メッシ・ザ・ミラクル
002
新生活のパターンも、二週間続けばそろそろ身体が覚えだす。
近づいてくるごくかすかなスリッパの足音で、雪崇はもう自然と目覚めるようになっていた。
「雪崇君、起きて。朝だよ」
ふたつの手に、雪崇の身体は優しく揺すられた。
既にネイティヴと聞き分けることの不可能な発音。
完璧な日本語によるモーニングコールで、雪崇は微睡みから完全覚醒した。
「おはよう、リティーナ」
「おはよう、雪崇君」笑顔で応じ、彼女はウォーキングクローゼットへ向かっていった。
メラミン製チェストからカッターシャツを一枚取り出し、戻ってくる。
「はい、着がえだよ。ごはん、できてるからね」
「ありがとう。下に降りたら一緒に食べようか」
「うん。待ってるね」なにがうれしいのか、リティーナは満面の笑みを浮かべた。跳ねるような足取りでひと足先に階下へおりていく。
身繕いを済ませて居間に向かうと、珈琲の香りが雪崇の鼻孔をくすぐった。
朝食の準備は既に配膳まで完了しているらしい。
六人がけの食卓で、着席したリティーナがにこにこしながら主を待ち構えている。
雪崇は対面の席に座り、彼女が食前の祈りを捧げる様を見守った。
「どう、雪崇君。新しい学校にはもう慣れた?」
「まあね。なんと言っても、体育館以外は土足というところが良い」
「仲の良いお友達とかは?」という次の問いには、「大丈夫だよ」と応じた。
こうした日本語ならではの曖昧な表現にも、彼女はもう完璧に順応している。
つき合いが深まるほどリティーナの持つ数々の美点に驚かされてきたが、人並み外れた語学の才はその最たるところであった。
もともと、小麦色の肌を除けば日本人といっても普通に通用する容貌だ。確かに、腰の位置がやたらに高く、瞳が茶色がかっていることもあり、南欧系の混血と思われることはある。だが、それもハーフどまり。誰もが、何割か日本人の血を受け継いでいると考える。
彼女の祖国には異国の血が多く入り込んでいるため、フィリピン人同士でも「どの国の人間か」と訊ね合うような珍事が発生しやすいという。
リティーナはその代表例なのだろう。
「じゃあ、行ってくるから」
食後、玄関まで見送りに来たリティーナを振り返り、靴を履く。
この靴というのが、また素晴らしいものだった。外見こそ、コンバース風の何気ない運動靴に過ぎない。くるぶしの上まで隠れる、ショートブーツに似たタイプのスニーカーだ。
だがその実体は、この世にひとつしかない特製品だった。
製作期間は百と四十九日。総製作費、六万二千円。
シューズメーカーに勤める父親からノウハウを引きだし、それを元に雪崇自らが研究・開発した渾身の作品である。
当然、このスニーカーは並の靴ではない。
まず、底からして平らではないのだ。中敷きのヒール部分がダイナミックに盛り上がり、爪先へ向かう急傾斜を形成している。要はハイヒールと同じだった。
角度を考慮に入れれば、もはやバレリーナが履くトゥシューズというべきか。
思えば、この靴が誕生するまで数々の試作品が生み出されては消えていった。
長時間着用しても疲れない素材の選択には苦労した。もっとも手こずらされたのは、負担のかかる先端部の骨格保護と、衝撃の緩和であっただろうか。
他にも、中敷きが生むシークレットヒールの角度調整。
トレードオフとなる機能性とデザインの折衷。軽量化と耐久性の追求……
開発コード〈メッシ・ザ・ミラクル〉は、まさに血と汗と涙の結晶なのである。
この魂のアイテムを装着することのより、漢は九・四センチメートルの身長を稼ぐ。これにより、相馬雪崇は〈伝説の領域〉といわれた百六十の大台に到達。
リティーナの誇る百六十四・五センチにさえ肉薄するのだった。
「さあ、これで俺は真の姿に戻れた。行くぜ、リティーナ」
雪崇はメイドから鞄を受取り、ポーズを決めて言った。
「百六十の高みから世界を睥睨する、真・相馬雪崇の背を見送ってやってくれ」
「そんなの履かなくても、雪崇君は世界で一番かっこ良いのに。私、全然気にしないよ」
慈愛に満ちた言葉だった。思わず、目から心の汗を分泌しそうになる。
「ありがとう。だがな、リティーナ。男には誰に理解されずとも構わない、些細でつまらないこだわりがある」彼女に背を向け、低く告げた。「人はそれを、ハードボイルドと呼ぶのだ」
「良く分からないけど、車に気をつけてね」
「ああ。男は一度外に出れば七人の敵を持つ。それがハードボイルドだ。気を付けるとも」
「うん。行ってらっしゃい」
「おう、真・相馬雪崇、出る!」
†
瑞城市は、シンガポールに移り住むまでの間、雪崇が幼少期を過ごした街だった。つまり今回は、四年の月日を経て故郷へ出戻った形になる。
古くは日本書紀にその名の記述が見られるほど、この街の歴史は長く深い。
それを裏打ちしているのが、市内各所に点在する神社や寺院、史跡群だ。
名所・名物とされるものも多く、おまけに国立博物館までもが新しくできたようで、人口七万に過ぎないこの街には、今や毎年七百万人もの観光客が訪れるまでになったという。
そうした観光都市としての性格が強いせいか、瑞城市は概ね景観に優れた街でもある。
何気ない通りにすら桜や市花である梅の並木が絶えることはなく、この時期ともなれば――もう満開期は去ってしまっているが――視界を上品な薄桃色に演出してくれる。
