崇なるあなたへ
013
情報の共有にともなう作業には、結局、小一時間ほどを要した。
もっとも、雪崇がまともに参加できていたのは最初の五分程度。知っている情報を出してしまえば、あとはもっぱら聞き役に徹するしかなかった。小難しい語彙が乱れ飛ぶ日吉一族のディスカッションには、とてもではないがついていけない。
おそらく内容の三分の一すら理解できなかったのだろうが、それでも雪崇にとっては極めて有意義な時間となった。
「さて、と。雪崇、あなた眠れるようだったら、そろそろ休んだ方が良いんじゃない?」
壁掛け時計を一瞥し、素芹子が傍らに置いていた空のベトボトルに手をかける。
彼女ばかりでなく、場の全員が、いわゆるお開きムードを感じはじめているはずだった。
「そうだな。大体、話もまとまった感じだし」
「眠れそう?」
「横になってみないと分からねえよ。でもまあ、わりと落ち着いた状態だと思う」
「そう。で、明日は結局、どうするの?」
「ん――、そうだな。今のところ、スレイヤーに指定された場所にいってみるつもりだけど。まあ、土壇場でビビリが復活して、とんずらしたくなる可能性もぜロじゃないからな」
答え、「よいせ」と声をあげながら、雪崇は立ち上がった。
「とりあえず、シャワーでも浴びるかな。ふたりとも、色々ありがとう」
「いいのよ」素芹子が短く応じる。
「いや、本当に助かったよ。考えてみりゃ、お前には最初っから最後まで世話になりっぱなしだったな」
思い返せば、不可思議な縁だった。あの日、突然現れたこの――とてもそうは見えない――まだ十歳の女の子は、文字通り命がけで力を貸してくれた。
事態が死の確率を急速に高めていっても、決して逃げ出さなかった。
憎まれ口をききながら、それでも彼女がしてくれることは、いつも誰よりやさしかった。
「お前、将来はどんなやつになるんだろうな」
一種、感動にも似たものを抱きながら、雪崇は素芹子を見つめた。
それを見届けることはおそらくできないのだろうが、最後になるかもしれない夜を、この奇跡のような子と過ごせた。
自分程度の人間には、過ぎた幸運であるに違いない。そう思った。
「どんなやつになろうと、俺はそのお前を好きだと思うけどな」
彼女に向かってほとんど無意識に手を伸ばした雪崇は、自分のしようとしていることに気づいて一度、動きを止めた。
素芹子は感情の読み取れない表情で、ただ静かに視線を返してくる。
拒絶を示すに充分な間が経ったあと、雪崇は結局、彼女の頭頂部に手を置いた。
艶々した、赤ん坊のように柔らかい黒髪を撫でた。
「素芹子に会えて良かったよ。ほんと、ありがとな」
素芹子はなにも答えなかったが、それは雪崇の望む反応でもあった。
手をもどし、日吉泪にも無言で頭を下げてから、部屋を出た。
ひとっ風呂浴びたいというのは辞去の口実ではなく、汗をかいた雪崇の素直な欲求だった。自分の部屋にもどっても良かったが、この地下フロアには先ほど泪も使ったというシャワールームがある。近いこともあり、今回はそちらを使った。頭はそのまま洗ったが、身体は包帯とギプスに気をつかって、タオルで拭うにとどめた。
旅館で見るような小さな冷蔵庫の存在に気づいたのは、ドライヤーで髪を乾かしているときだった。日吉泪は女子側のここから、ドリンクを調達してきたのだろう。
アイスコーヒーの缶をひとつ失敬し、雪崇はシャワールームをあとにする。
なんとなく自室にもどる気にはなれず、一階にあるというウッドデッキに足を向けた。
時間が遅いこともあり、邸内は本当に人間がいるのかと思われるほどの静謐に包まれていた。デッキの手前は小広場になっており、役所のホールのようにソファとTVが置かれていた。雪崇はそれらを迂回し、窓際に寄った。レースのカーテンを潜り、ガラスの重たいドアを押し開けると、バーベキュー用の設備が複数整った広いウッドデッキに出た。
だが雪崇が驚いたのは、規模やグレードにではなく、先客がいた事実にであった。
