二十七話
「へー。やっぱり白い狐なの?」
真岡は、白い狐が実在しているのかずっと気になっていた。白とは名ばかりの黄色い狐だった場合に備えて、あまり期待しないようにしていたのだ。
「うん。びっくりするくらい真っ白で川の上を歩いてた」
「ん? 川の上ってどこ?」
「流れる川を沈まないように歩いてたの。不思議でしょ?」
真岡はまっさきにアメンボのような狐を想像した。四つの足に油が塗ってあって、水に反発して沈まないという仕組みだ。
「白玉様って、どれくらいの大きさ?」
「うーん、猫よりもおっきくて、中型犬よりも小さいかな」
「物理的に不可能だ」
「なにが?」
真岡は、猫と犬の中間と言うことから白玉の体重を十キログラムと仮定して、先ほどのアメンボの仕組みで川に沈まないことが科学的に可能かどうか考えていた。
どんなに撥水力の強い油を足に塗ったとしても水の表面張力は破れて、その動物は川に沈むはずだった。
「え、川が凍ってたとかじゃなくて?」
「うーん。春の雪解け水だから冷たいは冷たいけど、凍るほどじゃなかったよ?」
「じゃあ川が浅かったとか?」
「人が流されておかしくないほど深い川だけど」
「もしかして見間違いじゃ?」
「私は見たの!」
真岡の追求に百稲はムキになる。
「そ、そうだよね。うん。それくらいはできると思う」
真岡もそれが事実であると認めるのはやぶさかではなかった。科学で説明できないことはある。なぜなら、科学は万能ではないからであり、未だに世界のすべてを説明できるような法則は発見されていないからだ。
神獣が水の上を歩く現象を説明できる法則を考えるのも、真岡の研究したい事柄に加わった。
真岡が退いたことで会話は終わり、静かな山登りが再開された。
中腹を過ぎた辺りから、植生が変わる。
しっかりと根を生やした大木が現れ初めたのだ。
海底の隆起に伴い脆い堆積岩は山となった。貝の化石を含む岩の上に土を被せ、草が生え、木を乗せている。空は広葉樹の枝葉に面積を奪われていた。下草のほとんどない地面から人の背丈ほどもある、太陽光のおこぼれに預かった若木が立っている。真岡たちのような森への侵入者を監視しているようだった。
「はぁ、はぁ、かなり登ったな」
直線ではないとはいえ、かれこれ一時間ほど登っていた。
振り返れば森へ十メートルほど入っており、麓の景色は太い幹に裁断されてまともに見ることすらできなくなっていた。
胸ポケットのGPSを確認すると、ジグザグに登ってきたことが、デフォルメされた地図上に記録されていた。
腰に提げたトランシーバーからも熊や猪、鹿の目撃情報が相次いでいる。
「普段は静かな森なんだろうな」
真岡は歩みを再開する。
百稲に置いて行かれそうだった。
五メートルほどの差が開いており、真岡が足を速めるとがさりと落ち葉を踏む音がする。
百稲より近く、真岡のものではない足音だ。
「え」
真横に立派な角を持った牡鹿がいた。木の根元に生えた下草をもごもごと食んでいるのだ。
「ど、どうも」
奈良の鹿は、せんべい欲しさに頭を下げると聞いたことがある。真岡の通っていた高校は奈良を修学旅行先へ選択しなかったので、真岡はその光景を見ることはなかった。
挨拶をしたからと言って野生の動物と友好を結ぶことなどできるはずもなく。食事中の鹿は真岡をじゃまくさそうに眺めていた。
「失礼しました」
真岡は鹿を刺激しないようにゆっくりと斜面を登り、その場を離れる。
先を見れば百稲も鹿に近寄られていて、助けが欲しそうに真岡を見ていた。
「刺激しないようにゆっくり歩けば大丈夫だから」
「わかった」
森の中の会話は、声が大きくなる。
百稲は真岡と合流するのを待ってから、山を登り始めた。
地元民ですら見たことのない野生動物がいることに心細くなったのだ。
しばらく歩くとカシャンカシャンと自然界では馴染みのない音が聞こえてきた。
「なにかな?」
「あれか」
真岡は木の裏に仕掛けられた狐の捕獲器を見つけた。中には若い狐が入っている。色づいた銀杏の葉を思わせる色合いのホンドギツネだ。
「逃がせる?」
