バハラナ
001
日本へ帰ることになった。
シンガポールに移住してから三年と七ヶ月目。
父親が発したその言葉は、相馬雪崇を大いに落胆せしめた。
「それはもう、決定事項なのか?」
いつもの夕餉の席だった。食卓を囲むのは、〈アマ〉のリティーナを含めた家族三人。
使用言語は、これもいつものように日本語。
こちらでは百グラム百円で買えるサーロインステーキがメインディッシュだった。
「まだ内示の段階だけど、会社は決定事項として扱ってるねえ」
そう答え、父・崇雅はビールの小瓶に直接口をつけた。一口あおると、カーネル・サンダースそっくりの腹を満足そうに震わせる。「そのうち正式な辞令がおりるよ」
そんな主人たちのやり取りを、当事者であるはずのリティーナは黙して聞いていた。
問題の深刻さを理解しているのかいないのか、相変わらずにこにこと平和な笑みを浮かべている。
「でも、リティーナは良いのか? リティーナのことはどうすんのよ」
「そう、それを相談しようと思ってたんだよ。雪崇君はどうしたい?」
「どうって……」当の本人を見やりながら雪崇は言葉を探す。「リティーナはもう家族の一員だし、いない生活なんて考えられない。機能的にも相馬家が成り立たなくなるだろ」
「だよね。まあ、そういうわけだから連れて帰ろうかと思ってるんだけど」
この父の言葉に、リティーナははじめて反応を示した。嬉しそうに何度も首を縦に振る。
シンガポール社会は共働きが当たり前の世界だ。一般的な企業の男女雇用比率は半々。男女共に「月一度しか家事をしない」というスタイルがごく普通ですらある。
そんなシンガポーリアンの生活を支える〈アマ〉とは、俗に言うところのメイドだ。
この国には諸外国――主にフィリピン、インドネシア、スリランカなど――からの出稼ぎが多く、女性は特例を除いてメイドの職に就く。
リティーナもそんな外国人労働者のひとりだ。
彼女は十七歳のフィリピーナで、二年前に相馬家の住み込みメイドとして雇われた。
非常に安価な労働力である〈アマ〉たちは、星の数ほどある斡旋業者などを介して、ごく平均的な収入しかない相馬家でも当たり前に雇える存在なのだった。
だが、それと彼女を日本に連れて行くこととは、問題の次元がまったく異なる。
「あのなあ、そういうことを簡単に言うなって。事の重大さが分かってんのか」
「あれ。雪崇君は、リティーナさんを連れて帰るの反対なの?」
「んなわけねえだろ。そりゃ、一緒に帰れるならそれが一番だと俺も思うよ。でもな」
「まあ、アマさんたちは、出稼ぎビザでシンガポールに来てるからね。そもそも移動することすら勝手にはできない。雪崇君もその辺を心配してるんだよね?」
「分かってんなら、なにか対策くらいは考えてあるんだろうな」
「うん。ちょっと、ウルトラCでいこうかと思ってね」
「雪崇君、バハラナ。バハラナだよ」
爛漫な笑みを浮かべ、リティーナは空になった食器をキッチンへ運んでいく。
バハラナは彼女が故郷から持ち込んだ言葉で、「どうにかなる」「そのうち何とかなる」といった意味を持つ。いわば「ケ・セラ・セラ」のタガログ語版といったところだろう。
「おい。で、そのウルトラCってなんなんだ。まさか偽装結婚とかじゃないだろうな」
充分にリティーナが遠ざかると、雪崇は念のため声を潜めつつ父親に迫った。
「さすが、良い線いってるね。雪崇君」
「正気か、親父。日本の馬鹿なブローカーどもがその手で人身売買紛いのことを常習化させてるから、今は入管も警戒厳しいって話だぞ」
「その分、手口も巧妙化してるさ。知ってるでしょ? 彼ら、審査に通りやすい身の上設定や受け答えをマニュアル化して、女の子たちに時間をかけて覚えさせるんだよ」
「そんな内幕までは知らねえよ。とにかく、偽装結婚なんて俺は絶対に許さんからな」
「でも、雪崇君。個人でできることなんて限られてるんだよ。使えるものはなんでも使わないと。僕らに、たとえば〈オレッド〉くらいの大きな政治力があれば話も――」