月明かりと屋内から漏れ出る光で、デッキ内の視認性は思いのほか悪くない。それでも声をかけられるまで、雪崇は相手の存在に気づけなかった。
闇夜に溶け込むようなブラックスーツが、こちらに背を向けて立っていたせいだった。
「――失礼、あなたでしたか」
振り返りざま、やや語気を荒くしたロシア語でなにか口走った彼は、取り繕うように姿勢を正した。食事前、ナースの通訳をしてくれた通称〝熊男〟だ。
「今、ヴァシリーサって呼ばなかったか?」雪崇が訊ねる。
「はい。彼女が自室を出てうろついているようだ、という報告がありましたので」
「まあ、共用のでかい風呂につかってるとか、カメラのないとこで瞑想してるとか、そんなのじゃないの? 独りになりたいって、今のあいつの気持ちは分かるだろ」
「そうですね」と、男は一応、同意らしき言葉を口にする。
だが、先ほどの尖った声音を聞く限り、心から雪崇に賛同する立場ではないようだった。
「で、あんたはヴァシリーサを探してここに来たのか?」
「いえ。それとは無関係に、午前二時まではこのポイントが私の持ち場です」
「つまり、立ち番? 二十四時間体制で警備がついてるとは聞いてたけど――」
雪崇は口をへの字にして言った。それからアンダースローで缶コーヒーを投げる。
緩やかな放物線を描いたそれは、熊男の手に収まると、グローブに包まれたテニスボールのような比率に見えた。
「残念ながらウォッカじゃないけど。よかったら、どうぞ」
言いながら、雪崇は手近なウッドチェアに腰掛けた。
「恐れ入ります」
「しばらく涼ませてもらおうと思ったんだけど、迷惑かな」
「できれば、屋内にいていただいたほうが我々もお守りしやすいかと」
「だよな、やっぱり」苦笑しながら言うと、護衛が黙って小さく一礼してくる。「じゃ、大人しく部屋にもどるけど……その前に、初対面の時のことだけは謝らせてくれるか」
「何のことでしょう」
「校門前で、あんたらが待ち伏せてたことあったろ。あの時の俺さ、なんて言うか、ちょっと態度悪かったと思うんだよ。シャツ破いちゃったし。で、ちょっと気になってたんだ」
「押しかけた我々が非礼であっただけのことです」
「それでもな。結果、あんたらは味方だったわけだし」
憎むべきはロジオン個人であって、オレッドではない。
そこを混同していた気がしていた。
庇護の対象者から蔑まれること、憎悪されることの残酷さは、過去の父親とのできごとから学んでいたはずである。にもかかわらず、また繰り返した。
教訓を無駄にしたも同じことだ。
「とにかく、あの件に関しては、俺が馬鹿だった」
雪崇はあぐらに近い形で脚を折り、椅子の上で頭を下げた。
「自分に尽くそうとしてくれる人間に、間違った態度をとった。ほんとはあんただけじゃなくて、ここに詰めてくれてる関係者全員に謝るべきなんだろうけど」
「――どうか、そのようなことはなさらないでください」
落ち着いた口ぶりで護衛が言った。
「事前に充分な説明を行っていれば、誤解も生じなかったでしょう。我々は戦術を誤りました。過失でありミスです。状況的に、あなたの反応はむしろ当然のものだった」
そう言われても気が楽にならないのは、自分で自分に失望しているからだろう。
同じ過ちで何度も他人を傷つけることほど馬鹿げたこともない。
「かっとなったら後先考えずに暴走するくせは、どうにかしたいと思ってるんだけどな」
「あの時のことを気にしている者は、ひとりもおりません」
「でも、それじゃこっちの気が収まらないって言うかさ。俺にできる償いがあれば、何でも言ってくれ」
他意のないその言葉に、護衛はなぜだか一瞬、考え込むような仕草を見せた。
「なんだ。なにかあるのか?」
「いえ……」
追求すると、今度は明らかな渋面を見せる。
「俺は腹割って話してるつもりだ。そっちも、言いたいことがあるなら言ってくれよ」
「しかし――」
散々、逡巡する素振りを見せた護衛だったが、最後は雪崇の無言の圧力に屈した。
「では、ひとつだけ」と、ようやく重い口を開く。
