第一章 子猫を拾った時にすること
「コメット! コメット!」
屋敷に着いた私は、馬車を降りるのとほぼ同時にメイドの名前を呼んだ。
迎えのために玄関前に並んでいた大勢の使用人の中から、一人の女性が前に出てくる。
「はい、お嬢様」
栗色の髪を一つに纏めた私より少し年上の女性。彼女は私専属のメイドだ。お仕着せを着た彼女は深々と頭を下げた。
「お呼びでしょうか」
「すぐにお湯を用意してちょうだい。この子を洗いたいの」
「この子、ですか?」
首を傾げるコメットに、私はハンカチを少し広げて見せた。中から子猫が顔を出す。
「うなー」
元気な声に、コメットがビクッと肩を揺らした。
「ッ! 猫、ですか?」
「そう、拾ったの。最初はぐったりしていたんだけど、今はこの通りよ。まずは汚れを落としたいって思うのだけど」
「しょ、少々お待ちください!」
私が猫を見せると、他の使用人たちもざわめいた。何人かのメイドやフットマン、そして執事たちが頷き合い、屋敷の中に戻っていく。その背中に向かって言った。
「あとで、自分で報告に行くつもりだけど、先にお父様にも言っておいてちょうだい」
「承知致しました」
執事が振り向き、丁寧に頭を下げる。コメットも慌てて身を翻した。
皆が動き出したのを確認してから、私は隣に立っていたアステール様に向かって深々とお辞儀をした。
「お送りいただきありがとうございました、アステール様。バタバタとしていて申し訳ありませんが、こういう事情ですのでご寛恕いただきたく存じます」
「いいさ。気にしていない」
「ありがとうございます」
いつも優しい態度を崩さないアステール様が怒るとは思っていなかったが、許しを得られてホッとした。あとは彼が馬車に乗って城に向かうのを見送ろうと思ったのだが、何故かアステール様は馬車に乗り込もうとしない。
「アステール様?」
「うん?」
にこりと笑うアステール様を見つめる。
「どうして、馬車にお乗りにならないのですか?」
「え? 子猫に関しては私も当事者のひとりだろう? 最後まで見届けるのが筋だと思うけど」
「……お気持ちは嬉しいのですが、拾ったのは私です。私に責任があると思います」
偶然その場に居合わせただけだというのに、責任を持とうとするあたり、さすがアステール様である。だが、私が見つけ、拾ったのだ。彼は何も関係ない。
「アステール様もお忙しいでしょうし、無理にいていただかなくても……」
「気になるんだ。それとも、私が一緒にいると迷惑かな? それなら仕方ないから帰るけど」
「迷惑なんて……!」
残念そうに言われ、慌てて首を横に振った。アステール様が顔を輝かせる。
「本当に? それなら一緒に行ってもいいかな?」
「……うっ」
眩しい。顔がよすぎる。
アステール様の顔面破壊力の前にあえなく屈した私は、子猫を抱いたまま頷いた。
「はい……お好きにどうぞ」
「ありがとう。じゃ、遠慮なく」
ニコニコと嬉しそうにするアステール様。
しかし一体どうしたというのだろう。
私たちはそれなりの距離を取って今まで過ごしてきたというのに。
会うのは決められた日だけで、週に一度。それも午後の一時間のみ。
学園に行くようになってからは送り迎えをしてもらって多少は会話も増えたけれど、彼が私の屋敷に寄るようなことなど一度もなかった。
まさかアステール様がうちの屋敷に寄っていくとは思わず、本気で戸惑ってしまった。
残っていた使用人たちも、驚いている。何名かは焦った様子で中に駆け戻った。おそらくは皆に報告に行くのだろう。それは当然のことだ。
「お嬢様! お湯の準備が整いました!」
「ありがとう。……ではアステール様。こちらに」
「うん」
どうやら本気でうちに寄るらしい。興味深げな様子でアステール様が屋敷の中に入っていく。
まさかこんな形でアステール様がうちの屋敷に来ることになるとはと思いながらも、部屋へと案内した。
まだ、両親に猫のことを直接報告する前なので、自分の部屋に向かう。私の部屋は、館の二階にある。玄関ロビーにある階段を上り、廊下を歩いた。抱えた子猫がもぞもぞと動いていたが、ここで逃がすわけにはいかないので、しっかりと抱き締め直す。
「駄目。まずは洗わなきゃ。お願いだから大人しくしていて」
「にゃーん」
まるで返事をするように猫が鳴く。小さな声だったが、その響きには力がある。
部屋の前には手伝ってくれたのだと思われる使用人たちがいて、頭を下げていた。
「どうぞ、アステール様」
アステール様を自室に招いている事実を不思議に思いながらも、私は気持ちを切り替えた。
部屋の中ではコメットともう一人のメイドが、大きなタライのようなものを用意してくれていた。
絨毯を濡らさないように、タライの下には敷物が敷いてある。
中を覗き込む。たっぷりのお湯が入っていた。
念のため、お湯の温度を確かめた。ぬるま湯というくらいだ。ちょうどいい。
「怖くないからね……」
ハンカチを広げ、タライの中に猫を入れる。途端、猫は「ふしゃー!」という叫び声を上げた。お湯が跳ねる。逃げだそうとするのを必死で抑え、汚れを落としていく。
「にゃー! ふしゃー!」
「ごめん、ごめん」
尻尾が膨らんでいる。いやなのだろうなとは思うが、止めるわけにはいかない。汚れが酷く、溜息が出た。
「猫用のシャンプーがあればいいんだけど……」
人間用のシャンプーは強すぎるのだと前世で聞いた。
こちらの世界のシャンプーが猫にいいのか悪いのか分からないけれど、分からないのなら、止めておいた方が無難だろう。お湯だけで、汚れを落とそう。
猫にストレスがかかるから本当はお湯に浸けるのもしたくないのだけれど、ここまで汚れているとさすがに洗わないという選択はない。
毛がもつれているのを解くような気持ちで洗う。
肉球が傷ついていないか心配だったが、新しい傷はないようだ。洗うとこびりついていた血の痕がなくなり、かさぶたになっているのが見えた。
足以外に怪我をしたところはないようだが、目が目やにで開かないのが気に掛かる。
とはいえ、さすがに顔を無理やり洗うのは気が咎めたので、先にそれ以外の場所を洗ってしまうことに決めた。
「真っ黒……」
すぐにお湯は色が変わり、真っ黒になった。毛にくっついていたゴミがタライの底に溜まっている。
「お嬢様。お湯を替えましょう」
「そうね。お願い」
メイドたちが汚れたお湯の入ったタライを引き下げ、代わりに新しいタライを持ってくる。最初は抵抗していた猫も、今はぐったりとしていて、逆らう気力もなくなったようだ。
「にゃあ……ん」
「ごめんね。もう少し我慢して」
汚れを落とすと、灰色だった毛並みは綺麗な白になった。黒と茶色模様が身体に3カ所ほどあり、とても可愛い。
足が短い。耳は大きく綺麗な三角で、尻尾は長く、黒と茶色だった。額がハチワレ模様のようになっている。
しかし見事な三色だ。これは、ミケ猫だろうか。