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◇◇◇
「リュカ、帰ったわよ!」
「みゃあ!」
屋敷に戻り、アステール様を父のところに連れて行ってから自分の部屋へとやってきた。扉を開けると、コメットに相手をしてもらっていたのかリュカが元気に返事をする。
ドドドと勢いよく私の方に走ってくると、額を足に擦りつけた。そうしてその場でぼてんと横向きに倒れ込む。撫でてくれという分かりやすい主張に頬が緩むのを感じながら、私はその場にしゃがんで彼の希望に応えてあげた。
白い腹を撫でると、すぐに満足したのか、短い足で蹴ろうとしてくる。リーチが足りないので届かないのが、悶絶レベルで可愛いのだけれど。
――この可愛いの、もう、どうしてくれようか。
もしゃもしゃと撫でまくる。リュカは短毛種のようだが、かなり毛深く、モフモフした毛並みが気持ち良くてたまらなかった。
「……癒やされる~。何これ……ふわっふわだわ」
飽きずに撫で回していると、リュカは今度はもう止めろとばかりに噛みついてこようとした。多分、前足では届かないから口が出たのだろう。行動が分かりやすいので避けるのは簡単だった。
ひらりと躱し、疲れた顔をして座り込んでいるコメットに尋ねる。
「どう? リュカは良い子にしていた?」
「ええ、とっても。ですが元気すぎて……人間の方がヘトヘトです。子猫のパワーは侮れませんわね」
コメットがへにゃりとした笑顔を向けてくる。その手にははたきを持っていた。これで遊んであげていたのだろう。しかし、いつも溌剌とした笑顔を見せるコメットが珍しい。多分、子猫の勢いに人間が負けたのだろう。よく聞く話だ。
「もう……ものすごい勢いで走り回って。小さいから捕まえられないし、大変でした。すごく可愛いんですけどクタクタです」
「ありがとう。リュカは私が見てるから、コメットは荷物をこちらに運ぶのを手伝って。リュカの餌とか色々買ってきたの」
「かしこまりました」
座り込んでいたコメットが立ち上がり、頭を下げて出て行く。入れ替わりに父と話していたアステール様が部屋の中に入ってきた。私に気づくと笑顔を向けてくれる。
「リュカはどう?」
「元気いっぱいだったらしいですわ」
「そう。それは良かったね」
「ええ。皆が構ってくれていたみたいでホッとしました」
アステール様が私の隣にしゃがみ、リュカを撫でようとする。
「にゃっ!」
「あいたっ……」
撫でられる場所が気に入らなかったのか、リュカはアステール様の手首の辺りを噛んだ。アステール様が慌てて手を引っ込める。
「……吃驚した」
「も、申し訳ありません。アステール様。リュカがとんだ粗相を……!」
青ざめた。
いくら婚約者といっても、アステール様はこの国の王太子だ。その王太子を怪我させるなどあって良いはずがない。
「飼い猫の不始末は飼い主の責任です。私が――」
「別に良いから。気にしてない。子猫のすることにいちいち腹を立てるほど子供ではないつもりだよ」
「ですが……! お怪我をなさっています。傷口を見せて下さい」
私が急かすと、アステール様は肩を竦めつつも上着を脱ぎ、手首が見えるようにシャツの袖口を捲り上げてくれた。
「なんてこと……!」
アステール様の手首にはリュカが噛んだあとがくっきりと残っていた。服の上から噛んだので血は出ていないようだが、時間の問題かもしれない。泣きそうになっていると、アステール様は苦笑した。
「これくらい大した傷じゃないから、放っておけばいいよ」
「そんな! 駄目です。アステール様の肌に傷が残ったらどうするんですか……! 消毒をしなくちゃ……!」
チェストの中にしまってある救急箱を取り出す。確か消毒薬が入っていたはずだ。
目的のものを見つけ出し、アステール様のところへ行く。
「消毒します。こちらに手を」
「大袈裟だな」
「いいから!」
「分かったよ」
困ったような顔をしながらもアステール様が手を出してくれる。手首を消毒し、包帯を巻こうとすると止められた。
「さすがにやりすぎだよ。そこまでしなくていい」
「でも……! で、では、すぐに侍医を呼んでまいりますので診察を……」
どうして最初に気づかなかったのだろう。
そう思いながら扉に向かおうとすると、アステール様に止められた。腕を掴まれる。
「スピカ、良いって」
「でも……!」
「私がいいって言ってるんだ。これ以上は過分だ。分かった?」
強めに窘められる。アステール様の目が本気であることに気づき、私は渋々ではあるが頷いた。
「わかり……ました」
「うん。良い子」
ポンと頭の上に手を乗せられる。くしゃりと髪を撫でられ、ドキッとした。
「ア、アステール様」
「こんな傷、傷のうちにも入らないよ。それにね、剣の鍛錬ではこんな比ではないくらい傷を負うんだ。だから本当に気にしなくていい」
「……はい」
鍛錬と一緒にしてはいけないのではないかと思ったが、さすがにそれ以上口答えはできなかった。納得できないという顔をしている私に、アステール様が「そうだ」と何か思いついたように言う。
「君が責任を感じるというのなら、責任を取ってくれればいいんだよ。責任を取って、私のお嫁さんになってくれればいい」
「へ?」
「でもすでに君は私の婚約者だからね。……ならこういうのはどうだろう。このまま私とちゃんと結婚してくれるのなら、今回の件も今後も不問にするというのは。うん。私としては一番いい落とし所だと思うんだけど」
「……」
何も言えないでいると、アステール様が悪戯っ子のような顔で私に言った。
「私を傷物にした責任、取ってくれる?」
「き、傷物だなんて……」
なんという言い方だ。そんな風に言われると、妙に意識してしまう。
「スピカ? 私は返事を聞いているんだけど?」
更にコテンと首を傾げられ、私は全面降伏した。
――は、反則だわ。
アステール様にそんな仕草をされて、ノーと言える人がいるのなら見てみたい。少なくとも私には無理だと思った。
「わ、私で宜しいのでしたら……!」
コクコクと首を縦に振る。
顔が真っ赤になっている自覚はあった。
私の返答を聞き、アステール様が満足げに頷く。
「良かった。じゃ、そういうことでこの話は終わり。分かったね?」
「はい」
一瞬、私が花嫁になることはないから約束を守れないのではと考えたが、私から約束を反故にすることはないのだからと気づき、それならいいかと思った。
――アステール様が、真実の愛に気づかれるまでの限定的な約束と思えば良いわよね。
もうすぐ彼はヒロインに心奪われるだろう。その時、この約束が彼の負担にならなければいいと祈るばかりだ。
気にする様子が見えたらすぐにでも私から提案しよう。きっと彼は安心してくれるはずだ。
自分の取るべき方向性が決まったことで、気持ちは大分落ち着いた。
ほっと息を吐く。アステール様がそんな私を見て、クスクスと笑った。
「大体、スピカは気にしすぎなんだよ。確かに私は王子だけれども、その子のことは私も飼い主のひとりだと思っているんだ。だから今のは飼い猫に噛まれたみたいなもの。そんなの怒るはずがない。それくらい気づいてくれてもいいと思うんだけどな」
「アステール様……」
「だから今後もいちいち反応しないこと。君だって飼い猫に噛まれたり引っかかれたりするだろうけど、気にしないだろう? 気にしていたら、猫なんて飼えないからね」