「おう。なんでも言ってくれい」雪崇は、あぐらをかいた脚をぱんと叩いた。
「私からお願いできる筋合いではないと思うのですが――できれは、その、これまでヴァシリーサの働きました数々のご無礼の段、平にご容赦いただければ……と」
意味が分からず、雪崇は口を半開きにして相手を見つめ返した。
「つまり」護衛は巨大な拳を口元に当て、無音で咳払いした。「あの子はまだ未熟です。感情を先走らせ、当初より、あなたに不適切な態度で接してしまいました」
「ああ」それでようやく腑に落ちた。「……なんだ、そのことね」
相手の思わせぶりな態度に身を固くしていた雪崇は、一気に脱力する。
「それこそ、もう気にしてないからどうでもいいって」
「このような申し開きが許されるとも思いませんが、決して悪い子ではないのです」
護衛の発したその一言は、どことなくヴァシリーサへの父性を感じさせた。
「あの子は、幼い頃から過酷な環境で生きてきました。もう、親も家族もおりません。ですから、拾ってくださったマーリヤ様と万里恵様にはたいへんな恩義を感じていて――」
「拾った?」思わず背もたれから身体を浮かせる。「そんな、捨て猫じゃあるまいし」
「私からは詳しくお話しすることはできませんが、ヴァシリーサがマーリヤ様、万里恵様に救われ、そのことに深く感謝していたのは事実です。ですから、あのおふた方の実子であり、ご令孫でもある雪崇様にどう接するべきか、ヴァシリーサには戸惑いがあったのだと思われます。それが結果として、あのような対応に」
その一言は、すっと雪崇の胸に収まった。
もつれていた糸が、思いがけず綺麗に解けたような感覚だった。
「分かるような気がする」気付けば、雪崇はぽつりとそうつぶやいていた。「たぶんだけど、俺もそれ、経験したんじゃないかな」
「と、言うと?」
「ヴァシリーサは自覚ないのかもしれないけど、俺に対するあの態度って一種の自己防衛じゃないかと思うんだよ。つまり、なんて言うかさ――」
家族や恋人に死なれたあと、人には支えになるものが必要になる。
形はそれぞれ違うにしても、だ。
「俺はさ、母親を亡くした時、抜け殻みたいな腑抜けになっておかしくない状態だった。そうならなかったのは多分、ロジオンへの憎しみが絶望感に勝ったからだ。やつへの復讐心が、ある意味で活力になっていた」
いつかあいつを殺す。絶対にぶっ潰す。そんな激情は時に生きる理由、糧ともなる。
同じ道を今、ヴァシリーサは歩いているのではないか。雪崇にはそう思えるのだった。
「俺がロジオンを憎んだように、ヴァシリーサにもそういう対象が必要なんじゃないかな」
「それが、あなただと?」
「たぶんね。血が繋がってるってだけで大事にされてる俺が、あいつには気に食わなかったんじゃないか? 婆さんが俺の写真飾ってたこととか不機嫌そうに話してたし。ガキの頃からそういう小ちゃな不満みたいなのを、少しずつ蓄積してきたのかもしれない」
まあ、全部想像だけどね。雪崇はそう言って話を締めくくる。
「しかし、それが事実ならただの逆恨み――八つ当たりです」
「良いんだよ。別にそれでも良いんだ。とりあえずはさ」
もちろん、最初は頭にきた。だが、柾本マリアや相馬万里恵への思いがあればこそのものだと思えば、そのことへのわだかまりはもう感じられない。
「ヴァシリーサなら、そのうち本当の意味で支えになるものを見つけられるだろう。それまでは俺を代用品にしてればいい」他意のない、それは本心からの言葉だった。「憎まれ役でもいい。色々チンケな人間かもしれないけど、俺も、それを受け止めてやれないほど狭量ではないつもりだ」
風の穏やかな夜だった。
護衛はしばらく雪崇を見つめたあと、無言で深く腰を折った。
「祖母と母親を、息子以上に祖母として母として慕ってくれた人間だ。なら俺にとっても家族みたいなもんだろ。当然のことなんだ。あんたが頭下げる必要なんてない」
雪崇は笑って言った。
顔を上げた護衛の口元にも、戸惑いがちな薄い笑みが浮かんでいる。
