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◇◇◇
夕食の時間になった。
私は一旦部屋に戻り、私服に着替えてから一階にある食堂へと足を運んだ。
着替えの際、子猫の様子を見たが、リュカはぐっすりと眠っており、起きる様子はなかった。その際、ちょいちょいとおでこを撫でたのだが、擽ったそうな顔をされ、悶絶死しそうになった。
――何だこの愛くるしい生き物。めちゃくちゃ可愛いんですけど。
可愛い前足にも気を惹かれ、更にちょんちょんと触って見たところ、キュッと指を握られてしまった。
「ひえっ……柔らかい……気持ちいい……幸せの感触……」
声が震えた。
あたたかい肉球の感触が、信じられないほどの幸福を運んでくる。むにっとした表情はどこか笑っているように見え、愛おしさで胸が苦しくなった。
――可愛い。この笑顔、守りたい……! いえ、私が守るのよ!
わずか一日ですでにメロメロである。分かってはいるけれど、子猫の驚異的な愛らしさにはとてもではないが勝てそうにない。むしろ全面降伏だ。
――はあ……お猫様、尊い。可愛い……。
心臓が、バクバクしている。
「はうん……」
幸せを噛みしめていると、指を離してくれたので、残念に思いつつも起こさないようにそっと離れた。
一応、目を覚ました時のため、使用人のひとりに見てもらうことにする。
まだ生まれて三ヶ月ほどの子猫なのだ。目を離すのは心配だった。
「遅れてすみません」
食堂に入ると、すでに全員が揃っていた。
父に母、そして弟のカミーユ。
弟は食堂に入ってきた私に目を向けると、パッと顔を輝かせた。
「姉様!」
「ただいま、カミーユ。今日は何をしていたの?」
「うっ……」
笑顔を見せると、カミーユはばつの悪そうな顔をした。
「その……今日は家庭教師の先生が来る日で……」
「そう、勉強をしていたのね。偉いわ」
「……うん。まあね」
両親が甘やかしているせいか、カミーユは勉強が苦手だ。家庭教師から逃げる日も多くあり、教師たちはいつも手を焼いている。
そして、せっかく美少年に産まれたにもかかわらず、弟はちょっとどころではなく太っていた。
弟は甘いものが大好きで、運動が嫌いなのだ。
私も注意はするのだけれど、弟は怒られるのが嫌いで、すぐに逃げてしまう。
このままではいけないと思ってはいるようなのだけれど、弟は意志が弱くなかなか上手くいかないみたいだった。
――本気なら、私ももっと協力するんだけど。
実際、何度か弟のダイエットなり、勉強なりを手伝ったことがあるのだが、すぐに挫折してしまった。
両親も、無理なダイエットをする必要はないと言い、カミーユも辛いのは嫌だと言うので諦めたが、もっと心を鬼にすればよかったと今は後悔している。
そんなカミーユは、やはり今日も家庭教師の先生から逃げていたらしい。
返事をした時に目を逸らしたので一発で分かる。
「駄目じゃない、カミーユ。将来、あなたはこの家を継ぐんだからしっかり勉強しないと」
「……分かってるけど、今日は新作のお菓子が食べたくて」
「もう……」
「ごめんなさい、姉様」
「私に謝られても困るわ。家庭教師の先生に謝りなさい」
「……うん」
「スピカ、それくらいで」
父がやんわりと諫めてくる。食事の前にするような話でもないと気づき、私は話を止め、自分の席へと座った。
使用人たちが動き始める。執事がスープを並べ始めた。
今日のスープは、豆の冷製スープのようだ。
「……僕、豆は嫌い……」
「駄目よ、ちゃんと食べないと」
弟は好き嫌いも多い。父も母も嫌いなら食べなくていいと言う人たちなので、嫌そうな顔をするカミーユを諫めるのは私の役目だ。じっと弟を見つめると、カミーユは諦めたようにスプーンを手に取った。
