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七話

 午前七時一分前のスマートホンをタッチしてアラームを解除する。


「ふ、勝った」


 珍しく寝坊しなかったのだ。


 眠っていても脳が活性化し、まとめ終わった考察がバチバチと脳細胞を刺激して常に覚醒している。遠足前夜の興奮状態にも似ていた。今日という日が楽しくてしようがなかった。早くモモネに会いたい。会って、その秘密はこういうことだと考察を突きつけたかった。


 昨日はオカルト研究会の集まりに参加して知恵を求めたところ、普段はゆるいライトなサークルメンバーが百家争鳴となるほどに白熱した。その結果、目や耳などの振動を感知する能力ではなく、鼻に近い能力なのではないかということで落ち着いた。他にも有力な候補として、未来視や過去視もあったが、それならば現場に出て情報を集める必要がないとされた。


 ただ嗅覚が犬並に発達していたとして、壁越しの人間の動きまで察知できるのかという疑問は残った。それでも猫探しの時には香水の匂いを、アルバム探しの時はインクの匂いや空き巣の匂いを辿っていたようにも思えた。


 真岡は、コンビニで買ってきたガーリックライスを朝食にする。ニンニクの香りがさらに真岡へ無駄な気合いを注いでいった。ジーンズを穿いて長袖のシャツを着る。身支度を済ませた後、ミニバッグではなくリュックサックを背負い、充電したスマートホンを忘れずにポケットへしまう。大量の図書を紙袋に入れて家を出た。


 借りていた本を片付けたことで、部屋のエントロピーが若干整理されたものの依然として失われた漫画だけは所在不明だった。漫画を持ち出した記憶はなかった。誰かに貸したこともない。この手強い謎を解くためになんとしてもモモネの協力が必要だったのだ。


 大学の図書館で小言をもらったあと、サイド探偵事務所の前まで行って電話を掛ける。


 ここしばらく秋晴れが続いていた。レンタルオフィスの前にある街路樹から枯れ葉がちらほらと落ちてくる。古くから植わっている木なのか、アスファルトを割って地面に凹凸を作っていた。


「はい、こちらサイド探偵事務所です」

「あ、真岡です」


 がちゃりと、道祖土は用件も聞かずに通話を切った。


 真岡は特段嫌な気もしなかった。道祖土という人物はモモネと真岡を引き合わせるためだけの人物だったからだ。彼が嫌いであったとしてもモモネに会わせてくれればそれで十分だった。


 レンタルオフィスから慌てた様子の道祖土が現れる。待ちかまえていた真岡を見つけると、悔しそうに顔を歪めた。


「て、てめぇ」


 道祖土はいつもの身軽な格好ではなく、小脇に抱えられるぐらいのバッグを肩に掛けていた。


 真岡もそのバッグを研修などで使ったことがある。一眼レフの望遠レンズを交換できるタイプのカメラが入るカメラバッグだった。


「おはようございます」


 真岡は頭を下げてしっかりと挨拶した。


「漫画の依頼を受けてくれませんか?」

「予約で一杯だって言ってるだろ! もう諦めろよ!」


 道祖土はぼさぼさの頭を掻きながら歩きだす。

 真岡はそれにくっついていった。


 道祖土が向かったのは都心にあるマンションだった。その玄関前には、いつものようにパンツ姿のモモネがいる。今日は少し肌寒いせいかブルゾンを着ていた。


 そのモモネが、真岡を見て顔をしかめた。


 真岡はその距離をざっと測る。二十メートルくらいだった。しかも風上から真岡の口臭に反応したのだ。リュックのポケットから口臭をごまかすグミを取り出して、三粒ほど口へ放り込んだ。


 モモネの能力が嗅覚に関わることで間違いがないようだった。


 道祖土がインターホンで依頼人と話していると、珍しくモモネから話しかけてきた。


「朝から何を食べてるの?」


 モモネは真岡に視線を合わせて話していた。大変な進歩だった。近くで見るモモネの目は、充血も濁りもなく澄んだ黒い瞳をしている。


「ガーリックライス。モモネさんの能力にだいたいの見当がついたから試してみた」

「たった三日で見抜くなんて道祖土より察しがいいね。あいつは一ヶ月くらい掛かった」


 モモネは能力を隠しているつもりはなかったが、自分から明かすこともなかった。気づかない人間は鈍いだけだと割りきっていたのだ。真岡の熱心で下品ではない探求に少しだけ心を開いていた。


