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◇◇◇
「ね、今日は久しぶりに君の屋敷に寄っていいかな」
無事、話し合いを終えたあと、アステール様がとうとつにそう言った。
ようやく真っ赤だった顔色も戻り、早かった脈拍も元に戻った私はアステール様から離れ、座席に座りながらも聞き返した。
「うちの屋敷にですか? 構いませんが、お忙しいのでは? 確かそうおっしゃっていましたよね」
話がしたいと私が切り出した時にアステール様が言っていたことを思い出して指摘すると、彼は憮然としながら言った。
「あれは君から別れ話をされたくなかったから、言っただけ。……せっかく仲直りできたんだ。もう少し一緒にいたいと思っては駄目かな」
「……い、いえ。大丈夫……です」
心臓が飛び跳ねた。
せっかくいつもの自分に戻れたと思ったのに、すぐこれだ。アステール様の甘い声を聞くと、心臓の鼓動が馬鹿みたいに早くなる。
「良かった。最近、君といられなかったから寂しくて。あ、明日からまた一緒に登下校しようね。いつもの時間に迎えに行くよ」
「い、良いんですか?」
「もちろん。というか、私がひとりで行くのが嫌なんだ。ここのところずっとひとりで寂しくてね。やはり隣に君がいてくれないとと思ったよ。だから、これは私からのお願い。スピカ、私と一緒に行こう?」
「は、はい」
コクリと頷く。
自分勝手だと分かっていたが、アステール様の言葉が嬉しかった。だって私も同じ。ひとりでの登下校は、やはりどこか寂しく感じていたのだ。だからまた明日からアステール様と一緒に学園に行ける。そう思うと、勝手に口元が緩んでしまう。
「そ、その……嬉しいです。私も……寂しかったので」
勇気を出して素直な気持ちを口にしてみたものの、急に恥ずかしくなり、私は膝に両手を置いて俯いた。ああ、言うんじゃなかった。
内心、酷く後悔していると、アステール様がずいっと顔を近づけてくる。
「ねえ」
「わっ……ち、近いです。アステール様」
至近距離で話し掛けられ、吃驚した。バクバクする心臓を押さえながら彼を見る。
「な、何ですか」
「いや、スピカが可愛いなって思っただけ。何だろう。本当にすごく可愛いんだけど。え、意識してもらえるとスピカってこんなに可愛くなるの?」
「か、可愛いって何ですか」
可愛いを連呼され、頬に朱が走る。好きな人に『可愛い』と言われて嬉しくなったのだ。我ながら単純だと思うが、浮き立つ気持ちは抑えられない。そんな私を見たアステール様が真顔で言う。
「ほら、今も。すっごく可愛い顔をしてる」
「し、知りません。私はいつも通りです!」
「ええ? そうかな。確かにスピカはいつも可愛いけど、その比じゃないよ。……誰かに取られないか心配になってしまう」
「私はアステール様の婚約者です。誰も取ったりはしませんよ」
「うん。私も私以外の誰かにスピカを渡すつもりはないかな」
はっきり言われて、思いきり照れた。
独占欲が嬉しいと思ってしまう自分がチョロすぎる。本当に、好きと自覚してから、私は坂道を転がるように馬鹿になっている気がする。以前は同じようなことを言われても、ここまで喜びは感じなかった。『好き』というのは本当に怖いと思う。
照れ照れと嬉しそうにしている私を見て、アステール様が目を細めた。
「やっぱり可愛い」
「あ、あんまり可愛いって言わないで下さい。その……恥ずかしいので」
「え? 可愛いと思ったから言っただけなんだけど。意図的に言わないようにするのは難しいな……」
「難しくてもやって下さい」
「無理じゃないかなあ。だってスピカ、すごく可愛いから」
「ほら、また言ってる……」
「本当だ。うーん、やっぱり両想いになって私も少し浮かれてるのかな。普段以上にスピカが可愛く見えるんだよね」
真面目に呟かれた言葉に思いきり反応した。
「ア、アステール様。い、今、両想いって……」
「あれ? 違ってた? だって期待していいんでしょ? つまりはそういうことだって私は認識してるんだけど」
「……う。明言はしないで下さい……」
恥ずかし過ぎて倒れそうだ。
確かに先ほど彼の言葉に頷きはしたが、まだはっきりとした言葉にはしていないし、なんならもう少しくらいは曖昧な感じに濁しておきたいのだ。具体的には私の覚悟が決まるまで。
そう思っているのに、今からこれでは先が恐ろしいと思ってしまう。
「待ってくれるっておっしゃったじゃないですか……」
恨めしげにアステール様を見ると、彼はにっこりとそれは良い笑顔で言った。
「言ったよ。実際、待つ気もある。だからこれ以上は止めてあげる。でも、できるだけ早めに頼むね」
「早めに、ですか」
「うん。私は早くスピカと恋人らしくイチャイチャしたいから」
「っ!」
はっきりと言葉にされ、心臓が飛び跳ねた。顔を真っ赤にしてあわあわと言葉にならない呻き声を上げる私に、アステール様は「そういうことだから、早くね」ともう一度釘を刺したのだった。
◇◇◇
「……疲れました」
「そう?」
屋敷に着き、タラップを下りる。車内でアステール様から繰り出される甘々攻撃にすでに満身創痍。疲れ果てた私をエスコートしながらアステール様が首を傾げる。
