝国の頃はそれですし、その面影が根付いているのかもしれません。盲点でした。アウロラさんに学ばさして貰いました。ありがとうございます」
唐突な礼にアウロラは戸惑った。
「お礼を言われる様な事はしてませんが……」
「人の価値観は様々です。貴女が大した事ないと感じても、私には大した事です」
少し楽しげなフィデリオにアウロラは目を見張る。
この宮中伯見習いの考えは分からなかった。けれど、何となく悪い人では無いと感じた。彼が何を見て何を感じているのか興味が湧いた。
「フィデリオ様は私が文字を覚えるべきだと何故思ったのですか?」
「私が文字を覚えて良かったと心から思ったからです。強制はしませんよ」
(文字を覚えたらフィデリオ様の考えが少しは分かるのかしら?)
私は王女様に頭を下げた。
「殿下。どうかご教授願います」
アンナ様は「分かりました。私はお母様並みに厳しいから覚悟してね」とニッコリ笑った。