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「今日くらいは早めに帰られた方が、アステール様もお身体が楽なのではと思ったのですが」
「気遣ってくれるのは分かるけど、この場合は余計かな。私は私がそうしたいから君と一緒にいるんだ。だから勝手な遠慮は止めて欲しい。本当に無理なら無理だと言うから」
「……分かりました」
そこまで言われては、断れない。
不承不承ではあったが頷くと、アステール様はホッとした顔をした。
「良かった。このまま蚊帳の外にされてはたまらないからね」
「そ、そんなことするわけないじゃないですか……!」
リュカの秘密のこともある。
同じ秘密を共有しているのだ。何かと相談に乗ってもらえればありがたい。
そういうことを言うと何故かアステール様は「やはり秘密の共有……私は正しかった」と言いながら拳を握りしめた。
「アステール様?」
「い、いや、何でもないよ。とにかく、今日も店に行くなら私も行くから。また放課後教室まで迎えにいくよ」
「……分かりました」
校門の前で待ち合わせでは駄目なのかと思ったが、わざわざ断る理由もないので頷いた。
ちょうどそのタイミングで学校に到着する。
馬車から降りると、同じく登校中だった他の生徒たちから声を掛けられた。
「殿下、スピカ様、おはようございます」
「おはよう」
「一緒に登下校なんて、素敵ですわ。今日も仲がおよろしいですわね」
「ありがとう。殿下がお優しいおかげよ」
「スピカ」
話し掛けてきた女生徒たちに答えていると、アステール様が私の名前を呼んだ。
「はい」
返事をし、彼を見る。
アステール様は私に近づいてくると、見惚れるような笑みを浮かべ、額にキスをした。
それがあまりにも自然な動作で、咄嗟に反応できない。
「えっ……」
今、何が起こったのか。
理解できない私にアステール様は悪戯が成功したかのような顔をする。
「じゃあ、また放課後。君に会えるのを楽しみにしているよ」
「えっ、えっ……」
呆然とし、動けない私をその場に残し、アステール様は自らの教室の方へと歩いて行った。
あまりにも堂々としたその姿をただ見送るしかできない。
「きゃー!」
「っ!」
完全に思考回路が止まってしまった私とは反対に、一連の流れを目撃していた他の生徒たちは悲鳴のような歓声を上げた。ハッと我に返る。
皆がキラキラとした目をして私を見つめていた。その中の一人が口を開いた。
「殿下がスピカ様にキスを……私、歴史的瞬間を見てしまいましたわ」
「なんて絵になるおふたりですの。今日は興奮して眠れないかもしれません」
「私もです! スピカ様、やはり殿下の愛はスピカ様の上にあるのですね! 例の一年が殿下に近づいている、なんて話もありますけど先ほどの殿下を見ればご寵愛がスピカ様にあるのは一目瞭然。ホッとしましたわ~」
「そ、そうね……」
わらわらと皆がよってくる。それに適当に反応しながらも私の頭の中は疑問で一杯だった。
――どうしていきなりキスなんてしてきたの? しかも、皆がいる前でなんて。
そんなこと、今までに一度だってしたことがなかったのに。
衆人環視の中での額への口づけ。まるで皆に見せつけるかのようではないか。
と思ったところでようやく彼の意図に気がついた。
「あ」
――そうか、そういうことだったのね。
おそらくアステール様は、ヒロインであるソラリス・フィネーと自分の噂を聞いたのだ。そしてこのままでは私が辛い立場になると考えた。
今のアステール様は『まだ』彼女のことを好きにはなっていない。
いや、すでに心惹かれているのかもしれないが、それでもまだ『好き』という段階までは達していないのだろう。
そんな時に聞こえてきた自分が婚約者ではなく、新入生を可愛がっているという噂。
真面目で優しい彼はさぞかしショックだったに違いない。自分はそんなつもりはなかったのに、意図的でないにしても私を蔑ろにしたと皆に思われていると気づいたのだから。
――そうよ。きっと、さっきのはそれを払拭するための行動のひとつだったんだわ!
自分はちゃんと婚約者を大切にしている。それを早い段階で分かりやすくアピールしたのだろう。
確かに今のキスひとつで、目撃していた皆はすっかりアステール様の気持ちが私にあるものだと納得した。
ものすごく効率的な方法だと思う。
「さすが、アステール様だわ……」
なるほど、そういうことだったのか。
そうとも気づかず、動揺してしまった自分が馬鹿みたいである。
何も聞かされていなかったので、吃驚してしまった。未だ心臓がバクバクと言っている。
顔だって熱い。
「大丈夫……大丈夫よ」
意識する必要なんてないと自分に言い聞かせる。さっきのは必要だとアステール様が判断したからしただけのことで、私がドキドキするのはおかしなこと。
私はいつも通り微笑んで受け流せば良かったのだ。
――ほんと、駄目ね。
彼の婚約者であるのなら、キスされたあとは柔らかく微笑み、なんだったらお返しに頬にキス、くらいすれば良かったのだ。それができなかったどころか驚き過ぎてその場に立ち尽くすことしかできなかったのだから、私はまだまだ修業がたりない。
「スピカ様? 教室へ参りましょう?」
同じクラスの生徒が声を掛けてくる。それに頷きながら、私は放課後までにこの乱れに乱れた気持ちを立て直さなければと思っていた。