「やつらのことは言うな」
雪崇は断ち斬るように声を被せた。場の空気が一気に冷える。
「もののたとえであろうと、二度と聞きたくねえよ」
「……そうだね」崇雅は厳かに、それが共通の禁忌であったことを認めた。「僕が軽率だった」
リティーナが食器を取りに来ため、彼はそこで一度言葉を区切った。
残りの空皿を抱えたメイドは、鼻歌まじりにまたキッチンへと帰っていく。
その背を見送りながら崇雅が再び口を開いた。「それに、近いとは言ったけど偽装結婚そのものとは言ってないよ。ぼくだって分別くらいはある。そこは信じてくれないかな」
「そもそも、リティーナは本気でOKしてくれてんのか? 俺に気を使って、親父が無理に頼み込んだとか、そういうことはないだろうな」
「気を使うって?」
「だから……母さんのことだよ。うちはいっぺん、家族が分解してるだろ」
その言葉を最後に、しばらく沈黙の時が流れた。
キッチンから食器を扱う硬質な音が響いてくる。
「そうだね。まあ、それを全く考慮しなかったといえば嘘になるだろうね」
やがて口を開いた父は、穏やかともとれる声音でそう言った。
雪崇が母・万里恵を失ったのは、八年前。まだ日本で生活していたときのことだった。
しかもそれは、よくある両親の離婚や死別ではなく、人為によってもたらされた強制的な別れだった。相馬家は人間の悪意によって意図的に引き裂かれたのである。
母親が亡くなったと知らされたのは、その半年後だった。
表向き病死と発表されたが、実際のところは自殺に近いものであったと伝え聞いている。
この国で父がメイドを雇うと決めたのは――誤解を恐れずに言えば――その空白、穴を埋めるためもあったのだろう。もちろん、仕事に出ている間、当時まだ小学生だった子どもを独りにしてはおけない、という実際的な問題もあったはずだが。
「結果として、リティーナさんは僕らの新しい家族になってくれた。万里恵のかわりという意味では、決してなくね。僕らのその気持ちは彼女にも伝わってるはずだよ」
いつもはどこか飄々とした男だ。腹を割って話す機会などそうない。
今夜は久しぶりに父の本音を聞いたような気がした。
「分かった」雪崇は席を立ちながら言った。「リティーナを含め、全員が納得し得る手段なら構わない。そのウルトラCってのを信じることにするよ」
「うん。期待しててよ」
「しかし、そうなると俺は日本の高校を受験することになるのか?」
リティーナの援護に向かいながら、雪崇は呟いた。
今までは漠然と、南クレメンティにあるWS高等学校に進学するものと思っていた。ただ、それだと学力の面で少し厳しいと感じていたところでもある。選択肢が増えたという意味ではありがたい。
「学校にはもう相談して、資料を揃えてもらっている。勉強、頑張ってね」
父親の激励を背中で聞き流しながら、雪崇はもう別のことを考えていた。
そう、選択肢が増すこと自体は歓迎できる。
だが、日本にどれだけ土足で校舎に入れる学校があるだろう。
少なくとも祖国で暮らしていた小学生時代、そんな存在を見聞きしたことはなかった。
リティーナの心配をせずに済むのなら、考えるべきは「いかに靴を長く履き続けていられるか」だ。
すなわち、学校が土足であるか否か。この一点に絞られる。
その点、文化を考えると、日本はシンガポールより格段に条件として不利だろう。
どう考えても、今回持ち上がった帰国の話はデメリットしか生まないように思われた。
しかし、得てしてそういう話ほど何の障害もなくすんなりと現実化してしまう。
半年あった崇雅の残り任期は瞬く間に尽き、転勤の内示はあっさりと正式な辞令として下された。
さらに、水面下で推進されていた「ウルトラC」も見事に決められ――
訪れた四月。
二週間後に控えた聖金曜日を迎えることなく、相馬雪崇は〈ライオンの国〉に無事、別れを告げる運びとなった。
そして、彼の国にはなかった春の季節を、祖国の大地で迎えたのである。