「そうなんだ。今日の依頼は?」

「さぁ? いつも依頼人の前に行くまでわからないから」

「道祖土さん、カメラを持ってるね」

「カメラ? はぁ、やりたくないって言ってるのに」


 なにか嫌な仕事に思い当たったのかモモネの表情が曇る。


「おい、中に入るぞ」

「ええ」


 道祖土に呼ばれてモモネがマンションのエントランスへ入ろうとして、真岡を振り返った。


「来ないの?」

「え?」


 真岡は、昨日の逮捕劇のこともあり、なんとなく探偵業へ関わるのに距離を置きたかった。


 モモネにまっすぐ見つめられて、そんな臆病風はなくなる。はぐれた存在を群れに招き入れるような暖かい目を久しぶりに見た。


「いや、そいつは部外者だから」


 道祖土は当然のように難色を示す。


「手伝いますって言ってたでしょ?」


 モモネは、猫探しでの発言がまだ有効であると思っていたのだ。


「もちろん手伝うよ!」


 真岡は捜し物を個人の頼みとして聞いてもらうという目標に、一歩前進したことをはっきりと認識した。モモネからの信頼が得られている。もっと信頼を得るためにこのチャンスを逃す手はなかった。


「邪魔はするなよ?」

「はい、わかってます」


 溜め息をついて警告する道祖土へ頷き返す。

 三人でエレベーターに乗り、十一階という高さまで運ばれた。

 千百八号室という金色の表札付きのドアを道祖土がノックする。


 重そうな扉が開いた。落ち着いたワンピース姿のご婦人だった。洋装が様になる和風の美人で、黒髪を後ろでシニヨンにしている。


「サイド探偵事務所さん?」

「はい、道祖土と申します。この二人はアシスタントです」

「そうですか。とりあえず入ってください」

「はい、失礼します」


 マンションとは思えない広い玄関で靴を脱ぎ、用意されたスリッパを履いて居間へ通された。


 廊下は木目の板張りで、敷居で部屋と廊下を区切っていた。居間には何畳になるかわからないほどの畳が敷き詰められ、年輪の浮き出た分厚い一枚板のテーブルがあり、床の間があって、婦人が生けたものと思われる花が花器に刺さっていた。


「すいません。主人は目端が利くので座布団もお茶も出せませんが許してください」


 依頼人である婦人は、テーブルには座らず、廊下に近い畳へ正座した。


 道祖土やモモネが空気を読んで同じように畳へ座る。真岡も痕跡を残さないためだと理解して、慌てて座った。


「いえ、お構いなく。我々は隠密みたいなものですから。それより、さっそくご用件をお伺いしたいのですが」


 道祖土が礼儀を断り、本題へ入る。


「主人が浮気をしていると思うので、その証拠を押さえて欲しいんです」


 婦人は、悲しみや怒りで調査を依頼していなかった。


 真岡は、かえってただならぬ恐怖を感じた。事実を調査して、目の前にいる婦人とご主人との関係をより悪化させてしまうのではという不安もあった。


「できれば相手の名前と住所も知りたいです」

「浮気調査ですね。ご主人が浮気しているという確証はあるんですか?」


 道祖土も慎重にことを進めたいのか、安請け合いはしなかった。


「ある晩、主人の脱いだ上着を受け取ったとき、いつもと違う香水の匂いがしました」

「ほう、そうですか。ご主人の香水をすべて把握しているんですか?」

「いえ、主人は好きな匂いに偏りがあるんです。ですから、使っている香水は一つしかないはずなのに、別の匂いが付いていてびっくりしました」


 道祖土がちらりと隣に座るモモネを見た。

 モモネが頷き返す。


 ようやく真岡にも二人の仕事上の役割が見えてきた。道祖土が依頼人との会話でヒントとなる匂いを引き出しているのだ。そして、それをモモネに覚えさせている。おそらくすでに、少なくともこの階層にある香水の匂いを把握しているのだろう。これから主人の匂いを覚え、婦人の匂いを除外し、浮気相手の匂いも特定し、二つの匂いを元に追っていくのだ。


 モモネは、まさに警察犬のようだった。


「よろしければ、その香水を見せてもらってもいいですか?」

「ええ」


 婦人は立ち上がり、香水を取りに行く。


 地上十一階、天空の和室。下界の喧噪から離れたこの空間を一人で過ごすのはどんな気分なのだろうか。その一人でいることに対して、パートナーの仕打ちが浮気だとしたら。


 真岡は隔絶された空間というものの恐ろしさを味わった。頭がおかしくなりそうだった。見晴らしが良くても牢座敷と変わらないと思えたのだ。


「お待たせしました。こちらです」

「拝見します」


 道祖土はポケットから取り出した白手袋をつけて、箱に入った香水瓶を取り出して眺めた。


 六角形の瓶のなかで透明な液体が揺れる。


「匂いを嗅いでも?」

「いえ、蓋を開けてはだめです。主人に気づかれます」


 どんな主人だと真岡は思った。よほど神経質で几帳面な人物だ。一緒にいて気疲れするだろうと想像できた。


「そうですか」


 道祖土が再びモモネを見る。

 モモネは匂いを憶えたのか、一度だけ深く頷いた。

 真岡は、やはりと思う。

 モモネは、物体を透過して匂いを感知できるのだ。


「ありがとうございます。それで、ご主人の浮気相手になにか心当たりはありますか?」

「ありません。主人は私に外のことを話してくれませんので」


 初めて婦人が微笑んだ。自虐に染まる目がいびつに細くなる。婦人は孤独なのだ。

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