十五話
「ありがとうございます」
モモネが真岡から受け取ったものにイヤホンを刺して、深呼吸する。手にしたぬいぐるみは、絞られた雑巾のようによれていた。
「だいたいてめぇは上司の言うこと聞かなすぎなんだよ! ガキのくせに調子にのってんじゃねぇぞ!」
路地裏から聞こえるちんぴらのような言葉使いに、真岡は警察に対するイメージをだだ下げに修正する。しょうもない上司もいるものだと思いつつ、道祖土の言うことが本当だったことに驚いた。
「足と靴、それから香水と体臭を憶えた」
「よし、捜索開始だ」
道祖土はそう言いつつ、路地の若い警官が気になるようだった。
ふと、若い警官が視線を外した。
道祖土を見て、真岡たちを見た。
なにかを託すような真剣な眼差しだった。
道祖土は、会釈をして路地の前から離れる。
「今の人が後輩ですか?」
「さぁな」
まだ安心できないのか、道祖土が答えをはぐらかした。
モモネが真っ先に向かったのが、千代田区麹町にある立ち飲み居酒屋だった。
「なんでこんな所に」
「ここに何度も来てる。常連客かも」
「そうか。辺春の写真もあるから、聞いてこよう」
道祖土がまだ開店前の店の扉を開けて、入っていく。こういうのは元刑事にしかできない芸当だと真岡は感心する。
しばらくすると、道祖土が出てきた。
「被害者はたしかにこの店の常連だった。あんまり女とつるむことはなかったそうだが、数日前からある女性客と顔なじみになったらしい。もし殺すことを前提に近づいたとしたら、プロかもしれないな」
容疑者が誰かに依頼をされて殺したとほのめかす。
日本にそんなことをする女性がいることに驚いた。
「んで、その女ってのは実は有名らしい。この辺にいる金のあるおっさんに媚び売ってただ酒を頂戴するたかり屋みたいな存在だそうだ。そんな奴が、やるかねぇ?」
道祖土は、いまいち犯人像へ納得がいかないようだった。
「直接聞けばわかる」
酒の匂いでさらに二日酔いを刺激されたモモネが、顔をしかめながら再び歩き出す。
犯人は、居酒屋で被害者と出会ってからラブホテルへ向かったのだ。
モモネが案内しようとしているのは、犯人が居酒屋へ来る前にいた場所だった。
「ここか」
電車を乗り継ぎたどり着いたのは、埼玉県川口市の賃貸マンションだった。
「ただ、事件のあとも頻繁にあの居酒屋界隈に出没してるみたいだから、東京でも捕まえられるかも」
「そうか。それだけわかれば十分だ。後は写真をとって、居酒屋で聞き込みだな」
「たぶん、三階か四階あたりだと思う」
「十分すぎる。あとはこっちで張り込みするから」
道祖土が茶封筒を二つ取り出した。
「来てくれてありがとう」
モモネと真岡に手渡した。
「俺にはこれしか誠意を見せる方法がないんだ」
道祖土が悲しそうに笑う。
「い、いえ。ありがとうございます」
「当然の報酬だ。大層なものじゃねぇよ」
道祖土は、真岡の礼に照れくさそうだった。
モモネとの会話から、サイド探偵事務所の経営が芳しくないことを察していたが、真岡も苦しい懐事情をやりくりしていたので、もらえるものは単純に嬉しかった。
道祖土は川口市に残り、真岡とモモネは帰ることになった。
「もう少し音楽を聴いていても良いですか?」
モモネが電車の中でそんなことを言いだす。
スマートホンを人質に取ったような悪戯っぽい顔になんとなく負けた。
「まぁ、いいけど」
真岡は音楽を楽しみながら歩くモモネのあとにくっついていく。
失礼だと思いつつも犬の散歩をしているような気分になった。
モモネは真岡のアパートの最寄りの駅で降り、当て所なく歩いていく。文字通り嗅ぎ回られているような気分でもあった。モモネは過去の匂いまで嗅ぎ取ることができる。誰が、どこで何をしていたか。まるで過去を見ているかのような正確さで調べることができるのだ。
真岡は、なにかプライベートな質問が飛んでくるのではと身構えた。この周辺でやましいことはしていない。自分に言い聞かせた。
「真岡さん」
「な、なにかな?」
モモネは、真岡のアパートから少し離れた所にある水のない水源公園へやってきた。
真岡は、ここに公園があることを初めて知ったので、ここは過去を追求される話の流れではないと一安心する。
「私が酔っぱらっているとき、なにか変なことを言ってませんでしたか?」
耳から音楽を抜き取り、モモネは真岡に尋ねた。まともな人間の顔だった。狐に憑かれたときのような目をしていないし、青白い光もない。落ち着いて答えられた。
「呂律が回ってなかったからよくわからなかったけど、モモネはしらららららって人のために頑張ってると言っていた」
モモネは黙って真岡の顔を、目を見ていた。
「答えたけど?」
疑り深く顔色の変化を観察されるのは、あまり気分の良いものではなかった。
「なぜ惚けたりしないんですか?」
「なぜって」
真岡は答えに窮した。酔っぱらいの戯言ではなさそうだったからとしか言いようがないのだ。
「私が憑かれてる姿を見ましたよね?」
「あ、ああ。見たけど」
「なぜ、見てないと言わないんですか?」