突然、その護衛がはっとした表情で微笑を打ち消した。
雪崇の斜め後方、セーフハウスの内側を凝視している。
何事かと振り向くと、ウッドデッキに面したガラス張りの向こう側で、カーテンの一部が揺れていた。ひとの姿は見えないが、直前まで誰かがそこにいたらしい。
「誰だ? 話、聞かれたかな」
「分かりません。侵入者でないことは確実ですが」
まさかと思い、雪崇は立ち上がる。「俺、ちょっと確かめてくるよ」
「恐らく問題ないでしょうが一応、お気をつけて。色々とありがとうございました」
「いや」一度振り返って、雪崇は笑った。「じゃあ、悪いけどあとの見張りよろしく」
「お任せください」
うなずいて雪崇はすぐに走り出した。もちろん、バスローブにスリッパをつっかけたなりではそう速度など稼げない。早歩きといった感じで屋内にもどる。ガラス戸にかけられた厚手のカーテンを潜り抜けた時、誰かとぶつかりかけて雪崇はつんのめった。
女の短い悲鳴が聞こえる。薄闇に目をこらすと、リティーナだった。
「うっ……わ、リティーナか。なんだ。どうしたんだ、こんなところで」
「雪崇君――びっくりした」
「こっちもだよ。どうして、こんな時間にうろついてるんだ」
「もう寝ようかと思って雪崇君の部屋に挨拶に行ったんだけど、いなかったから……」
まだ目を小さく見開いたまま言う。
「地下にも探しに行ったんだけど、そっちにも姿がなくて」
「そっか。そりゃごめん。一言、連絡しとけば良かったな」
「それより、ヴァシリーサさん、どうかしたの?」
リティーナが一瞬、うしろを振り返った。
「ヴァシリーサ?」
「うん。今、走っていったけど、泣いてたように見えたから」
「じゃあ、ここにいたのはあいつだったのか」
彼女の姿が見当たらない、という話は耳にしている。
雪崇は、どこかに籠もっているものとばかり思っていたが、実際はあちこちを歩き回っていたのかもしれない。そして、人の気配に気づいてここに寄ったとも考えられる。
リティーナにどちらへ行ったか確認し、雪崇はまた走り出した。広いとはいっても、屋敷と呼べる規模の建物ではない。大まかな方向も分かっているとなれば、事も簡単だった。
角を一度折れた長い通路の先で、雪崇は求めていた人影を難なく見つけた。
どうやら辺りはスタッフ用の私室を固めた一画らしく、廊下には等間隔にドアが並んでいる。
その片隅、橙色の間接照明が照らす薄暗い壁に肩を寄せ、彼女は佇んでいた。
「ヴァシリーサ――」
小さく呼びかけると、雪崇に向けて丸まっていた彼女の背中がびくりと震えた。
「来ないでください。なんでも……私なら問題ありません。放っておいてください」
答える代わりに、雪崇は意図的して足音を立てながらヴァシリーサに近づいていった。
「俺は言いたいことがある時、そいつの所に行って、すぐ話すことにしてる。あやまったり感謝したり、好きとか嫌いとか、感じたらその場で伝えることにしてる」
ヴァシリーサなら、その理由を理解してくれると思った。
ある日突然、言いたかったこと、言えずにいたことを、二度と告げられなくなる。
そんな経験が、彼女にもあるはずだからだ。
「あした色んなことに片がつく。あんたとちゃんと話せるのは、今夜が最後かもしれない」
ヴァシリーサは背を向けたまま動かない。
半歩の距離まで雪崇が近づき、そこで足を止めても、逃げる気配を見せなかった。
「私は――あなたが嫌いです」
やがて、どこか自棄っぱちに聞こえる口調で彼女が言った。
「率直だな」雪崇は苦笑した。「もちろん、気づいてたけど」
「ずっとそうでした。会う前から、あなたのことが気に食わなかった。豊かな国に生まれ、なに不自由なく暮らし、離れてまであのひとたちの想いを独占して……。あなたはなんの努力もせず、生まれながらにすべてを持っていた。なのに、私はなに? 生まれたのは、平均寿命三十五歳とも言われるバシキリアの貧民街。その上、ソ連崩壊直後の混乱期で缶詰ひとつ買うにも行列ができる社会だった。あなたと違って、家族と呼べるものだってもう、存在しないのに」
