八話
「わかりました。それでは報告ができそうでしたら、またご連絡します」
道祖土は表情を崩さずに礼をして、居間から立ち上がる。
モモネや真岡もそれに続いた。
真岡は痺れる脚に難儀しながら玄関までぎこちなく歩く。
三人はマンションを出るまで無言だった。エントランスを抜けて、自動ドアを出たところで道祖土が大きく息を吐き出した。
「ぶはぁああああ! なんだこの建物は! 息苦しいったらありゃしないぞ!」
道祖土の言うとおり、真岡も息を殺さなければならないような精神になっていた。
「あの人、半分諦めてた」
真岡は、モモネの悲しそうな顔を見て合点がいく。婦人は生きているのか死んでいるのか分からない状態なのだ。感情は消え、心が砕け散る寸前だった。感情を取り戻すためか、関係を絶つために依頼を出したのだ。
「愛想は完全に尽きてるな。裁判を起こす気みたいだし、遠慮することはない。頼むぞ!」
道祖土は十一階を見上げながら、モモネに出番を振った。
「はぁ、浮気調査って嫌なんだけどね」
そう言いつつもモモネはすたすたと歩きだす。正確に匂いを辿っていた。
いつものようにモモネは先頭を歩いていく。ただ、今回は歩くにつれてモモネの顔は青ざめてきた。
「頑張れそうか?」
「ダメ、吐きそう」
モモネはとうとう座り込み、額に浮かべた脂汗を歩道へ落とした。
真岡は、どうしてこんなに具合が悪いのかと考える。これまでと違って、猫やインクの匂いより、はるかに良い匂いの香水を辿っているからだ。
「ホテルだけでもわかるか?」
「あっち」
道祖土の質問に真岡ははっとした。モモネは震える手で建物のある方角を指さす。高層ビルが建ち並び、とてもではないが特定できそうになかった。
ホテルと聞いて真岡はモモネの苦しみを理解する。
モモネが追っているのは香水の匂いだけではなかった。人間の体臭もだ。香水はヒントにすぎなかった。モモネはあのマンションで香水と亭主の体臭を覚えていた。体臭と香水をセットにすれば、その行動が追えるのは犬ならぬ身でもわかる。その先には体液もあるだろう。浮気が事実とすれば、それは避けられないことだった。鼻を突く男女の匂いをかぎ分け、さらに女性の匂いを追わなければならない。その苦痛がどれほどのものか真岡には想像もつかなかった。
「そうか。それならいいものがある!」
ただ、真岡はその苦痛を想定していた。ヒントは昨日の現地解散の時にもらったのだ。依頼を終えたモモネが音楽を聴く姿を見ていたのが幸いする。真岡はリュックサックを下ろし、中からハンドボールぐらいの白いまん丸な憎たらしい顔のデブ猫のぬいぐるみを取り出した。
「おま、こんなときにふざけるな!」
「いえ、ふざけてません。嗅覚に優先するのは触覚なんですよ。モモネさん、これを思い切り撫でまくって」
真岡がぬいぐるみを差し出すと、モモネは引きちぎりそうな勢いでデブ猫をつかんだ。
「うん、握り潰してもいい。それとイヤホンを出して。音楽を聞こう。嗅覚と触覚よりもさらに優先するのは聴覚だからね。音楽を大音量で聴けば落ち着くはず」
真岡は音楽を再生した自分のスマートホンを渡す。
モモネは、ミニバッグから引っ張り出したイヤホンを真岡のスマートホンに繋いで耳を塞いだ。
ヒーリング系の音楽がモモネの頭に流れ込む。心地よい旋律と鳥の声、水のせせらぎ、葉の揺れる音。環境音とアコースティックギターが調和していた。
モモネのささくれだった神経細胞がぬいぐるみの凹凸や弾力、肌触りなどの触覚とヒーリングミュージックの聴覚へ電位を分散させる。嗅覚へ一極集中していた脳内の加熱は徐々に薄れていった。
「どう?」
真岡は五分ほど経ってからモモネに呼びかけた。
「だいぶ楽になった」
「よかった」
モモネが落ち着いた様子で答えたことから、真岡は安堵する。
モモネは真岡のスマートホンを自分のミニバッグへ入れると、ぬいぐるみを握りしめたままた立ち上がった。
「行こう」
「え、続けるの?」
「浮気を放っておくのはもっと嫌」
モモネにとって自分の体調や仕事に対する責任より、浮気を撲滅するほうが大事だった。中学の時にした初恋からの教訓なのだ。何食わぬ顔でモモネへ親切にする意中の男子が、別の女子とキスをした後に話しかけてくる神経が理解できなかった。それを指摘すると、男子は豹変してモモネへ冷たく接するようになり、卒業するまでに嫌な思いをたくさんした。どんなに顔が良くても、浮気をするような男を捨て置くことはできないのだ。