「ええ?」
モモネが、誤魔化すことを期待しているのが理解できなかった。
「真岡さんは、私に漫画を探して欲しいんですよね?」
「ああ、それなんだけどな。もう諦めた」
「ど、どうしてですか?」
モモネにとっては突然の掌返しだった。
「だって、モモネは神獣学を嫌ってるだろ? 探してもらいたいのは、漫画の中にある神獣学研究所の採用通知なんだ。モモネが断るのは目に見えてるからもう頼まないよ」
真岡は正直に告白した。真岡にとって、モモネの利用価値はなくなったのだ。
「ふ、ふーん。そうですか。わかりました。あ、でも、なぜ神獣学を勉強したいのか教えてください」
なぜか悔しそうな顔をしつつ、モモネが尋ねた。
「あー、はっきり言うと疲れたんだ。獣医学会の既得権益を守ろうとする姿勢に付き合ってられない。俺は、そんな未来を望んでいなかった」
「既得権益?」
「ようは利益を独占する形ができあがっていて、本当に困っている人たちをないがしろにする連中がいるってことだよ。俺は、そんな連中の仲間入りをする気になれなくて、別の道を探してた」
「それが神獣学なんですか?」
「ああ。まだ、誰も権益なんか持ってなくて、情熱だけで回ってる新しい学問だ。余計なことを考えず、知りたいことだけに専念できる。そういう場所に行きたかった」
水源の森公園の枯れた小川を囲む柵に真岡は両肘をついて、今まで誰にも言わなかった心情を吐露した。大学には知り合いがいても悩みを打ち明けられるような相手はできなかった。誰もが権益に乗ることを少なからず肯定しており、真岡の潔癖な精神は自然と孤独にならざるを得なかったのだ。彼らからすれば、真岡の方が幼稚だったかもしれない。
大人になるということは、いかに安定した収入を得る立場に滑り込むかということだった。もっと自由に子供の頃に考えていたことをできると思っていたが、真岡にとって日本の社会は思いの外不自由だったのだ。
「獣医を目指した理由はなんですか?」
愛犬のためだなんて、子供っぽくて言いたくなかった。
「言わないとだめかな?」
「はい。知りたいです」
真岡の隣にモモネがやってくる。ここまで真岡に近づいて話を聞こうとする人は、男女問わずいなかった。
モモネが、真岡の寂しさを埋める存在になりつつあった。
「なんで知りたいんだか。まぁ、喋るけどさ。小学校四年生の頃、愛犬が交通事故にあった。俺が生まれた時からいた柴犬なんだ。責任は俺にある。だけど、救急車を呼んでも犬は助けてくれなかった。犬は命じゃない。モノだった。それが日本の法律だ。幼かった俺は、愛犬をモノ扱いにされたのが許せなくて獣医を目指した。失えば悲しくなる命なんだと訴えたかったのかもしれない。さっきも言ったけど、既得権益でしか物を考えない動物病院を量産するための獣医にはなるつもりはなかった」
自分語りとか、高校生がやるものだと思っていたが、案外、大人になってからやると良いかもしれないと思った。
自分は何者かという問いかけは、人生の岐路には必ず出てくるものなのだ。
「うん。言ってみるとすっきりするもんだ。つまりは、モモネが神獣学を嫌いだろうが関係なくて、俺はもう神獣学を究めたいと思ってる」
真岡は、微分した式をさらに微分するような単純化された自分の本質を見つけた気がした。この解がある限り、どんな状況が来たとしても人生に求める物は変わらない。揺るぎない核ができあがったとさえ感じた。
「真岡さんのこと、少しわかりました」
「そう? なにか参考になったかな?」
「真岡さんに限らず、神獣学に関わる人は全員めいわくです」
モモネが真岡へスマートホンを返してから距離を取り、明確な意志を表明した。
二、三歩だけの隙間に風が吹く。頬を凍てつかせる冷たい風だ。
「でも、嘘を吐かなかったことだけは認めます。真岡さんは、正直な人です」
「あ、ああ」
まだ三人の絡んできた男たちが歯周病で緊急搬送されたことを喋ってなかったが、モモネは気に留めていないようだったので、真岡は口を滑らせなかった。余計なことを言って歯周病になりたくはなかったのだ。
「それじゃ、さようなら」
モモネの目は、複雑な色をしている。怒っているような、泣きそうなような。どっちつかずでいて、どちらにも当てはまるような目だった。
スマートホンを持ったままモモネの後ろ姿を見送る。返されたスマートホンはフル稼働していたせいか暖かいままだ。
「迷惑、か」
実験材料にされるモルモットの声を聞いた気がした。
モモネが神獣に、白い狐に関わる人間なのは間違いなくなった。
科学がもっともつまずくのは倫理だった。命を救うために命を犠牲にする。その矛盾を掣肘するのだ。生きるために殺すのとはまったく違う、人間の知的好奇心による虐殺だ。科学や医学が貴い犠牲の下に成立していることは重々承知していた。モモネみたいにはっきりと科学と対極の価値観で否定されるとなにも言い返せなかった。
「帰るか」
真岡は、サイド探偵事務所と関わるのは今日で終わりにしようと決意した。