バシキリアは、ロシア連邦を成す八十を超える独立行政体のひとつ。
別名、バシコルトスタン共和国。ウラル山脈の東麓に位置する大統領制の小国なのだ――ということを、ヴァシリーサは訥々と語っていった。
豊富な地下資源を持つ国だが、大統領の一族が専政を敷き利権を独占している。
そのため、国民の三人にひとりは貧困層としての生活を余儀なくされているらしい。
ヴァシリーサはそんな環境で幼少期を過ごし、九歳頃、母親に売られたのだと語った。
幼い娼婦として少しずつ長期的に稼がせるか。それとも人身売買ブローカーに大きく売るか。考えたの末、彼女の母親は後者を選択したのだ。
止めてくれるべき父親は、既に仕事先の鉱山事故で他界していた。
「ロジオンが多くの愛人を囲っていた話は既にしましたね? 私はその予備人員として、オレッドに買われました。膨れた封筒を手に去っていく後ろ姿を最後に、母とは会っていません」
雪崇は、身体中を巡る血液がいきなり倍速で流れ出したような錯覚を味わった。
想像以上の話だった。続きを知るべきだが、聞くのが怖い。
「それでも、私は幸運でした」ヴァシリーサが言った。
その声音がにわかに和らいだ気がして、雪崇は伏せかけていた顔をあげる。
「ロシアに連れ戻されたマリエ様とマーリヤ様が、私を引きとってくださったのです。二度と日本に戻らないことを条件に、おふたりは私と同じような境遇の女児を他に何人も侍女として受け入れ、ロジオンから救ってくださいました」
「母さんたちが……」雪崇は思わず、握り固めていた拳から力を抜いた。
「世界で一番やさしいおふたり。あれほど高潔な女性たちを私は知りません。ずっと大好きだった。私はあの人たちにもらったこの人生を、最後の一片まであの人たちのために使うと決めた。あのひとたちのためなら、私はなんでもできた。命も惜しくなかった」
だから、ヴァシリーサは必死に日本語を学んだのだろう。雪崇に理知的と感じさせる教養と振る舞いを、血の滲むような努力で身につけたのだろう。
小学校にすら行ったことがなかったであろう彼女だ。独学で今の域に達するまで、果たしていかほどの練磨が必要であったか。想像を絶する。
「しかしどんなに励んでも、あのひとたちの一番はあなただった。私にも溢れるほどの愛情を注いで下さったけれど……。でも、それでも、ただ血縁だというだけで、あなたは特別だった。理不尽だと思った。だから想像で酷い人格を与えて、勝手に目の敵にして、そうして気を晴らしてきた」
なのに、と彼女は肩肘を張って、叫ぶように言った。
「この目で確かめたあなたの笑い方は、あのひとたちとあまりに似ていて……どうして? 写真ではそんなこと感じなかったのに。空気も、仕草も。贈り物を金銭的価値ではなく気持ちの重さで判断する。そんなところすら、あなたはいちいち彼女たちと重なる。頭に来るくらい、みんな同じ。その上――」
はじめて、彼女が振り向いた。青ざめた頬に涙の筋ができていた。
「なぜ、あんなことを言ったんですか」
「え?」
「本気であんなことを言ったんですか」
繰り返されるその問いを聞いて、先ほどテラスで交わした会話のことだと分かった。
やはり聞かれていたのだろう。ヴァシリーサの探るような視線が雪崇へ注がれる。
だが、返すべき言葉はなかった。口で「本気だった」と宣言したところで、なんの意味もない。実際の行動を見て、彼女がどう判断するかの問題だった。
しばらく無言の応酬が続いた。その沈黙を破ったのはヴァシリーサの方だった。
「あなたが、もし私が勝手に想像していた通りの人間だったら――」
言いながら、顔だけ向けていた彼女は身体ごと雪崇と向き直った。
「これは、渡さずに私が持っているつもりでした」
と、白い手首を上に、そっと腕が伸ばされる。握られた指が花弁のように開かれた。
そこには指輪がふたつ、寄り添うようにあった。