私が口うるさく言うせいか、弟は私には弱いところがある。
普通なら嫌われてもしかたないと思うのだが、何故か弟は妙に私に懐いていた。
私も年の離れた弟が可愛く、なんやかんや小言を言いつつも、寄ってくる弟に付き合うのが常だった。
「……うう。美味しくない……」
「何を言っているの。美味しいじゃない」
冷たい豆のスープは口当たりもよく、とても美味しかった。手間を掛けて裏ごししているのだろう。滑らかで優しい味わい。おかわりが欲しいくらいだ。
食事に文句を言う弟を窘めながらの食事が続く。
食後のお茶になったタイミングで、父が私に目配せをしてきた。
「……スピカ」
これは、リュカのことを話せと言っているのだとピンときた私は頷いた。
カップを置き、カミーユを見る。
「カミーユ、ちょっといいかしら。話があるの」
「なに?」
デザートを三人前平らげたカミーユが、上機嫌で返事をする。そんな弟に私は聞いた。
「あなた、猫って嫌いだったかしら?」
「猫? ううん、別に。好きでも嫌いでもないけど。それがどうしたの?」
嫌いではないという言葉を聞きホッとした。
良かった。嫌いだと言われたらどうしようかと思った。
「あのね、実は私、今日、子猫を拾ったの。お父様たちにはもう了承をいただいているのだけれど、あなたにも報告しておこうと思って」
「は? 姉様、猫を拾ったの?」
「ええ」
頷くと、カミーユは眉を顰めた。
「……ふうん」
「何? いやなの?」
「ううん、別に」
そう答えながらもカミーユの頬は膨らんでいる。機嫌を損ねているのは明白だった。
だけど、今の私には、弟が『嫌ではない』と言ってくれたことが何よりも嬉しかったのだ。
だから私は弟が機嫌の悪くなったことに気づきつつも、お礼を言った。
「ありがとう、カミーユ。良かったらあなたもリュカと仲良くしてあげてね」
「……気が向いたら。でも姉様。猫が来たからって、僕を蔑ろにはしないでよ?」
「馬鹿ね。そんなことするはずないじゃない」
「……本当かな」
ムスッとする弟だったが、可愛い弟を放っておくはずがない。
疑わしげに私を見てくる弟に大丈夫だともう一度言うと、不承不承ながらもカミーユは頷いた。
「……分かった。信じるよ、姉様」
「ええ。ところで、明日はお勉強をサボっては駄目よ。ちゃんと勉強をしないと将来困るのはあなたなんですからね」
「うへえ……」
カミーユが口をへの字に曲げる。聞きたくないと両手で耳を塞ぎ始めた弟を見て、両親が吹き出す。
「姉弟、仲が良くて私たちも嬉しいわ」
「本当に。お前たちが幸せに暮らしてくれることが私たちの望みだよ」
母と父が慈愛の笑みを浮かべる。
本当に、優しい両親なのだ。前世の記憶を持っていたせいであまり子供らしくなかった私のことだって、「この子は賢い子だ」の一言で受け入れてくれた。
家族と変わらず過ごせることが、私の一番の望み。
今日判明した『乙女ゲーム』になんて負けるわけにはいかないのだ。
そう、子猫騒ぎですっかり忘れていたけど、私は『悪役令嬢』なんて立ち位置にいるらしいのだから。
『悪役令嬢』。
ある意味破滅を約束された位置にいるキャラ。だけど私は破滅なんかしたくない。
今日家族となったリュカを大切に育てることももちろんだけど、変わらぬ穏やかな未来を掴むために、できることはしなければ。
――そのためには、ヒロインとアステール様の動きをきちんと把握しておかなければね。
アステール様がヒロインにグラリときたら、即座に婚約者の地位を返上できるように、今から心の準備をしておかなければ。
――頑張ろう。
改めて私は、恐ろしい未来を回避しようと誓うのだった。