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◇◇◇
「おはよう」
「おはようございます」
アステール様の馬車に乗り込む。いつも通り彼の隣に座ると、アステール様はにこりと微笑んだ。
「今日も君は可愛いね」
「ありがとうございます。アステール様もいつも通り素敵ですよ」
アステール様はいつだって婚約者へのリップサービスを忘れない。今日もさらりと褒め言葉を口にしてくる彼に、さすがだなと感心した。
「昨日あれからリュカはどうだった?」
早速リュカのことを聞いてくれるアステール様に笑顔を向ける。
アステール様とはリュカを通じてここ数日で急激に距離が近くなったように思う。それは将来お別れする予定の私たちには良くないことなのだけれども、猫好き同士で楽しく会話できる機会を逃したくはなかった。
――まさかアステール様とこんなに楽しく猫の話ができるなんて!
可能なら、もっと早くに知りたかった。もうすぐお別れという段階で知ることになったのだけは本当に残念だ。
「元気いっぱいですわ。ただ、今日も早朝というか夜中に起こされまして。それだけは困ったなと思っているのですけど」
悩んでいたことを話すと、アステール様は頷いた。
「昨日、帰ってから調べてみたんだけどね、そういう時は多少辛くても無視した方が良いらしいんだ」
「え? そうなのですか? でも鳴き声がすごくって、放っておくことなんてできなかったんですけど」
驚きつつもアステール様の目を見る。彼ははっきりと頷いた。
「鳴けば要求が通ると猫が覚えてしまうようだよ。鳴いても要求が通らないと分かれば、大人しくなるって。規定の時間まで待たせる方がいいらしい」
「そうなんですね……」
お腹が減ったとアピールされると、どうしたって心は動いてしまう。
それにこちらは眠いから、つい『もういいや。あげてしまえ』という気持ちになるのだ。
「分かりました……頑張ってみます」
「このあたりは人間と猫の戦いだね」
「リュカに勝てる気はしないんですけどね」
あのつぶらな瞳で見つめられ、うるうると訴えられた日には、全面降伏する未来しか見えない。だけど夜中に叩き起こされるのは困るので、我慢するしかないのだろう。
「どれくらいで諦めてくれるのかしら」
「早い子はすぐにでも諦めるらしいけど、食に執着のある子なんかは時間が掛かるかもね」
「……」
時間が掛かる予感しかなかった。
がっくりと項垂れる。しばらく夜中は眠れないかもしれないと覚悟しなければならない。
「ありがとうございます。教えて頂けて助かりました」
長期戦になりそうなのは参ったと思ったが、こうして知らないことを教えてもらえるのは本当に有り難い。心からお礼を言うと、アステール様は笑顔で首を横に振った。
「大したことではないよ。気にしないで。それより他に何かないの?」
「何か、ですか? そうですね、今朝、リュカの爪を発見しました」
つい先ほどのことを思い出し伝えると、アステール様も興味深げな顔をした。
「へえ、猫の爪ってどんな感じなの?」
「やはり人間とは全然違います。ぺたんとしていました。でも先の方は尖っていて触ると痛かったです」
「そうか。……ところでスピカ。その手の甲の傷は何?」
「あ」
コメットと同じく、アステール様からも逃れられなかった。
厳しく問いかけられ、私は降参という顔をしながら正直に言った。
「昨夜リュカにちょっと……噛まれたんです」
「きちんと消毒はした?」
「しました」
「痛そうだ……」
痛ましげな顔で私の手を見るアステール様。彼の表情の方が私の怪我よりよほど痛々しい。
傷口が塞がったので何も傷口には巻いていないが、こんな顔をさせるくらいなら、包帯でもしてくればよかった。
「大丈夫ですよ。それに……そう、アステール様とお揃いではないですか」
「お揃い?」
目をぱちくりさせるアステール様に、私は上手く誤魔化したぞと思いながら告げる。
「ええ。昨日、アステール様もリュカにやられましたよね? 場所は少し違いますけど、お揃いだって思います」
「……」
アステール様が私の怪我を凝視してくる。なんと返されるかと思っていると、やがてアステール様は重々しく頷いた。
「お揃い」
「はい」
「私とスピカにはお揃いの傷がある。そういうことだね?」
「その通りですわ」
笑みを浮かべ肯定する。アステール様はひどく嬉しそうだった。
「まあ、猫のすることだからね」
「ええ、アステール様も昨日そうおっしゃっておられましたでしょう?」
「うん。まあ、女性である君と男の私では違うと思ったんだけど……お揃い……まあ、子猫のすることだから。うん、お揃いだしね」
アステール様はブツブツ言っていたが、やがて納得したのかそれ以上怪我については触れて来なかった。
しかしやたらと『お揃い』を連呼されたような気がする。まあ、これ以上怪我について何も言われないのなら私はそれでいいのだけれど。
「今回は噛まれたって話だったけど、猫には爪もある。さっき爪の話をした時に思ったんだけど、いずれ爪切りもしてやらないとね」
「爪切り! そうですね……」
「私や君なら飼い主だからまだ構わないけど、他人を傷つけるわけにはいかないから。これは飼い主としての責任だよ」
「はい」
私はしっかりとアステール様の目を見て頷いた。
彼の言うとおりだ。
すっかり爪切りのことを忘れていたが、飼い猫ならば必要だ。他人に怪我なんてさせてしまっては取り返しがつかない。
だけど爪切りがない。
猫用の爪切りは昨日買っていなかったのだ。そこまで気が回らなかったというのが正しいのだけれど。
「今日も、お店に行った方がいいかもしれません。爪切りも買いたいし」
「そう。じゃあまた放課後にでも行こうか」
「良いんですか? 連日付き合わせるのはさすがに申し訳ない気がします……。一度行った店ですし、一人で行けますよ」
いくらなんでも三日連続というのはと思い、婉曲に断る。だが、アステール様は良い顔をしなかった。
「スピカ。私もリュカの飼い主だと思っていると言ったことをもう忘れてしまった? それに言ったじゃないか。また一緒に買い物に行こうって。君も誘ってくれると言ったはずだ」
「で、でも……アステール様はお忙しい方だし」
昨日も一昨日も、結構な時間まで付き合わせてしまった。
私は助かったけれど、あれから仕事をしなければならなかったアステール様は大変だったと思うのだ。