「これ……」雪崇は左手で受け取り、眼前に寄せて検分する。
男性用なのか。飾り気のない、少し無骨な感じのするシルヴァーリングだった。
「あなたのお母様が遺された物です。命を絶たれる前に、日本から持ち込んだご自分の貴金属を潰して、それを材料に自らデザインされました」
「母さんが――?」
「黒っぽい方が、あなたに宛てられたものです。もうひとつはお父様に。両方に、まったく同じ文章が彫り込んであるはずです。私には、意味が良く分かりませんでしたが」
「私の崇なるあなたへ」雪崇は読んだ。「万里恵より愛を込めて」
もう一方を確かめると、確かに同じ文字が同じように刻まれていた。
だがヴァシリーサと違って、少し変則的な書き方の意味について、雪崇はすぐに察しがついた。これは間違いなく母が遺したものだと、疑いの余地なく分かった。
「俺の――さ、雪崇って名前を考えたのは、母さんなんだ」
雪崇は、手のひらで小さく指輪を揺らしながら口を開いた。
「北海道で生まれた時、十月下旬だったのにもう雪が降ってたらしくて。だから一文字目は雪。……で、崇の字は、親父からもらったんだ。母さんが意味を気に入ってたかららしいんだけど」
「どのような意味が?」
「〝高い山〟って意味と〝気高い〟って意味があるそうだ」
だが、万里絵が好んだのはそのどちらでもなく、三番目の意味だった。友だちに変な名前だと冷やかされた時、泣きついてきた息子に、彼女はそう明かしてくれた。
「それが、〝最後まで貫く〟って意味なんだって」
普通のひとって最初は真っ直ぐでも、ぐんにゃりしてくるのよ。おとなになるうちに。
だから雪崇は、そんなのじゃない方が、お母さんいいな。彼女はそう言った。
「相手が分厚い壁でも戦車でも、鉄砲玉は曲がって逃げたり、諦めて飛ぶのやめたりしないから。だから、雪崇も、そんな風だったらかっこいいと思うって」
たとえかなわなくても真っ直ぐに。
男はそれくらいの方がハードボイルドっぽくてかっこいいのだと、彼女は言っていた。
「でも、母さんが死んだとき、俺はまだ小学生だった」
雪崇は指輪を拳のなかに納め、その感触を確かめながらつぶやいた。
「こんな風に書いてもらえるほど、名前負けしない生き方ができてたのかな」
自分では、とてもそんな立派なことができていたようには思えなかった。
「当時のあなたは、確かに小学生でした。しかし、父親にぶつかるのが間違いであることに気付き、自分が彼に守られている現実も知った。そして、それを受け入れた……」
驚いて顔を上げる。「母さんは、そんなことまで知ってたのか?」
「ご存じでした。だからきっと、あなたの小さな勇気を誇りに思ったことでしょう。もう、大丈夫だとお考えになったのではないでしょうか」
「じゃあ、なんで!」思わず声を荒げた。「なんだって、母さんは自分から死んだんだよ」
「それは私にも分かりません」ヴァシリーサは冷静に応じる。「でも、今は少し、マリエ様のお心を想像できるような気がします」
「なんだ」
「きっと、あなたたちにもらった気持ちを、汚されたくなかったのだと思います。あなたも、マリエ様がロシアで、どこに入れられようとしていたかはご存じでしょう?」
それは――知っていた。血の凍るような、狂気の世界の話だ。
母の性格を考えれば、あの時点で彼女はもう二度と、自分が日本に戻れないことを理解したに違いない。たとえロジオンから解放されても、帰れない。
今までは、それを苦にして命を絶ったのだと思っていた。
「だからマリエ様は、あなたにもらった綺麗な気持ちを他人にめちゃくちゃにされてしまう前に、すべてを終わりにしたかったのではないでしょうか。あたたかな思いを抱いて」
雪崇はただ目をしばたきながら聞いていた。
彼女から聞かされなければ、自分では永遠に思い至らなかったであろう可能性だった。
「そう、なのかな?」
「きっと。私は、そう信じています」
「……なら、いいな」
彼女が失意の中で逝ったのでないなら。
「そうだったら、いいな。とても」