モモネはしっかりした足取りで歩き出し、見上げると首が痛くなりそうな高級ホテルの上階を少し眺めたあと、別の方角へと歩きだす。
真岡は傍から見ていて、モモネの嗅覚の次元の違いへ気づいた。ホテルの部屋といえば、使用後に清掃が入る。そこで体臭や体液の染みついた物はクリーニングへ出されて別の部屋へと使われるかもしれなかった。それなのにモモネの鼻は、過去の匂いまでも嗅ぎ取っている節があるのだ。猫探しの時に、大蛇森さんが前に使っていた香水を指摘したことからも、その可能性は十分にあった。オカルト研究会では肯定されなかったが、過去視というのは間違っていなかったのだ。
人通りの多い場所などまったく意に介さず、モモネはただ浮気相手の匂いを辿って歩き続ける。
真岡や道祖土にできることはない。モモネの背中で揺れる一房の髪を眺めるしかないのだ。
「あ、タクシーに乗ったみたい」
モモネは交差点の近くで立ち止まった。
「そうか。呼んでこよう」
道祖土は辺りを見回して、タクシーを探しに行く。
「すごいね。そんなこともわかるんだ?」
「匂いが分散して細い糸みたいになるからね」
モモネはイヤホンを外して、ミニバッグから真岡のスマートホンを取り出すと真岡へ返した。
「ありがとう」
「どういたしまして。神経の知識が通用して良かったよ。音楽は好みにあったかな?」
「私はもっと音楽らしい音楽が好きかな」
そういうモモネは耳に掛かった髪を掻き上げて微笑む。腕に抱いたぬいぐるみは気に入られたようで、モフモフと撫で回されていた。
「なるほど」
真岡は、次は環境音のない音楽を用意しておこうと決意した。
「おい、向こうでタクシーを停めた。乗るぞ」
「わかった」
道祖土が戻ってきて、モモネが顔を引き締める。
タクシーに乗ると、モモネが運転手へ行き先ではなく逐一指示をした。運転手はベテランのようで、特に感情を表に出すことはなかったが、世間話をすべて無視されたことはつまらなそうだった。
「ここで降ろしてください」
「はい。三千六百円になります」
支払いは道祖土が済ませ、モモネは浮気調査を続行する。タクシーから降りて少し歩いたところで、モモネが立ち止まった。
「ここ」
「そうか」
セキュリティが厳重ではない集合住宅だった。
玄関にはポストの棚があり、モモネが三○二号室のポストを指さす。
「この部屋の人」
「よし、それだけわかれば十分だ。長居は無用。離れよう」
浮気調査をする怪しい人物として悟られる訳にはいかなかった。道祖土が依頼人に隠密のようなものと説明していたのが腑に落ちる。
集合住宅から距離を取ったところで、道祖土が口を開いた。
「ふぅ、お疲れさん。今日はここで解散だ。依頼料は次回のときに渡す」
「わかった」
出来高払いなので、道祖土の手元にはモモネに払える給料がないのだ。
「それと、モモネをサポートしてくれたことは礼を言う。ありがとう」
「い、いえ。あ、じゃあ漫画を探して」
「だからそれは買えって!」
探偵のプライドがあり、漫画探しだけは聞く耳を持たなかった。
「俺はこれから張り込みをするから、モモネを送ってくれ」
「ええ、いいですよ」
「じゃあ、解散!」
道祖土は宣言すると、近くのコンビニへ入っていった。
これから浮気相手との証拠写真を撮るために夜食などを買い込むのだろうと思った。
「あの、ぬいぐるみを」
「え、ああ、それはあげるよ。モモネさんのために用意したものだし」
モモネは面食らったあと、しばらくぬいぐるみをどうしたらいいかわからず、右往左往したあげくしっかりと抱き直した。
「それじゃ家の近くまで送るよ」
「はい、ありがとうございます」
「どうしたの急に?」
「い、いえ」
モモネが急にぎくしゃくとした態度になり、真岡は不思議がった。ぬいぐるみのプレゼントだけで動揺するとは思わなかったのだ。
「年はいくつですか?」
「二十六だけど」
「私のほうが年下なので、呼び捨てでいいです」
「あ、そうなんだ。わかったよ」
予定していたのとは違う距離の縮まり方をしていた。
真岡は、それでもいいかと思いつつモモネと世間話をしながら送り届けた。