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でも、ということは。
――やっぱりノヴァ殿下も攻略者なんじゃない!
しかも彼はすでにソラリスのことをそれなりに好いているようだ。入学してわずか数日でのヒロインの手腕に驚きを隠せない。
彼女はこのゲームを百周くらいプレイした強者なのだろうか。そしてアステール様を狙っているように見せかけて、実はノヴァ王子も……という可能性もあるのではと思いついた。
そう、もしかして彼女は逆ハーエンドを狙っているのではないだろうか。
逆ハーエンド。
つまりは、攻略対象者全員を一斉に攻略すれば辿り着けるエンドである。
私はこの世界がなんの乙女ゲームなのかすら分からないから、そもそも逆ハーエンドが存在するかも分からないのだが、それだけは駄目だと思った。
――ヒロインにはアステール様だけを狙ってもらわないと!
逆ハーエンドなんてあり得ない。何故ならヒロインにはアステール様の子を産んでもらわなければならないのだから。
未来の王妃となるべき存在が、他の男と関係を持つようでは困るのである。
見ればヒロインとノヴァ王子は親しげな友人のように気の置けない会話を楽しんでいる。
時折、ノヴァ王子から軽いボディタッチもあり、仲が良いのは一目瞭然だ。
普通に考えれば、ヒロインはアステール様ではなく、ノヴァ王子狙いと思うのが正しいのだろう。だが、『悪役令嬢』たる私に宣戦布告してきたり、ノヴァ王子の『姉上』呼びを咎めたりしている時点でアステール様も狙っているのは確実である。
現実で逆ハーエンドが上手く行くとは思えない。泥沼にアステール様が巻き込まれるのは避けたかった。
「あ、あの」
「……なんですか?」
話し掛けると、ヒロインは不審そうな目で私を見てきた。
「ノヴァ殿下が私のことを姉と呼んでいるのはその……愛称のようなものだから気にしなくても大丈夫よ。それにあなたの言う通り。私は確かにアステール様と婚約しているけれど、結婚まで至るかなんて誰にも分からないわ」
「は? あなた何を言って……」
ヒロインの眉が寄る。私は必死で彼女に言った。
「だからあなたもその……できればたった一人を見て欲しいと言うか。ほら、アステール様はとても素敵な方だし」
ノヴァ王子もいる。妙なことは言えないと思い、曖昧な言い方になってしまった。
ヒロインが変な顔になる。
「何言っているんですか? 惚気てるんです?」
「えっ、ち、違うわ。アステール様は素晴らしい人だって伝えようと……」
「それが惚気でなくてなんなんです? ご自分の婚約者でしょう?」
「それは……確かに今はそうなんだけど……」
難しい。
決して私は惚気ているわけではないのに、ヒロインは分かってくれないようだ。
どうすれば正しく伝わるのか。困っているとノヴァ王子が言った。
「とりあえず、姉上。結婚まで至るかなんて分からない~とかいう下り、絶対に兄上には言わない方が良いと思う。これはオレからの忠告」
「え? はい、言うつもりはありませんけど」
さすがにアステール様に直接は言えない。頷くと、ノヴァ王子は微妙な顔をした。
「姉上、念のため聞くけど、さっきの台詞、本気で言ってた?」
「はい。それが何か?」
きょとんとしつつも正直に頷く。
ノヴァ王子は思いきり渋い顔をして、「兄上が可哀想」と特大の溜息を吐いた。
一体何が可哀想なのか。気づかなければ、衆人環視の中、婚約破棄イベントを迎える可能性があった私の方がよほど可哀想だと思うけれど。
――まあ、私はヒロインのおかげで助かったからいいけど。
彼女が私を『悪役令嬢』と言ってくれたから、今、私は何も分からない中でもそれなりに対策を立てることができている。彼女には私なりに感謝しているのだ。
「……スピカ様。お怪我をなさっていますわ」
「え?」
一人物思いに耽っていると、ソラリスに指摘された。彼女が見ているのは私の手の甲。
なんのことを言われているのか理解し、笑顔になった。
「ああ、これは何でもないの。気にしないで」
「え、でも」
「治療は済んでいるし、加害者がいるわけでもないから」
一瞬、猫を飼っていると言おうかと思ったが、秘密にしておいた。
彼女には、アステール様攻略に全力を注いで欲しい。その邪魔はしたくなかったのだ。
……というのは建前で、本当は昨日アステール様に言われた「ふたりだけの秘密」という言葉が頭の片隅に残っていたからである。
アステール様と約束したのは、リュカが『強い思いを言葉にして私たちに伝えてくること』なのだが、なんとなく猫を飼っていることも黙っておこうと思ったのだ。
――そんなことを考えるなんて、心が狭いかしら。
ただ、猫を飼っているというだけだ。シリウス先輩だってそのことは知っている。それなのにヒロインであるソラリスには言いたくないと思うのだから私はきっと相当に心が狭いのだろう。
――でも、良いわよね。これくらい。
ささやかなことだ。
私とアステール様のふたりだけの秘密。
その秘密に通じる『猫』という言葉に、今はまだ、ヒロインである彼女には触れて欲しくなかった。
アステール様と婚約を解消するまでの短い期間だけだから。
ヒロインである彼女には申し訳ないけれど、今は許して欲しい。
私とアステール様を結ぶ、リュカという絆。
その証である小さな傷を私は彼女に見えないよう、そっと隠した。