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「……はい」
最後の言葉を優しい声で告げられ、頷いた。
アステール様が私のことを思い遣ってくれているのがその言動から理解できる。大事にしてもらっているのだなと感じ、擽ったい気持ちになった。
「その……ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことじゃないよ。……別にしないって言ってるわけじゃないんだし」
「アステール様?」
「……なんでもない」
すっと視線を逸らされた。
誤魔化すような仕草に首を傾げるも、これ以上追及しても仕方ないと思ったので触れずにおく。
話している間に、部屋に着いてしまった。
「どうぞ」
自室の扉を開け、アステール様を招く。彼が入室してから扉を閉めた。
扉を閉めるのは、リュカの逃亡防止のためだ。二度と、万が一のことがあってはならないと、その辺りはかなり警戒している。
「リュカ、着いたわよ」
窓も全部閉まっているのを確認してから、アステール様がキャリーケースの入り口を開け放った。馬車の中では眠っていた様子だったリュカだが、目が覚めていたのか、元気よくキャリーケースから飛び出してくる。
「にゃー! (やっと帰ってきた!)」
聞こえる可愛らしい心の声に、頬が緩む。彼がここを己の家だと認識してくれていることが嬉しいのだ。
「ふふ、帰った、ですって」
「リュカにとってここは自分の家だからね。当然だよ」
ふたりで笑っていると、部屋中の匂いを嗅ぎ、あらかた調べ終わったらしいリュカが、とことこと戻ってきた。私の足を踏むようにして、ごろんと横になる。
甘えるような声で一声鳴いた。
「なー(撫でて!)」
「はいはい」
しゃがみ込み、リュカの頭を撫でる。額の辺りを擦るようにすると、リュカは嬉しそうに目を細めた。そうして今度はアステール様を見る。
「なー(お兄ちゃんも)」
「え、私も?」
どうやらリュカはアステール様にも撫でてもらいたいらしい。リュカの要望に応え、アステール様が彼の背をゆっくりと撫でる。
私に頭を、アステール様に背中を撫でられたリュカはご機嫌模様だ。
横になっているのに尻尾がぴょんと上に上がっている。
だが、連続して撫でてくると、リュカの抜け毛がたまってきて、猛烈にブラッシングがしたくなる。
「……うう。抜け毛がいっぱい。アステール様、ブラッシングがしたいです」
「気持ちは分かるけど、もう少し、リュカが満足するまでは我慢かな。あ、あと、頑張ったリュカにおやつをやるって話は?」
「! そうですね」
そうだ、そうだった。
リュカが足の上から退いてくれたタイミングでおやつを取りに行く。おやつを仕舞っている場所を覚えているリュカは、すぐに尻尾をびゅんと立てた。
凄まじい勢いで私の足下に駆け寄ってくる。
「なーん! なーん! なーん!(おやつー!)」
引き出しを開けただけでこの勢いだ。
期待で目がキラキラと輝いているのが分かる。黒目がちょっと大きく見えるこちらを見上げてくるポーズ。これが何とも言えず可愛かった。
「可愛い……」
思わず手が止まってしまう。待ちきれないリュカが二本足で立ち上がる。お強請りをするように前足をぱたぱたと掻いた。その仕草に胸を打ち抜かれた。
「か……かわ……かわ……」
「確かに可愛いけど、リュカが待っているから、早く用意してやったらどう?」
「……そうします」
確かにその通りだと我に返り、リュカのお気に入りである液状おやつを用意した。
餌皿を置いてやると、勢いよく顔を突っ込む。
三日くらい絶食したのかと思うくらいの鬼気迫る様子に、思わずアステール様と顔を見合わせてしまった。
「リュカは相変わらずだね」
「はい……元気いっぱいに食べてくれるところはいいんですけどね」
「そうだね。あ、スピカ。悪いけど私はもう帰るよ。さすがにこれ以上帰るのが遅くなるのは避けたいから」
「あ、はい……」
時計を見る。時間は夕方を過ぎ、そろそろ夕食の時間帯に差し掛かろうとしていた。