「私はすごく楽しかったけど、スピカは違った?」
「……ち、違いませんけど。わ、私はこういうことに免疫がありませんので、そ、その……ほどほどにしていただけると助かります」
私は前世の記憶持ちだが、その前世でも恋人がいた試しはない。男っ気など全くなかったのだ。そんな私にアステール様の攻撃は威力が高すぎる。甘い言葉もそうだが、意図的に触れられるたびに、緊張しすぎて寿命が縮むかと思った。
だが、アステール様は分かっていないようだ。
「え、でも今までとあまり変わらないと思うけど。前からこんな感じだったよね?」
「違います」
「そうかな。特に変えたつもりはないんだけど」
「……違うんですよ」
主に私の心の在り方と受け取り方が。
最初は、アステール様の甘々は婚約者に対する義務なのだと思っていた。だから、全然平気だった。時々恥ずかしいなとは思ったけど、向こうが義務でやっていることに反応するのもおかしいかと気にしないようにしていた。
アステール様が本気で私を好きなんだと気づいてからは、ただただ恥ずかしかった。
私のことを好きだということは分かったから、もう止めて欲しい。応えられないのだから不用意に近づいてこないで欲しい。そんな気持ちでいっぱいだった。
そして今。ヒロインであるソラリスと友人関係になり、どうやら私とアステール様と結ばれることに支障がないこと。そして私も彼を好きだと自覚してしまったことで、私の情緒は大変なことになっているのだ。
アステール様が死ぬほど格好良く見えるし、何を言われてもときめいてしまう。
軽く手に触れられただけでも、過剰に反応する始末だ。
これで名実共に恋人となった日には、私はどうなってしまうのか。実はかなり不安である。
――こ、恋人になるのは、もう少し免疫力がついてからでもいいかな……。
アステール様が聞けば、絶対に怒るであろうことをチラリと考えてしまう。いや、私もさすがにひどいと思うので、そんなことはしないけれども。
一瞬、脳裏に過ってしまうくらいには、私もいっぱいいっぱいとそういうことなのだ。
「お嬢様、お帰りなさいませ。……まあ、殿下も」
馬車を降りた私たちを、使用人たちが出迎えてくれる。彼らはアステール様を見ると驚いた顔をし、次に安堵の笑みを浮かべた。彼らも私がアステール様と登下校しなくなったことを気にしていたのだ。はっきりと言葉にして事情を尋ねてきたものはいなかったけれど、心配されていたことは、その態度からも分かっていた。
「そ、その……明日からまたアステール様と一緒に登下校することになったから」
「! さようでございますか!」
ぱっと皆の顔が明るくなる。あからさまに嬉しそうな顔をされ、すごく恥ずかしくなった。
アステール様がクスクスと笑う。そうして私の肩を抱き寄せた。
「どうやら皆には心配させてしまったようだね。大丈夫。私とスピカの間にはなんの問題もないよ。ね、スピカ?」
「ひえっ……は、はい」
だから過剰なスキンシップは勘弁して欲しいと言っているのに。
一瞬で赤くなる私を見て、何かを察したのか、使用人たちの視線が生ぬるいものになる。
違うと否定したい気持ちに駆られるが、何を言ったところで今のこの状況を見られたあとでは言い訳にしか聞こえないだろうと分かっていた。
「……アステール様。中に入りましょう。その……久しぶりですから、リュカとも会ってやって下さい」
「もちろんだよ」
声を掛けると、アステール様はすぐに頷いてくれた。そうして肩から手を離し、今度はこちらに向かって差し出してくる。
「はい」
「? なんですか?」
「ん? 手を繋いでいこうっていうお誘い。駄目だった?」
ひょっと喉から変な音が出た。
だから、無差別に攻撃を仕掛けてくるのは止めて欲しいのだけれど。
「あ、あの……いえ……駄目ではありませんが……」
手を繋ぐというのは決して恥ずかしいことではない。実際、今までに何度も彼とそういうことをしてきた。学園内、皆の目の前でやったことだってある。
そう、慣れているのだ。
それなのに、今、改めて『手を繋ごう』と言われて、酷く動揺している自分がいた。
――手? アステール様と手を繋ぐの? 無理!
形だけの婚約者だった時なら気にならなかった。だがそれが、好きな人にシフトチェンジすると、途端にハードルが激しく上がる。
――い、今までどうやってアステール様と手を繋いでいたかしら?
差し出された手をガン見してしまう。この手に己の手をどう絡めればいいのか、それすら分からなくなっていた。
「どうしたの? スピカ」
「ひあっ」
手を凝視したまま動きを止めた私に痺れを切らしたのか、アステール様の方から私の手を握ってきた。温かい感触に全身が硬直する。
「う……あ……」
――なんか、温かい!
当たり前なのに叫びたくなってくる。全ての神経が手に集中したかのような気持ちになってきた。そんな私の様子に全く気づかないアステール様は私の手をしっかり握ると、笑って言った。
「変なスピカ。さ、行こうか」
「は……はい」
蚊の鳴くような声ではあるが、なんとか返事をする。
好きな人に好意を持ってもらえているのは嬉しい。だけどそれ以上に心臓がもたない。
私は泣きそうになりながら屋敷の階段を上った。