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「え……」
「今日は君の屋敷に立ち寄らせてもらうね。大丈夫、ひとりよりふたりの方が確実だよ」
「い、いえそれはそうなんですが……え、でもアステール様、お仕事は?」
まさかの協力する発言にギョッとした。話のネタに使っただけで、爪切りは自分ひとりで行うつもりだったのだ。
目を見開く私にアステールが笑みを浮かべながら言う。
「大丈夫。仕事はなんとでもなるから。それより爪切りかあ……。そういえば以前、爪切りを買っていたね。あれを使うのかい?」
「は、はい……」
この間、一緒に爪切りを買いに行ったことを思い出しながら頷いた。
ハサミの形をした爪切りはちょっと変わっていて、どうやって使うのだろうと首を傾げたのは記憶に新しい。
「私がリュカを抱えるから、スピカがその隙に爪を切るといい」
「え? わ、分かりました……」
驚いている間に、役割までもが決まってしまった。
なんでこうなったのかよく分からない。
だけども、本心ではちょっとだけ有り難いと思っていた。
ひとりでやらねばと思ってはいたが、少しハードルが高いかもしれないと躊躇があったのは事実だからだ。ふたりでなら、なんとかなるのかもしれないと思えてくる。
「ありがとうございます、アステール様。その……助かります」
「お礼なんていらないよ。前から言っているだろう? リュカのことは私も飼い主のひとりだと思っているって。どちらかというと、こんな大事なイベントに誘ってもらえないことの方がショックだよ」
「それは……申し訳ありません。ただ爪を切るだけだしと思いまして……」
「始めてのことはどんなことでも参加したいよ。それとも君は違う?」
「いいえ、違いません」
確かにアステール様の言う通りだ。リュカに関する『始めて』を見逃すなどあり得ない。
私は己の非を認め、素直に謝罪した。
「分かってくれたみたいで良かったよ。あ、スピカ。爪切りの方法は分かってる?」
「え、方法? 普通に切るんじゃ駄目なんですか?」
先生がパチンパチンと手際良く切っているのを見ていたが、特別なことをしているようには見えなかった。人間と同じではないのだろうか。
首を傾げていると、アステール様が苦笑する。
「違うよ。指で肉球を押すんだ。すると爪が出てくる。その爪のね、血管が通っていない部分を切るんだよ」
「???」
頭の中にクエスチョンマークが乱舞していた。
アステール様がなにを言っているのか、ちょっとよく分からない。
「肉球を押す? 爪が出てくる? 血管? ごめんなさい、アステール様。その……せっかく説明してくださったのに申し訳ないのですが、全く分かりません」
理解を諦め、更なる説明を求める。アステール様も困ったような顔をした。
「うーん。私も猫の飼い方の本を読んだだけだからこれ以上の説明と言われても……そうだな、実際に爪を切るときになれば分かるんじゃないかな」
「実際に……。そ、そうですね」
確かにこんなものは実践してみなければ分からないだろう。
だが、とりあえず人間と同じように考えては駄目ということは理解した。
「ありがとうございます、アステール様。私、てっきり普通に切ればいいものと思い、調べもしていませんでした。助かりました」
アステール様に礼を言う。ひとりで爪切りに挑んでいたら間違いなく失敗していたところだった。ホッとしていると、アステール様が私の手を握る。
「ア、アステール様?」
情けないことに声がひっくり返った。手を絡められ、悲鳴が出そうになる。
「だからお礼は要らないって言ったよね? 私がスピカのためになることをするのは当然なんだから、いちいち気にしないで欲しいんだけどな」
「と、当然なんて」
温かい手の感触が恥ずかしくてたまらなかった。離そうとしても上手く行かなくて、余計に絡めとられてしまう。
「当然だろう? だって私は君の婚約者なのだから。私には君のためになることをする権利があるんだ」
そのまま手を持ち上げられ、チュッと甲に口づけられた。
優雅な仕草の中にも色気を感じ、ドキドキしてしまう。
――だ、駄目。意識しては駄目よ……!
カーッと身体が熱くなっていくのを止められない。この彼の甘さが、私のことが好きというところから来ていると思うと、どうしたって嬉しくなってしまうのだ。
――こんなのじゃ駄目なのに。
前みたいに、全く気づいていません、みたいな態度を取らなければいけない。今まで通りに。それは分かっているのだけれども、なかなか上手くは行かなかった。
馬鹿みたいに分かりやすくアステール様に反応してしまう。
そしてそんな私にアステール様が気づかないはずもなく。
わざと不思議そうな表情を作り、じっと私を見つめてくる。
距離が、距離がすごく近い。吐息が掛かりそうな距離に、もうどうしていいのか分からなかった。
「あれ? スピカ、真っ赤になっているね。すごく可愛い顔をしてる。……もしかして私のことを少しは意識してくれてる? それならすごく嬉しいんだけど」
「……い、意識なんて」
近すぎる距離に耐えきれなかった。
きゅうっと目を瞑り、顔を逸らす。それが私にできる精一杯の抵抗だったが、幸いなことにアステール様はそれ以上追及するのは止めてくれた。
近づけてきた距離を元のものに戻し、握っていた手も離してくれる。
「まあいいよ。これ以上スピカを困らせて逃げられても困るし、今日はこれくらいにしておいてあげる。リュカの爪も切らないといけないしね?」
「……あ、りがとうございます」