早く、崇雅にも指輪を渡してやりたいと思った。今の話を聞かせてやりたかった。
だがすぐに、自分にはそれができないことを思い出す。
だから雪崇は、ヴァシリーサの手を取って、彼女に指輪を握らせた。
なぜか迷わなかった。
「これはヴァシリーサが持っててくれ。親父の分は、いつか彼に渡してやってほしい」
なにが起こったのか分からない、といった様子で彼女はぽかんとしている。
それがどこかおかしくて、雪崇は少し笑った。
この娘は、ただ明確に線引きをするタイプであるだけなのだ、と思った。
そして、大切な物にも優先順位を明確にしておく。
その潔さが、他人に冷徹だという誤解を抱かせるのだろう。
「自殺は、家族や友人に対して〝愛していない〟と告げる手段なんだ――って言葉を聞いたことがある。俺もそうだと思ってた。でも、違う場合もあるのかもしれない。なんかさ、あんたの話でちょっとそう思えたから。俺はもう、それでいい」
「でも……」ヴァシリーサがようやくそれだけ返す。
「憎まれ役引き受けるとか言っといて、かえってやり難くしちゃったし。どっちにしろ、明日までしか俺は使えそうにないから。そのお詫びの意味も含めてさ、受け取ってくれよ」
生まれたての赤ん坊を渡されたように、ヴァシリーサはおずおずと指輪を握りしめ、胸に押し当てた。真意を確かめようとするかのごとく、雪崇の顔をうかがう。
「私は、マーリヤ様の願いであなたを守らなければ……それが私の仕事なんです」
「いいんだって。あんたがいたから、きっと婆さんも母さんも、ロシアで辛いばかりじゃなかった。それ以上のことがあるか? 長い間、良く尽くしてくれたなって、ふたりに代わって感謝してる」
聞くうち、ヴァシリーサの鼻の頭が赤くなっていった。色の白さ故にそれが際立つ。
「だからもう、ヴァシリーサは解放されて良いはずだ。これからは自分のことも考えて、さ。俺を憎まれ役にしなくたって、あんたならもっと他にちゃんとした支えを見つけられると思うから。それで幸せになればいい。婆さんたちも絶対そう願ってるに決まってる」
長い睫毛を揺らして、ヴァシリーサが何度も瞬く。濡れた瞳が雪崇を映していた。
「新しい支え――」言葉の感触を確かめるような囁きが漏れた。
と、その彼女が貧血で倒れるように、雪崇の方へ極端に身体を傾かせた。
虚を突かれた雪崇は、声をあげることもかなわず、ただ左腕でそれを受け止める。
「私はもう、見つけたのかもしれない」
「え……って、支えになるものをか?」
彼女がこくりとうなずいた。
唐突な話の展開に少し戸惑う。
だが、日本に来てからのヴァシリーサに、雪崇の知らない出来事や出会いがあったとしてもおかしくはない。それは、むしろ祝福すべきことだった。
「だったら良かったじゃないか」
背に手を添えながら言うと、彼女の身体がぴくりと反応した。
信じられない、というような顔で雪崇を見上げ、次の瞬間、両手でドンと身体を突き放す。
「本気で言ってるんですか」責めるような声が投げられた。
「なにが」一歩うしろによろめいたあと、言い返した。「なんなんだよ、いきなり」
ヴァシリーサは呆然と首を二度振り、スイッチが切り替わったように雪崇を睨み付けた。
「やはり、私はあなたが嫌いです」
言い捨てて、彼女は身を翻した。そのまま足早に立ち去っていく。
通路の先で角を曲がったとき、誰かと鉢合わせたのか「きゃっ」という小さな悲鳴が聞こえてきた。
それに取り合うこともなく、ヴァシリーサの甲高い足音は苛立たしげに遠ざかっていく。
やがて入れ替わりに現れたのはリティーナだった。雪崇に気付き、小走りに寄ってくる。
「ね、雪崇君。ヴァシリーサさん、今度はどうしたの?」目を丸くしたまま彼女が訊ねた。
「俺にもさっぱり。怒る元気は復活したみたいだから、それはまあ、良かったんだけどさ」
「怒ってたの? でも、今見たときは笑ってたよ。なんだか嬉しそうだった」
それを聞いて雪崇は本格的に首をひねった。
「――もう、わけが分からん」