第五章 爪切りと友人の猫
アステール様が私のことを好きだと理解してから数週間が過ぎた。
彼の本心をようやく分かった私ではあったが、結局私は何も行動を起こさなかった。できることなど何もないと知っていたからだ。
アステール様がいくら私のことを好きでも、それはあくまで今だけの話。おそらく、彼が学園を卒業する頃には、その気持ちは全く別のものへと変化しているだろう。
私への恋心は消え、彼は新たに真実の愛を見つける。そしてその相手とハッピーエンドを迎えるのだ。
この世界が乙女ゲームだと考えれば、それもない話ではない。
――ゲームでのアステール様のルートって、そういうパターンなのかしら。
ヒーローがヒロインと二人三脚で真実の愛を見つける話。
つまり婚約者であり悪役令嬢である私はふたりの噛ませ犬という役どころなのだ。
最初は恋心を向けられていたのに、最終的には「勘違いでした」とばかりに振られるなんて、ある意味、『最初から恋心を抱いていなかった』と言われた方がマシである。
悪役令嬢というのが、元々ヒーローとヒロインに踏みつけにされる為にある存在と考えればそれもある意味納得なのだが、それが自分の役目かと思うと溜息しか出ない。
……これから、アステール様に嫌われる。
それを考えると、心がキュウッと痛くなるけれども、私が悪役令嬢であるのならばそれも仕方のないこと。
私にできることは、もとよりひとつしかない。
彼に恋をしない。ただそれだけ。
とはいえ、なかなか難しいと分かってはいるのだけれども。
だって好意を持たれるのはやっぱり嬉しい。長年、彼との間にあるのは義務による愛情だけだと思っていた私ではあったが、初めて知った彼の気持ちを嫌だとは思わなかったのだ。
そして嫌ではないということは、流される可能性がなくもないということで。
気をつけなければ、きっと私はアステール様を好きになってしまう。
愛しいのだと、好きなのだという眼差しを受け続けて、よろめかない自信など私にはなかった。
好きになっても傷つくだけ。だから好きになどなりたくないのに。
勝てない恋なんてしたくない私は、せめてこれ以上心を傾けないようにしなければと思っていた。
彼の好意には気づかない振りをして、今まで通りに過ごすのだ。
己の気持ちをしっかりと保ったまま、その時に備える。
アステール様とヒロインが結ばれるその時に、泣いてしまわないように、笑顔で「おめでとう」が言えるように、私に向けられていた優しい瞳が別の人を見ることを……覚悟しておかなければならない。
それは想像するだけでも辛い作業だったが、幸いなことに、今の私にはリュカがいる。
愛猫であるリュカがいるのなら、その苦しみも多少は緩和されるだろうと思えた。
そうして自らの指針を決め、私はできるだけ今まで通りの生活を心掛けているのだが――。
「スピカ。どうしたの? 窓の外を見て溜息を吐いて。何か嫌なことでもあった?」
王家の馬車での下校中、ぼうっと窓の外の景色を見ていた私にアステール様が話し掛けてきた。
行動を変えていないので、相変わらず彼との登下校は続いている。
そして、困ったことに、彼の私に対する態度。それが最近更に甘みを増しているように私には思えていた。
甘ったるい声でアステール様が言う。
「スピカ。ね、外ばかり見ていないで私のことを見てよ。ただでさえ学年が違うから学内では一緒に過ごせないのに。貴重な登下校の時間くらい私だけを見て欲しい」
「ひえっ」
擽るように顎に触れられ、ビクンと肩が揺れる。
前からスキンシップが多い人だなと思ってはいたが、最近拍車が掛かっているように感じる。
どうしてそんなことにと疑問に思ったが、すぐに答えは出た。
おそらくアステール様は自分の気持ちを私に分からせようとしているのだ。
彼が本気で私を思っていることを分からせたい。そして、本当の恋人になろうと画策しているのだろう。
彼が私に恋をしていると気づく前なら、彼の行動の理由は分からなかっただろうが、今ならなんとなくでも理解できる。
その気持ちは嬉しかったが、同時にとても苦しかった。
――もう、止めてください。私はあなたには応えられない……ううん、応えたくないんです。
なんど声に出してそう言おうとしたことか。
実際、声に出そうなこともあったが、寸前で堪えた。
だって、それを言えばどうして応えられないのか、その理由を聞かれてしまう。
そうしたら私は答えなければいけないのだ。
あなたはこれから私ではない別の女性と真実の愛を育む予定があるから、と。
それは想像しただけでも心が痛いし、それ以上の問題として、アステール様に頭がおかしいと思われてしまう。
当たり前だ。私が聞いたとしても、病院へ行くことをお勧めする。
そうしてなんだかんだで気づかない振りを続ける私と、気づかせようするアステール様というよく分からない図ができあがったのだが――すっかり私は疲れ果てていた。
気づかなかった時ならスルーできていたアステール様の甘々を、平然と受け流せなくなってしまったからだ。
今も楽しそうに私の顎を擽り続ける彼の目をまともに直視することができない。
だって彼の、私を愛しいと思う目を見てしまうと、恥ずかしくて真っ赤になってしまうのだ。ああ、すっかり罠にはまっている自分が情けない。
恋なんてしないと言っているくせに、馬鹿みたいに意識しているのだから。
私は視線をなんとかアステール様から外しながら、彼に言った。
「別に何もありません。ただちょっと……そうですね、そろそろリュカの爪を切ってやらなければと考えていただけです」
「爪?」
「はい」
コクリと頷く。
彼に言った言葉は嘘ではない。リュカの爪切りについてはここ数日、ずっと頭を悩ませていたことだからだ。
順調に成長しているリュカの爪は、今まではうちの先生が切ってくれていた。だが、ずっとお願いするわけにもいかない。
彼は馬の先生であり、猫の医者ではないからだ。
それに自分の愛猫の爪くらい自分で切れるようにならなければという気持ちもあった。
「先生に頼りきりは嫌だなって。今回からは自分でやってみようかなと」
今朝、爪を確認してみたのだが、かなり伸びていた。仕舞っていても尖った爪の先が見えているような始末。
リュカはベッドに腰掛けている私にひっつくのが好きで、その際によくリネンをふみふみするのだが、ここ数日、爪が引っかかっていたし、昨日の夜なんて、ソファに爪を引っかけてずいぶんと困っていた。暴れはしなかったのですぐに外してやれたが、このままでは怪我をするのも時間の問題だと思う。
そういうことをアステール様に説明すると、彼は真剣な顔で頷いた。
「なるほど、爪切りか。分かった、私も協力するよ」
ありがとうございました。
『猫モフ』3/2に一迅社ノベルス様より書籍化します。
これも皆様のおかげです。ありがとうございます。
更新も再開しますので、ぜひ、よろしくお願いいたします。次回の更新は1/3日曜日です。