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「な、なんでもありませんわ。アステール様のお耳に入れるようなことはなにも……!」
まさか、まだ見ぬ飼い猫と友人について考えていましたなんて言えるはずがない。咄嗟に誤魔化すと、彼は疑わしげな顔をしたものの、とりあえずは頷いてくれた。
「そう、それならいいけど。スピカ、新入生の案内、ご苦労様。入学式は無事終わったよ。今日はもう解散だ。帰ろう。送っていくよ」
「えっ……もう、ですか?」
どうやら私は相当長い時間、考えて込んでいたようだ。入学式が終わったという言葉に驚くと、アステール様は私の手を取った。
「そう。今年の入学生には、珍しい子がいるよ。去年まで市井の民だったのだけどね。育ての親が亡くなり、父親である男爵に引き取られたんだ。まだ貴族の流儀には慣れていないことも多いだろう。女性だから、できれば君も気に掛けてあげてほしい」
「まあ、それは大変ですわね」
驚いた顔をしつつも、私は『これは、さっき私が『悪役令嬢』であることを教えてくれたヒロインのことに違いない』と確信していた。
乙女ゲームにシンデレラストーリーは鉄板なのである。
元々平民で、いきなり貴族に。そして魔法学園で慣れないながらも頑張っていくうちにその姿勢が評価され、認められるようになっていき、最後には攻略キャラたちと恋に落ちて幸せになるのだ。
――なるほど、なるほど。となると、私が転生した乙女ゲームは王道系なのかも!
それならそれで、色々と対処しやすい。
そんなことを思いながらも私は笑顔を浮かべ、アステール様に言った。
「分かりましたわ。学年こそ違いますが、同じ女性同士。気にかけておくことをお約束いたします」
「助かるよ。私もできるだけ声を掛けるつもりだ」
「ええ、それが宜しいかと」
王太子であるアステール様が気に掛けていることが分かれば、他の生徒たちも彼女に一目置くようになるだろう。虐めを起こさせないための手段だと分かり、頷いた。
「良かった。婚約者である君に不快な思いをさせてしまうかもと考えてね。先に言っておいた方がいいと判断したんだ」
「まあ、お気遣いありがとうございます」
婚約者を差し置いて、特定の女性を構うなど言語道断。
きちんとそういうところを考えてくれる辺り、アステール様はさすがである。
私は全く気にならないけれども。
だがアステール様は真面目で、婚約者である私をとても大切にしてくれる。浮いた噂などあるはずもない。まさに完璧な婚約者なのだ。
そんなアステール様がわざわざ私に許可を取ってまで、構おうとする存在。
ヒロインであることは間違いないだろう。
きっと、気に掛けているうちに二人の間には愛が芽生えるのだ。私の為にもどうか頑張って欲しい。
「ふふ、どんな子なのか楽しみですわ」
本当に楽しみだ。
ウキウキとした気分で、アステール様と一緒に校門の前に行く。そこにはすでに王家の門が掲げられた馬車が横付けされていた。
「さ、乗って」
「ありがとうございます、アステール様」
アステール様の手を取り、馬車に乗る。
学園には、基本アステール様の馬車で一緒に通学している。もちろん私の家にも馬車くらいあるのだが、アステールが言ったのだ。『婚約者同士、学年も違うのだからせめて行き帰りに話せる時間を設けよう』と。
結婚に相互理解は必要不可欠であると判断した私は、アステール様の言うことに一も二もなく頷き、現在に至っているのである。
だけど、それもいずれはなくしていかないと。
アステール様がヒロインを好きになれば、彼女と登下校がしたいだろう。それを言い出しやすくする下地を今から作っておくことは大切だ。
一人で登校する日を設け、そのわりあいを徐々に増やしていくのだ。
普段から離れておけば、アステール様もいざという時に、話しやすいだろう。
――ふふ、事前準備も完璧ね!
