三話
モモネに続いて真岡も大蛇森邸に上がる。白い床板の上を来客用のスリッパを勝手に履いて歩いた。一軒家とは思えない長い廊下の先にあるリビングへ来る。真岡の借りている部屋が三つほど入りそうだった。リビングも白い床板で、大きなソファーとテレビとキャットタワーがあった。大きな窓辺からは広い庭を眺められる。太陽の光にこと欠かない。
真岡は、ネコのストレスになりそうなものはないと感じた。
「ペルシャは特別に大人しいですからね。外に興味を持って逃げ出すなんてことはないんですけど」
「そうなのよ~。って、ペルシャ猫だなんて言ったかしら」
「さっき写真を見たので」
「よく知ってるわね」
大蛇森が嬉しそうに笑う。
道祖土は不愉快そうに真岡を睨んだ。
「それで、ネコちゃんはどこから逃げたんですか?」
道祖土が大蛇森へ尋ねた。
「散歩」
「あ、ああ、散歩ですね。はい」
「私が庭でガーデニングをしてるときにこっそりと出かけたみたいなの。今までこんなことなかったのに」
「なるほど」
道祖土がちらりとモモネを見た。
「奥様は、普段から香水をつけてますか?」
モモネの質問は、真岡の意識にはなかったことだった。
依頼人の大蛇森婦人が、香水をつけていることなどまったく感じなかったのだ。
「え、ええ。ネコちゃんが嫌がると困るから少しだけつけてるわね」
大蛇森もモモネの質問に少し戸惑う。気づくとは思わなかったのだ。
「その匂いがソファーや部屋に残っていて、ネコちゃんの居場所を奪ってしまったかもしれません」
「そ、そうなの? これまでも香水をつけたことはあるんだけど?」
ネコに嫌われる匂いと言われてむっとした大蛇森が、モモネに食ってかかった。
「でも、その香水は最近使い始めたものですよね?」
モモネは一歩も引かずに大蛇森へ聞き返す。
道祖土は引きつった笑顔のまま依頼人とモモネの応酬を見守っていた。
「そう言われればそうね。お友達に言われて新しいのに変えたの」
「良いお友達ですね」
「ええ?」
モモネの余計な一言に、大蛇森はあからさまに顔をしかめた。
「あー! それじゃあさっそく探しに行きますね!」
「え、ええ。お願いします」
道祖土がわざとらしい遮り方をし、モモネを追い出すような仕草をして家から退去する。
大蛇森邸を出ると、モモネはすたすたと門を出て歩き出した。
道祖土が玄関で挨拶をしてから走って追いかける。
真岡は二人へついていった。
「モモネ! なんで余計なことを言うんだ?」
「気づいてもらえないと、ネコを見つけてもまた逃げちゃうでしょ?」
「そうすればもう一回稼げるだろ!」
「それは嫌」
モモネと道祖土では、どうやらモモネの方に主導権があるようだった。
探偵業の現場を初めて見た真岡としては、もっと理詰めでやるものと考えていただけにネコの嗅覚から原因を特定するモモネの推理力に感心していた。それに、道祖土のあくどいやり方に反発する倫理観にも共感できた。ネコと飼い主の溝を埋める手腕は、そんじょそこらの獣医には真似できない。
「すごい推理力だった! ネコはどうやって見つけるの? 普段から外を出歩かないネコなんて、手がかりはほとんどないのに」
真岡は思わず口を挟んだ。モモネの推理力と気遣いを褒めずにいられなかったのだ。
「どうも」
モモネは素っ気なく答えた。
「ペルシャは短足だからどこかに登ったりとかはあまりしないと思う。隙間とか探す方がいいかもしれない」
なんとなく面白くなくて、真岡は参考になると思い動物知識を開陳する。
「お前はもう帰れ」
道祖土が真岡の前に立った。肩幅がありがっちりとした道祖土が正面に立つと壁のように感じた。
「依頼を受けてくれませんでしたからね。捜し物の秘訣を教えてもらうまでは帰りませんよ」
「つきまといで警察に突き出すぞ」
道祖土が、真岡へ最終手段をちらつかせたときだった。
急にモモネが止まり、とある家を見上げた。
これまた大きな住宅があり、道路に面したバルコニーでネコが一匹ごろ寝している。
「あ!」
道祖土が大声を上げて写真とネコを見比べた。
「どうやってあんな所へ?」
真岡には不思議だった。見ず知らずの敷地へ入り、余所様のバルコニーでくつろぐなど考えられなかったのだ。
