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「リュカ!」
「ああんっ!(絶対嫌!)」
捕まえようとしても上手くいかない。リュカは素早く動き回り、絶対に私たちには捕まらないぞと徹底抗戦の構えだ。
「どうしよう……」
爪切りを持ったまま項垂れる。
ふたりがかりならなんとかなるかと思ったが、どうやらその考えは甘かったようだ。
その後も捕まえるところまではできたが、爪を切る段階までは至られなかったのだ。
理由は簡単。私がノロノロしていたせいだ。
爪を切ろうと肉球を押し、悪戦苦闘しているうちに、リュカの我慢が効かなくなる。
結局一本も爪を切れないまま、アステール様の帰る時間になってしまった。
「……申し訳ありません、アステール様。お付き合いいただいたのに、爪を切れなくて……」
今日はもう駄目だと諦めたので、爪切りを片付ける。リュカを捕まえるのに協力してくれたアステール様もクタクタの様子だった。
「いや……仕方ないよ。慣れていないことなんだから」
「まさかこんなに大変だなんて思わなかったんです。もっと簡単にできるものと思っていました」
たかが爪を切るだけ。始める前はそう思っていた。
今は、とてもではないが、こんな難しいことできる気がしない。
先生がパチパチと簡単そうに切っていたのを思い出す。リュカを片手で捕まえ、先生はさっさと爪を切っていた。リュカも抵抗していなかったし、なんだ難しいことではないのかと思ったあの時の自分を殴ってやりたい。
「爪切りって難しかったんですね……」
やっぱりこれからも先生にお願いするべきだろうか。それとも病院につれていって、専門の先生に切ってもらうか。できれば爪切りくらいはしてあげたいと思っていたのだけれど。
「……」
「……シリウスに聞いてみる?」
「え?」
がっかりしていると、アステール様が仕方ないといわんばかりの口調で言った。
パッと彼を見る。
「アステール様?」
「確かシリウスは猫を四匹も飼っているんだろう? 爪切りくらいはお手の物なんじゃないかって思ったんだけど」
「それはそうだと思いますけど……でも、宜しいんですか?」
シリウス先輩を家に連れてきたことでアステール様が怒ったのはつい最近のことだ。
婚約者である私が、友人といえど異性を屋敷に招き入れたからということで、理由を聞いた私も申し訳なかったと真摯に反省した。
何せ彼は本気で私を好いてくれているのだ。その私が知らない間に異性と仲良くなっていれば……良い気分にならないのは私にだって分かる。
そういうことで、あれからなんとなく申し訳なくなってしまった私は、シリウス先輩とは少し距離を置いていた。
驚く私に、アステール様が言う。
「彼が猫に詳しいのは事実だからね。分からないことを先達に聞くのは間違いではないと思っているよ。それにその……君はあれからシリウスと接触していないだろう?」
「え……それは、はい」
まさかそれをアステール様に知られているとは思わなかった。
気まずく思いつつも肯定すると、アステール様は苦笑した。
「私に気を遣って、会わないようにしているんだろうなということはさすがに想像が付く。正直にいうなら、そのこと自体は嬉しいと思っているよ。スピカは私を優先してくれたんだってね。でも」
「……」
じっとアステール様を見つめる。彼は私に近づくと、額を指でピンと跳ねた。
「えっ」
「馬鹿だな。そこまでしてくれなくていいんだよ。スピカはシリウスと親交を持ちたいんだろう?」
そう言ったアステール様はとても優しい顔をしていた。
その表情に思わず見蕩れてしまう。
「アステール様……」
「明日にでもシリウスに聞いてみればいい。なんだったらここに連れてくるのも良いかもね。実践してもらえばそれが一番早いから。……もちろん、その場合は私も同席させてもらうけど」
「……」
何も言えず、ただ、彼を見る。私と視線が合った彼は、にこりと笑った。
「この辺りが私の妥協点かな。さすがに二人っきりというのは許しがたくて。……うん、心の狭い男でごめんね。精進は……しても無理だから、ここは諦めてくれると嬉しい」
「そんな……」
心が狭いなんて思うわけがない。
私の為に譲歩してくれたどころか、背中を押してくれたアステール様に、私は心から感謝した。
「あ、ありがとうございます、アステール様。お言葉に甘えさせていただきます。その……早速明日にでもシリウス先輩に聞いてみたいと思いますわ」
無自覚だったが言葉が弾んでいた。
本当は断るのが正解なのかもしれない。
だけど、背中を押してくれたことが嬉しかったから、私は素直にアステール様に礼を言った。
「うん、それがいいよ。じゃあ、私はこれで。また明日ね、スピカ」
「はい、また明日、よろしくお願いいたします」
去って行くアステール様の背中を見送る。彼が私に対して見せてくれた優しさが嬉しかった。
そっと胸の辺りを押さえる。
「……」
先ほどから痛いくらいに鼓動が高鳴っていた。
それが何から来ているかなんて、いくら鈍い私にだってさすがに分かる。
私は、私に対して優しさを差し出してくれたアステール様にときめいているのだ。
本当は嫌なのに、私の為にと我慢をして笑ってくれた彼に、心を握られた。
ああ、つまりはそういうことだろう。全部分かっている。
「……嬉しい」
勝手に言葉が零れ出た。心からの声だと気づき、自分が嫌になる。
簡単によろめいてしまう己が情けなかった。嬉しいと思う単純な自分に反吐が出そうだ。
そう思っているのは本当なのに、彼が私のことを好きなのだと知ったあの時から、私は馬鹿みたいに毎日毎日アステール様を意識している。
駄目だと分かっているのに、アステール様がどんどん特別な存在になっていく。
「駄目、駄目よ。アステール様はヒロインと幸せになるんだから。私が好きになったって無駄なの。傷つくだけなんだから」
自分に言い聞かせるように何度も呟く。
だけど胸のドキドキは全然消えてくれなくて、私はどうしようもなく途方に暮れてしまうのだった。