実に抜けがない計画である。他に何かやることはないだろうか。
ウキウキとアステール様が私から離れやすくなるための計画を練っていると、隣に座った彼がじっと顔を覗き込んできた。
「スピカ」
「っ! な、なんですか?」
突然のアップに驚くも返事を返す。アステール様はこてりと首を傾げた。さらりと金髪が揺れる。前髪が目に掛かるのが男性とは思えないほど色っぽく、目のやり場に困る麗しさだ。
「今日の君は変だよ。ずっと心ここにあらずって感じで。せっかく私といるのに、私の方を見て欲しいかな」
「あ……」
悲しそうな顔をされ、心が痛んだ。
そうだ。私はこれから彼が愛を得ることを知っているから何とも思っていなかったけれど、彼はその『これから』をまだ知らないのだ。
誠実なアステール様が、様子のおかしな婚約者を気に掛けるのは当然で、私は彼を心配させてしまったと気づき、心から反省した。
「申し訳ありません。その……あ!! 止めて!!」
「スピカ?」
話の途中だったが、思わず叫んだ。
私の叫び声に反応した御者が、慌てて馬車を止める。アステール様が驚いた顔で私を見てきたが、私はそれどころではなかった。
「猫が! 子猫がいるわ!」
馬車の窓から見えたのだ。白い、今にも倒れてしまいそうな小さな塊が。
二つの耳も見えた。あれは猫だ。間違いない。
私は馬車の扉が開くと同時に飛び出し、先ほど見つけた子猫の元に駆け寄った。
その子は建物と建物の間の小さな路地の前で蹲っていて、逃げる気力もないようだ。
小さな生き物はぐったりとしていて、生きているのが不思議な有様だ。
「なー……」
子猫は私に気づくと、一声だけ鳴いた。その声が助けを求めているように聞こえ、涙が出そうになってしまう。
子猫の目は片方が目やにで潰れており、片目しか開いていないような酷い状態だった。白かったであろう毛色は灰色になっているし、毛がゴミでもつれてしまってもいる。まだ柔らかな肉球には傷があり、血が固まった跡があった。見るも無惨な様子に、胸が痛んだ。
「早く助けないと! 死んでしまうわ!!」
見捨てるなんて選択肢はなかった。
見つけてしまったからには助ける。それしかない。
昔、前世の友達がよく子猫を拾っていたのを思い出す。彼女は見つけたら拾うしかないと言っていたが、その気持ちが今なら分かる。
制服のスカートのポケットからハンカチを取り出す。大判のハンカチを広げると、小さな猫くらいなら余裕で包めるほどの大きさになった。そのハンカチの上に子猫をそっと置き、軽く包んで抱き上げる。
「みゃあ……」
鳴き声がさっきと違う。ホッとしたような声だ。
もぞもぞと動いている。まだ暖かい。これなら助けられるかもしれない。
「その子、拾うのかい?」
馬車から降りてきたアステール様が静かな声で私に尋ねる。それにはっきりと頷いた。
「はい。この子は、私に助けを求めてきたんですもの。私が責任をもって飼います」
「そう。……分かった。乗りかかった船だ。私も協力するよ。とりあえず、君の屋敷に行けばいいかな?」
「はい」
「急ごう。早く連れて帰ってやった方がいい」
アステール様の言葉に同意し、子猫を刺激しないよう気をつけながら馬車に乗り込む。
「みー、みー、なーん」
拾われたことが分かったのだろうか。馬車が動き出すと、子猫が盛んに鳴き始めた。拾った時より余程元気そうな声に、安堵する。
「大丈夫、大丈夫だからね」
ハンカチを少し広げ、頭を撫でた。子猫は気持ち良さそうに目を閉じ、もう一度「なーん」と鳴く。
「可愛い……」
飼うと決めたからだろうか。相当酷い状態にもかかわらず、私にはこの子がとても可愛く見えていた。
「まずは、お風呂に入れないとね……あと、それから……」
私は子猫の頭を撫でながら、前世の友人が猫を拾った時に何をしていたのか必死に思い出していた。