一話
モニターに映る調書には絞殺死体の画像が挿入されている。首に巻き付いているのは被害者のネクタイだ。場所は都内のラブホテルで、容疑者は女だと誰でも想像できた。
「ソウタ! なにやってんだ? はやくアガレ!」
「はい! くそが」
返事ははっきりと、悪態はひっそりと。
鬼崎は、調書のファイルをしっかりと名前を付けて保存し、デスクから立ち上がった。
出勤簿に押印してから、捜査一課を退室して待ち合わせの居酒屋へと向かう。
鬼崎には数年だけだが懇意にしてもらった先輩がいた。
その先輩は、今の鬼崎のように上司とそりが合わず退職してしまったのだ。
職場での愚痴を聞いてくれるのは、今になってもその先輩だけだった。
警察署の裏口から出ると、ひんやりとした風が昼間のヒートアイランド現象を忘れさせる。十月の半ばを過ぎて、文化の秋とやらが迫ってきており、一芸を持った人たちが荷物を担いだり、衣装姿で出歩いていた。学校の文化祭が、街一つの規模で展開されると知ったのは警官になってからだった。
夕方の六時になると都内はすっかり暮れて、ビルや車のライトが活躍している。街灯のない場所は真っ暗で、立ち入るには覚悟と勇気が必要だった。
警察署から十分に離れたところで、鬼崎は横断歩道を渡らずに曲がる。
最寄りの駅へ入りこみ、退勤する人たちに紛れて二駅ほど乗って降りた。
駅から出て少し歩くと、仕事終わりの一杯を楽しむ一団がガード下に現れた。
オレンジ色の明かりの中で酒とつまみを楽しむ社会人たちが、明日への鋭気を養うために集まっている。
待ち合わせの居酒屋へ行くと店の親父が料理にいそしむ姿があり、威勢のいい酒盛りが耳に染みる。仕事から解放されたよろこびで肩肘に張り付いていた警察官という衣服が抜け落ちた。
「よぉ、待ってたぞ」
オールバックの多い店内で、一人だけ弾けた頭をしている。
鬼崎の先輩だった道祖土が、カウンター席に座ってビールジョッキを片手に声を掛けてきた。
警察を辞めてから初めて見る機嫌の良い顔だった。
「生で。先輩、機嫌いいっすね」
店主にビールを注文しながら、道祖土の隣へ腰掛ける。別の席から漂う焼き鳥の匂いが食欲をそそった。
「まぁな。若い奴と一緒に嫌な奴の依頼を失敗してやったんだ。痛快だったね!」
道祖土は警察を辞めた後、探偵業を始めていた。警察官と違って、嫌な奴の言うことに従わなくていいのでとても伸び伸びとしている。
「羨ましいっす」
鬼崎は注文したビールが届くやいなや一気に半分ほど飲み、呟いた。
「なんだ。上司と揉めたか?」
鬼崎が道祖土を先輩と慕うのは、同じように曲がった上司へ反発を覚えていた人だったからだ。
「はい」
「そうか。まぁ、変わりはしないよな」
外では警察署内でのことは話せない。できても世間話程度だった。守秘義務というより、周囲から警官だと見られると居心地が悪くなるのだ。
鬼崎は相談したかった。
殺された被害者は、とある学術振興会の一員だった。それがラブホテルで殺されたというので痴情のもつれと当たりをつけて捜査をしている。
鬼崎には、それが的外れな気がしてならなかった。
気にくわない上司は、それが正解だと信じて別の視点からの捜査を許さない。それが嫌でしかたなかったのだ。
「いくつになった?」
道祖土は鬼崎の心中など知らないように話をそらした。
「二十六です」
「あと四年だな」
「そうですね」
高卒で警察学校へ通った人間が警部になるには、長い時間が必要だった。鬼崎は、ノンキャリで警部になった道祖土を尊敬し、目標にしていたのだ。
道祖土が刑事を辞めたのは、今の鬼崎と同じ状況のときだった。まるで根拠のない捜査方針や頭ごなしに人を扱おうとする上司。鬼崎は道祖土に激励して欲しかった。ただそれが甘えだともわかっていた。道祖土には越えられなかった壁が、警部になる前の鬼崎に現れた。
話を聞こうともしない道祖土からは、突き放すような放任の雰囲気があった。頑然たる他人という一線を引かれ、鬼崎は黙ってビールを飲むことしかできない。
鬼崎は道祖土と静かに酒を飲んで店を出た。
酒が入ったせいか、秋の夜風が余計に冷たく感じる。
ガード下を離れて人気がなくなったところで、鬼崎は道祖土に打ち明けた。
「先輩」
「ん? もう一軒行くか?」
「コロシがうろついているんです」
「おい!」
道祖土が慌てて当たりを見回して、鬼崎を道の端へと引っ張った。
「お前、いきなり何を言い出してるんだ?」
道祖土の酒臭さも気にならないくらい、鬼崎は追い詰められていた。業務や上司にではなく、警察官としての誇りが揺らいでいるのだ。
「今の捜査じゃ逃げられます」
「警察官が探偵に頼るなよ」
ボサボサの頭をかきむしりながら、道祖土が呆れたように鬼崎から離れた。
「すんません。無理を言いました」
「まったくだ」
弱音を少しだけ吐き出せて、冷静になれた。捜査は遠からず失敗する。自分の提案はその後にすればよいと考え直せた。
「お詫びにもう一杯だけ奢らせてください」
「それより教えろ」
久しぶりに聞いた警察官時代の声だった。鬼声のサイドと怖れられた武闘派の刑事が、鬼崎を睨み付けていた。
「え?」
「お前はどの事件を追ってるんだ?」
鬼崎は、金棒を捨てた鬼を起こしてしまったのかもしれないと思い、すっかりと酔いが冷めてしまった。