「そんなことはどうでもいい。あれがコタツちゃんだ! 捕まえるぞ!」
「は? コタツ?」
長毛で暖かいからだろうかと、真岡は真剣に悩んだ。
道祖土が許可を得るために依頼人へ電話を掛ける。
「そういうこと。嫌なお友達ね」
モモネの消え入りそうな納得を聞き逃さなかった。
ご近所だったからか、大蛇森はすぐに合流した。
「あら、別所さんのお家にいたの?」
「あ、お知り合いでしたか。連絡取れますか?」
「ええ、ちょっと待ってね」
それから大蛇森と別所は、電話で口論となった。
「だから! あなたの家のバルコニーで寝転がっているのはうちのネコなの! ちょ、本気で言ってるの?」
どうやら別所という人物が、ネコの所有権を主張しだしたみたいなのだ。
こうなってしまうと捜し物専門の探偵の道祖土にはどうにもならず、所有者同士での法的な争いになると予想された。
日本の法律では、ネコに限らず動物は物として扱われる。動物に人権のようなものを認めてしまうと、食生活や動物園、水族館など多くのものを手放さなければならないからだ。
「奥様、私に変わってください」
モモネが大蛇森に対応を代わるよう申し出た。
カッカとしていた大蛇森は、気を落ち着かせるために喜んでモモネに代わった。
「初めまして、ネコ探しの依頼を受けた探偵事務所の者です。今から少し喋りますので聞いてください」
モモネは一度深呼吸する。
「あなたは、大蛇森さんに香水を勧めました。ネコの嫌がる酸っぱい匂いの入った香水です。それからご自分は、大蛇森さんと同じ香水を庭や玄関に蒔いていました。これってネコの窃盗ですよね?」
モモネは、話ながら道祖土を見た。
道祖土はうんうんと頷いてマイクに拾われるくらいの大きな声で答えた。
「あーネコの窃盗は十年以下の懲役か五十万円以下の罰金だったかな~?」
下手な演技は、マイクに拾われた。
「ええ、そうですか。それがいいと思います。代わりますね」
モモネは楽しそうに微笑んで大蛇森へスマートホンを返す。
「どうするの? そうよね。それがいいわ」
大蛇森が通話を終えると、バルコニーに別所と思わしき婦人が現れてコタツを抱えた。大蛇森とはそりが合わなそうなしゅっとした婦人だ。
それから数分も経たないうちに、コタツは大蛇森の腕に収まった。
別所は、苦虫を噛みつぶしたような顔のまま家へ戻り、大蛇森はご満悦になる。
「ありがとう。これからはもっと気をつけるわね」
真岡は、金持ちケンカせずという言葉が嘘だということを目の当たりにした。人間、どこでどう恨まれるかわかったものではないのだ。
ネコを連れて帰ったところで道祖土だけ大蛇森の邸宅へ上がりこみ、依頼料の精算をしていた。
その間、モモネと真岡は外で待っていた。
「いやーすごい! ネコの窃盗なんてよくわかったね!」
真岡は、モモネを褒めちぎることで依頼達成の興奮を発散する。
探偵特有の推理力というものを目の当たりにして感動もしていた。
ただ、モモネは澄ました顔で真岡をつまらなさそうに見返している。
「なにかわかった?」
「え、なにが?」
「呆れた。捜し物の秘訣を学びに来たんでしょ?」
「あ」
モモネに言われて当初の目的を思い出したが、真岡はあまりにも鮮やかな手際になにか学べる要素を一つも見つけられなかった。
真岡が玄関先で呆然としていると、道祖土が出てきた。
「またなにかありましたらお申し付け下さい! それでは失礼しまーす!」
道祖土は、腰を深く折ってお辞儀しながら扉を閉めると、振り返って茶封筒をモモネに渡した。報酬はその日のうちに渡す仕組みらしかった。
「それじゃ解散。お疲れ様、モモネ」
「はいはい。お疲れ様」
モモネは茶封筒を受け取ると、背負っていたミニバッグへしまい敷地を出て行った。
モモネの後ろ姿を目で追いながら、真岡は気づいた。
サイド探偵事務所の本当の探偵は、道祖土ではなくモモネではないかと。
「おら、お前も帰れ。二度と出てくるなよ」
道祖土にすごまれて、真岡は道を空けた。
「漫画を探してください! あれには俺の人生が掛かってるんです!」
「漫画なんかに人生を掛けるな!」
道祖土の誤解を解くのは諦める。
だが、明日も来ようと、真岡は思った。
道祖土ではなく、モモネの推理力に興味を持ったのだ。