「で、どうだ、雪坊。しばらくぶりに帰ってよ」
のんびりとした問いと共に湯のみを差し出してくるのは、紺色の作務衣を着込んだ老人だった。
歳の頃はもう七十を数えるはずだが、細身の体躯は雪崇より遥かに高く、背筋も鉄筋で補強したように真っ直ぐだった。
双眸に宿る穏やかながらも衰えない威光は、最後に見た時といささかも変りない。
「もう二週間になるんだ。おおよそは見て回れたんだろう」
「いやあ、それがそうもいかなくてさ」
翁に背を向け伸びをしていた雪崇は、縁側に歩み寄り、彼と並んで腰掛けた。
「ほら、親父はまだ諸手続きの都合で、しばらく帰国できないって言ったじゃん。おかげで男手は俺だけでさ。引越しの片付けが結構大変なのよ」
雪崇は湯のみを受取り、手元に寄せた。
通学途中、小学生の頃から遊び場にしていたこの屋敷に寄り、お茶を一杯飲んで行く。
帰国後の二週間で確立した、雪崇の新しいスタイルのひとつだった。
「あれ、これ新しいやつ?」ふと気づいて、雪崇は訊ねた。
「おう。新しいって言っても、去年窯出したやつだけどな。どうだ?」
問われ、改めて手元の湯のみを検分する。
大きさは雪崇に程よく、肉厚だが良く手に馴染む。
青灰色と薄緑色のグラデーションは、透明感を持ちながらも深みがあって見事だった。
「藁灰釉の色合いが良いね。織部のかかりも申し分なくて、うん、個人的には好きだよ」
「そうか。じゃあ、それやるよ。明日からはそれに茶煎れて飲めば良い」
「そりゃありがたいけど、良いのか、東爺」
「良いも悪いも、帰ってくるってんで、おめえ用に焼いといたやつよ。他にも幾つかあるから、まあちょいちょい持って帰れや」
雪崇が「東爺」と呼び親しむ彼は、山裾に広がるこの小高い丘を住まいにする隠遁者だった。趣ある茅葺き屋根の住まいの奥には、五段の連房式登窯が構えられており、手元の湯のみはそこで焼かれたものだ。周辺の田畑と背に聳える山は、いずれもが彼の持ち物だ。豊かな自然に囲われたその風景は、四年の空白をまるで感じさせない。
「――おし。じゃあ、東爺。そろそろいいかな?」
茶を飲み干すと、雪崇は軽く両膝を叩いて立ち上がった。
いつからここに出入しはじめたか、もう定かな記憶はない。この老翁と、どのような出会い方をしたかすらも雪崇には思い出せなかった。確かなことは、彼との付き合いの中で焼き物を見る目が自然と身についたことだけだ。もっとも、自分でも何か焼いてみようという気になったことはあまりない。東臣翁は陶芸以外にもうひとつの求道を持つが、雪崇が関心を持って取り組んだのは、むしろそちらの方だった。
「おう、じゃあ見せてみ」
「なにやる?」雪崇は手首を回しながら言った。
「そうよな、八重桜以外は華も散っちまったし、今日は中で見せてもらおうか」
「居捕りってこと?」
「他は大体見たしな。その鉄ゲタ、気に入ってんのは分かるけど、ちゃんと脱いで入れよ」
「だから、鉄ゲタじゃないって。男のアイテム〈メッシ・ザ・ミラクル〉なの」
「男がわざわざ歩きにくいもん喜んで履くつったら、鉄ゲタしかなかろうによ」
さすがに彼は二週間前の再会時、初見で雪崇のカサ増しを見抜いた。歩法という言葉もある世界だ。脚さばきに僅かでも不自然があれば、隠し通すことなど不可能に近い。
「しかし、そんなけったいな物で爪先立ち続けて、よくもまあ軸がブレなかったもんよ」
「そうそう」雪崇は靴を並べて置き、東臣と一緒に歩き出した。「途中から意識しなくなったんだけど、靴底、それでも結構まんべんなくすり減ってくれてんだよね」
「それが不思議なところよ。普通、そんな無茶な格好してたらバランス崩すぜ。それが、かえって土台がしっかりしてんだから、首ひねるしかない」
「まあ、これも〈メッシ・ザ・ミラクル〉のもたらした奇跡のひとつってことじゃない?」
「なんでかねえ」老翁はしきりに首をひねっている。「若いうちってのは、時々読めねえ反応だすからなあ。焼き物も、窯出ししてみると予想外の色が出てることがあるもんだが」
「あ、だからだな? それを見るために、俺に古流教えてんだろ。茶碗と同じくらいに考えて」
翁はにやりとすとる。「なんだ。今頃気づいたのか」
「まったく、この爺さんは……しかも、今日は居捕りときてる。やだなあ。あれ苦手なんだよ」
雪崇は唇を尖らせながら、辿り着いた和室の戸を開けた。
和室といっても、渡り廊下を歩いた先にある、小さな道場とも呼べる離れだ。
「だからだよ。お前さん、向こうじゃ、手前勝手にメニューをだいぶ偏らせてたろう」
ここでいう〈居捕り〉とは古流武術特有の表現で、合気道でいうところの座り技である。
正座という無防備な状態で襲撃を受けた時、これにどう対処するか――
それを追求した技術だ。
戦国の世においては、「公式の場で正座している所を狙われる」という暗殺のシチュエーションが現実的に危惧された。そのために編み出されたのが、この居捕りであるらしい。
シンガポールでは、正座をする機会など皆無に近い。そのため、雪崇は座技や膝行の稽古をほとんどしてこなかった。東臣は目ざとくそれを見抜いたのだ。
「まったく、七十超えてるってのに耄碌するどころか、未だに抜け目ってもんがねえ」
苦笑いを浮かべながら、雪崇は薄くい草の香る畳の上にゆっくりと腰を落としていった。




