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◇◇◇
――放課後になった。
約束していた通り、アステール様が教室に迎えに来てくれたので、クラスメイトたちに別れを告げ、一緒に馬車へと乗り込む。
馬車が走り始めると、アステール様はホッとしたような顔で私を見つめてきた。
「やっと君に会えた。放課後まで長かったよ」
「まあ、アステール様ってば大袈裟ですわ。朝、お会いしたばっかりですのに」
相変わらず婚約者への社交辞令が素晴らしい。
喜びの表情を浮かべるアステール様に、「ですが、私もお会いしたかったです」と婚約者らしい返しをし、シリウス先輩に言われたことを思い出した。
ぽん、と手を叩く。
「そういえば、昼休みにシリウス先輩にお会いしたのですけど」
「シリウスに?」
ヒヤリとした空気が一瞬にして車内を満たす。
何故か急激に機嫌を急降下させたらしいアステール様が、私を見ていた。
「また、シリウスと会っていたの?」
「またって……昨日と今日の二回だけですけど」
「二回も会えば十分だろう」
「はあ……」
何故アステール様が怒っているのか分からない。首を傾げていると、アステール様は忌々しげに言った。
「どうりで昼休みに君の姿を見なかったはずだよ。食堂にいるものと思っていたのに」
「昼食は食堂でとりましたわ。ただ、すぐにその場を離れただけです。その、シリウス先輩に昨日のお礼を言いたかったもので」
「お礼?」
「店を選んで頂いたお礼です」
「ああ……」
そういえばそんなこともあったと言う顔でアステール様が頷く。それでと先を促されたので、シリウス先輩と話した内容をアステールに言った。
「今日も色々教えて頂きましたの。その、首輪のこととか」
「首輪? そういえば昨日は買わなかったね」
「ええ。ですがやはりあった方がいいようで。迷子防止に役立つのだそうです」
「そうだね。確かに用意した方がいいかもね。首輪が付いているだけで飼い猫と分かるし、住所と名前があれば帰宅できる確率も上がる」
「! そうなんです」
さすがはアステール様だ。私が説明しなくても理由を分かってくれた。
うんうんと頷く。その流れのまま口を開いた。
「で、今日は首輪も見ようと思うんです。それで、どんな首輪を買ったのか、またシリウス先輩に報告したいので、明日も先輩を尋ねたいなと思うのですけど」
「は?」
ものすごく低い声が返ってきて、驚きで目を見開いた。アステール様がとても嫌そうな顔をしている。
「明日も? 明日も君はシリウスのところへ行くと言うの?」
「は、はい……」
「婚約者の私を放置して? あり得ないって思うんだけど」
「いえ、その……いつも昼休みは別々に過ごしておりますので、放置という言葉は該当しないと思うのですけど」
「一緒に過ごそうと提案した私を拒絶したのは君だったと思うけど?」
「す、すみません」
身に覚えのある話を持ち出され、小さくなった。
確かに私はそう言った。反論すべき余地はない。
「え、ええと、駄目、ですか」
そうろっと窺う。アステール様は不機嫌そうな表情を隠しもせず言った。
「婚約者が自分以外の男とふたりきりになるのを許せって言われて、喜んで頷く男はいないと思うけど? 君はどう思う?」
「そ、そうですね」
言い方! と思ったが決して間違ってはいないので頷いた。
とはいえ、場所は図書館で学園内の施設だし、いつでも誰でも入ってこられる開かれた場所だ。後ろ指を指されるようなことはないと思うのだけど。
「……やっぱり今日中にシリウスと話しておくんだった。時間がなかったから明日以降にしようと思ったらこれだ」
イライラとするアステール様を見ていると、どんどん申し訳ない気持ちになってくる。
どう考えても私が考えなしだったせいだ。
でもまさか、アステール様がここまで嫌がるとは思わなかったのだ。
「……だからアステール様に聞くようにとシリウス先輩はおっしゃったのかしら?」
「シリウスがなんだって?」
アステール様が地獄耳だった件について。
小声で呟いただけの言葉を見事にアステール様は拾い上げた。
そうして笑みを浮かべ、無言の圧力をかけてくる。
これは逆らってはいけないと本能で感じた私は素直に全てを吐いた。
「明日、シリウス先輩を訪ねてもいいか、アステール様に了解を取るようにと先輩はおっしゃられたのです……」
私には意味が分からなかったが、実際これほどアステール様は怒っているのだ。シリウス先輩の判断が正しかったのだろうことは分かる。
「申し訳ありませんでした。そんなにいけないことだと思わなかったのです。猫についてのお話を聞かせてもらえるのが嬉しくてつい……」
しょぼくれつつも素直案気持ちを告げると、アステール様は怒りを消して私を見た。
「……シリウスが、私に了解を取るようにと言ったの?」
「はい」
間違いありませんと頷くと、アステール様は仕方ないと言わんばかりに溜息を吐いた。
「……そう。それではシリウスを怒れない。彼はきちんとした男なんだね」
「アステール様?」
怒りを消したアステール様をそうっと上目遣いで見る。何故、彼が急に機嫌を直したのかわからなかった。
彼は苦笑し、私の頭を柔らかく撫でた。
「分かった。そういうことなら行って良いよ」
「えっ、いいんですか? 本当に?」
急に風向きが変わったことに驚いた。
さっきまでのアステール様の様子では、絶対に駄目だと言われるものだとばかり思っていたのだ。
「その……アステール様が嫌だとおっしゃるなら私、別に……」
無理を押してまで我を通そうとは思っていない。だが、アステール様は首を横に振った。
「構わないよ。……嫌だという気持ちは確かにあるけどね。さきほどの言葉で、彼は君が誰のものなのかきちんと弁えているようだということが分かったし。それに、このままだと私が狭量なだけの男になってしまうからね。それはあまりにも格好悪い」
「そう、ですか? アステール様はいつも素敵だと思いますけど」
確かにさっきは少し怖かったけれど、基本アステール様は優しいし格好良い。格好悪いなんて感じたことは一度もない。
だが、アステール様はそうは思わないようで、苦笑いするだけだった。
「本当にいいんですか? なんだったらアステール様もいらっしゃいます?」
「お誘いは嬉しいけどね、明日は城で外せない用事があって、学園は休むことになると思う。だから私のことは気にしなくて良いよ。彼はしっかりした男のようだから、安心して行ってくるといい」
「ありがとうございます……!」
お許しが出て心底ホッとした。
もうシリウス先輩と猫の話ができないかもしれないと、そうなったら嫌だなと思っていたのだ。
アステール様が優しいおかげで助かった。
ニコニコとする私をアステール様が困ったような顔で見つめてくる。
「本当に、私は君に弱いな」
「?」
「なんでもないよ。ほんと、どうして明日の仕事はずらせないんだろう。こういう時、王太子という自分の身分が心から恨めしく思うよ」
まるで本気で言っているような口調だ。じっとアステール様を見つめる。
彼は笑みを浮かべると、「ま、そのおかげで君と婚約できたんだから文句なんてないんだけどね」といつも通り甘い言葉を述べたのだった。