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「……私」
「大丈夫だよ。君の弟はきっと君を嫌ってなんかいない」
「……え」
顔を上げる。アステール様が慰めるように私の肩を抱き寄せた。
「だって考えてみてよ。君の弟、カミーユはリュカを二階のバルコニーから逃がした。逃がしただけなんだ。嫌な話だけど、本当にリュカがどうなってもいいと思っていたのなら、彼はきっとリュカを二階から投げ捨てていたと思う。その方が簡単だし、傷つけるつもりなら確実だからね。だけど彼はそれをしなかった。それは何故か。……私はね、彼が君に嫌われたくないと思っていたからだと考えているよ」
「アステール様」
「もちろんこれは結果論だ。無事に戻って来たから、こんなことを言えているだけ。リュカは今も見つかってなかったかもしれないし、どこかで怪我をしていたかもしれない。その可能性もあるよね。でも、あそこで君の弟が、『投げ捨てる』ではなく『逃がす』を選んだのは、確か。彼の心のどこかに、さすがにそこまでしたら君に許してもらえないかもという気持ちがあったんだと思う」
「……」
考えもしなかった話をされ、目を瞬かせた。
だけど確かにそうだ。
カミーユはリュカを二階から放り投げたりはしなかった。もちろんやってはいけないことに代わりはないが、外に出しただけでそれ以上のことはしなかった。
放り投げた方が手っ取り早いのは間違いないし、それを彼も分かっていただろうに。
「……」
「……君にも反省すべき点があった。それはその通りだ。だから君たち姉弟はきちんと話し合わないといけないね。これからも姉弟なかよくやっていきたいんだろう?」
「……はい」
アステール様の言葉に返事をする。
彼の言うとおりだ。このまま弟と嫌いあうような関係にはなりたくなかった。
「弟と、ちゃんと話し合います」
「うん、その方が良い。まあ、それはそれとして、二度目がないように注意する必要はあると思うけどね」
「はい」
その言葉には強く頷いた。
現段階でカミーユは反省しているわけではない。もう一度がないとは言い切れないのだ。
「……あんまりしたくはありませんが、お互いのためです。カミーユに部屋に立ち入らせないようにメイドたちに申しつけます」
「そうだね」
「……あんな辛い思いをするのは二度と嫌だもの」
使用人達からリュカが屋敷の外に出たと聞いた時は、血の気が失せるかと思った。
結果的に庭にいたから良かったようなものの、もし屋敷の敷地から出ていたら、交通事故に遭う可能性だってあったのだ。
「なあ」
「ああ、ごめんね」
キャリーケースの中からリュカが主張するように鳴いた。
早く出してくれと言うアピールなのだろう。それに気づいた私は、部屋中の扉や窓が閉まっていることを確認してからキャリーケースの扉を開けた。
バン、と音が出そうな勢いでリュカが飛び出してくる。
「なーん!(やっと出れた!)」
よほど窮屈だったのだろう。リュカは晴れ晴れとした表情をしていた。そのリュカを捕まえ、全身のチェックをする。
腹回りに触れると、リュカは止めろといわんばかりに短い足で私を蹴った。じゃれあいの延長みたいなものなので全然痛くない。
「怪我は……ないみたいね。でもあとで一応、先生に診てもらいましょう」
短い間とはいえ、外に出たのだ。何もないとは思うが念のため。
「リュカ……怖かったわよね。早く見つけてあげられなくてごめんね……」
「なあ」
リュカを見つけた場所は、何度か探して回っていた。よほど深くに潜り込んでいたのだろうが、すぐに見つけてあげられなかったことが悔やまれる。
「……」
「っ! アステール様」
ひょいとアステール様が後ろからリュカを覗き込んできた。突然の行動に驚く。
「な、なんですか?」
「いや、リュカは私のことを怖がっていないか、ちょっと気になって」
「アステール様を? 何故です?」
アステール様を怖がる理由なんてない。リュカはいつも彼に可愛がってもらっているのだから。
そう思ったがアステール様は首を横に振った。
「リュカは今怖い目にあったばかりだからね。母親代わりに思っている君は平気でも私はどうか……。最悪、君以外全員を怖がっていても仕方ないって思ってる」
「あ」
「リュカにとって人間が怖い生き物になってなければいいんだけど」
そう言いながら、アステール様はリュカの顎に手を伸ばした。チョイチョイと擽る。
リュカは擽ったそうな顔をし、上機嫌な様子だ。
アステール様を嫌がる素振りはどこにも見えない。
「……大丈夫そうです」
「うん。そうみたいだ。良かった」
胸を撫で下ろし、アステール様は私を見た。
「じゃあ、リュカの無事も確認できたことだし、私はこれでお暇するよ。さすがに夕食にお邪魔するわけにはいかないからね」
「あっ、もうそんな時間……」
時計を確認すると、時間はすでに夕刻を過ぎていた。
リュカを探すのに時間が掛かったから仕方ないのだが、アステール様を大分付き合わせてしまったようだ。
「すみません……。せっかく来て下さったのに、こんなことになって」
そんな気はなかったとはいえ、結果的にアステール様を家のゴタゴタに巻き込んでしまった。
「別にいいよ。というか、来て良かったと思ったくらいだし。こういう大事な時に君の側にいられたのは良かった」
「アステール様……」
「リュカが無事に見つかって良かった。じゃ、また明日」
「ありがとうございます」
アステール様が部屋を出て行くのを見送ってから、私は近くのソファに腰掛けた。
赤い夕日が絨毯を照らしている。
本当にずいぶんと遅い時間まで付き合わせてしまった。
「にゃっ」
「リュカ」
ぼうっとしていると、リュカが足下に擦り寄ってきた。その頭を撫でる。
リュカは嬉しそうに尻尾を立てていた。その様子にいつもと違うところはなく、無事で戻って来てくれたのだなと実感する。
「良かった……本当に」
改めて安堵すると同時に、アステール様への感謝の気持ちが込み上げてくる。
今日、リュカがいなくなって動揺する私を支えてくれたのは間違いなくアステール様だった。
彼が色々助言をして、励ましてくれたから、今、こうしてリュカと共にいることができている。
偶然とはいえ、彼が屋敷にきてくれて本当に良かった。
「今度、何かお礼をしなくちゃね」
私にできることなんて殆どないだろうけど。
何かせずにはいられない。
私はリュカを抱き上げ、今日、アステール様が屋敷に来てくれた偶然に心から感謝した。