「ああ、もちろん」
捕獲器に触るのは久しぶりだったが、安全に開けることができた。
油揚げのような色をした毛皮がするりと出てきて、近くの木に登っていく。
「元気そう」
「うん」
百稲は上を見上げて狐を確認し、真岡はスマートホンを出して捕獲器に張ってあるビニールテープの記号と番号をスマートホンで記録する。
SJゼロ五七とあった。
「なにしてるの?」
「もしかしたら陽動に使えるかも」
トランシーバーで呼びかければ、普神を誘き出して時間が稼げるかもしれなかった。
鹿が、真岡たちの行動をじっと見ていた。
種族が違っても山の仲間だと思っているようだった。
狐を助けると、鹿は真岡の背後にぴたりとつき早く登るようにと急かした。
「わかった。登るよ」
「この子たち、見張ってるのかな?」
「かもね」
白玉保護に向けて登山を再開すると、その監視はさらに厳しくなった。
動物たちがその数を増やしているのだ。
それに気づいたのは、真岡の腰にあるトランシーバーをぐいっと引っ張られたときだった。
「うおっと!」
危うく転びそうになり近くの幹へ手をついて体勢を保持してから、悪戯の主を見た。
ぬた場でリフレッシュしたばかりの猪が、真岡の尻を鼻で押していた。
「え? え? え?」
「ままま、まおかさん」
真岡が間近で見る猪に動揺していると、百稲が震えた声で呼んでいた。
「なにかあっ、わかったうごかないで」
進行方向に大きな熊がのそりのそりと歩いているのだ。
真岡はなにか熊よけになりそうなものはないかと鞄を開こうとして、その背中を思い切り突き飛ばされた。
「ういったい!」
「ど、どうしたんですか?」
鼻息の荒い牡鹿が、前へ進めと言わんばかりに角でまくし立ててくる。
「わ、わかった! 進む! 進むから!」
鹿に追われて真岡は百稲より前へと押し出された。
眼前に黒い毛皮の塊が迫る。
全身から冷や汗が出ていてるようだった。血の気が引いているのだと思った。死が近づいている。体温だけでなく寿命まで凍えているのだ。
「まおかさぁん」
百稲の泣きそうな声が後ろから聞こえる。
「こっちも大変なんだけど」
真岡は鹿の角に目をやられないようにゆっくりと後ろ振り向き、百稲と同様に泣きたい衝動へ駆られた。
数十頭という猪と鹿と熊の群れが真岡たちを取り囲むように山の頂上を目指していた。
蹄が斜面を軽快に蹴り飛ばし、うっかり鼻をぶつけた猪が泣き叫ぶ。
パワーをもらうとかそれどころではなかった。
山の神の遣いが全力で真岡たちを導いていた。いや、引っ捕らえたというべきかもしれないと真岡は思った。
歓迎か連行かわからないような状態で、真岡と百稲は鹿や猪に背中や尻を押されて白玉がいると思われる頂上へと運ばれていた。
特に恐ろしいのは熊の存在だった。鹿や猪よりもゆったりと歩きながら、常に真岡や百稲の視界に入っている。
二人は生きた心地がせず、息を殺して動物の群れに混じっていた。
真岡は二度とないであろう体験の中で、愛犬のことを思い出す。
人間の感情を汲み取ったかのように泣きっ面をなめ回す愛犬だ。人の顔をいつも見上げて何かを観察していた。
真岡の背中を押す牡鹿の目がそれに似ていたのだ。
肉食動物と草食動物は目の位置からして違うのに、似ていた。
試すような目だ。
真岡の記憶にこびりついた車に轢かれる直前の愛犬の眼差し。真岡の脳がショックのあまりにすべての記憶から愛犬の目を最後の眼差しに差し替えた。
愛犬は主人が助けに来てくれるか試すようだった。
その愛情は本物か試された気がした。
真岡は動けなかった。
十秒くらい間があったのだ。
愛犬を呼ぶことも、道路へ飛び出すこともできず、愛犬の死を見た。
「そうだな」
真岡は愛犬の死をもう一度望んでいた。今度こそ飛び出すために、今度こそ愛情を証明するために動物の死を求めていた。動物の死に立ち会いたいと心の底で思っていたのだ。だから、獣医になると志したのだ。極めて自分本意な願望だった。自信の思想を確かだと証明するために、動物の死を利用している。それをいまさら証明することで何になるのかと思った。