私としてはもう少しアステール様と話したいところだけど、さすがにこれ以上引き留めることはできない。
「仕方ありませんものね。寄っていただけただけでも感謝しないといけないのに、私ってば強欲……」
どんどん欲深くなる己に自己嫌悪しかない。
しゅんとしつつもアステール様を見送ろうとすると、彼は私の手を握りしめてきた。
「アステール様?」
「私だってもっとスピカと色々話したいよ。せっかく君と恋人になれたんだからね」
「はい……」
「ああ、そんなに悲しそうな顔をしないで。心が痛くなる」
「申し訳ありません……」
寂しいと思う気持ちが顔に出てしまったようだと気づき、慌てて表情を元に戻そうとする。だが、なかなか上手くいかない。困っていると、アステール様が言った。
「じゃあ、こういうのはどうだろう。私としてもスピカともっと話したい。だから、明日、一緒に昼食を食べるんだ。昼休みは一時間ちかくあるからね。一緒にいる時間を増やすにはちょうどいいんじゃないかな」
「お昼ご飯、ですか……」
思いもしなかった提案に目を瞬かせる。
アステール様がこちらを窺うように口を開く。
「もちろん君が嫌なら無理にとは言わない。その……以前に誘った時もあまり乗り気ではなかったようだったし」
「あ……」
アステール様が言っているのは、以前、昼食を共にと誘って来た彼に断りを入れたことだろう。
あの時は、互いに恋愛感情もないのに義務で一緒にいる時間を増やすのはよくないと思って断ったのだ。アステール様の時間を奪いたくないという気持ちもあった。
だけど、今は事情が違う。
アステール様が私と一緒にいたいと本心から思ってくれていることは分かっているし、私も……共に過ごす時間を増やしたい。
「ええと……」
どういう風に答えようか考えていると、アステール様が焦ったように言った。
「いやごめん。今の話はなかったことにして」
「え、何故ですか?」
「だって……乗り気じゃないんだろう?」
「へ?」
どうやら返事が遅れたことを、私がどう断ろうか迷っていると受け取ったらしい。
それは間違いなく勘違いなので訂正させてもらうことにする。
「私は、お誘いを嬉しく思いましたけど」
「え」
「昼食を一緒に、ですよね。アステール様さえよろしければ是非」
「い、いいの?」
「もちろんです」
笑みを浮かべ頷く。アステール様はホッとしたような顔をし、何度も頷いた。
「そ、そうか。じゃあ明日、昼休みに君を迎えに教室まで行くことにするよ。それで構わない?」
「はい、お待ちしております」
返事をすると、アステール様は目を細め、心底嬉しそうに笑った。
「うん、嬉しいな。ずっと君と一緒に昼休みを過ごしたいと思っていたから」
「アステール様……」
その言葉で、私が以前、どれだけ彼を傷つけてしまっていたのかを悟ってしまう。
顔を曇らせた私を見て、彼は慌てて口を開いた。
「別に謝って欲しいわけじゃないから。そういう過去があるからこそ、今、余計に嬉しいんだし。ええと、じゃあ私は行くね。明日、楽しみにしてる」
「……はい」
謝罪は要らないと言われてしまい、口を噤む。謝りたいと思うのは私の自己満足だ。
「スピカ、目を瞑って」
「? はい」
何と言えばいいのか複雑な顔をしていると、アステール様がそう言った。素直に目を閉じる。唇に甘い感触。
「え」
パチリと目を開く。
アステール様は悪戯が成功したような顔をしていた。
「じゃあ、また明日。見送りはいいよ。今、お別れのキスをもらったからね」
「っ!」
「愛してるよ、スピカ」
ヒラヒラと手を振り、アステール様が部屋を出て行く。
不意打ちの二度目のキスに、思わず唇を押さえ、その場に蹲ってしまう。
「~~!」
頬が熱を持ってしょうがない。
恥ずかしくて、でもそれ以上に嬉しくて、自分の感情を制御できない。
「私も、好き、です」
アステール様がいなくなった部屋で、ひとり呟く。
それに対し、いつの間にか足下にやってきたリュカが「にゃあ」と可愛い声で返事をした。




