星の民カラクウェンディ
012
処置が終わったことを微笑みで示し、中年のナースは一歩後ろに下がった。
白衣を着ていない彼女は、言われなければロシア人の小太りな主婦にしか見えない。
「圧迫感はないか、と彼女が訊いています」
ロシア語によるナースの問いを、斜め後ろに控えたスーツの男が通訳する。
雪崇が〝熊男〟と密かに呼んでいる、もはや見慣れた護衛チームの一員だ。
「全然ない。ありがとうと伝えてくれ」
雪崇はナースに微笑み返し、彼女が替えてくれた真新しい包帯部分に軽く手で触れた。
バスタブから出て三十分。これでようやく、濡れたものから完全解放されたことになる。
またナースが一言しゃべり、護衛が「なにかあったら、遠慮せずに呼んでほしいと言っています」と訳してくれた。
「その時はお願いする」
「では、私どもはこれで。失礼いたします」
「ありがとう。通訳助かったよ」
事前に聞かされていた通り、護衛たちのチームには医療班が存在し、このセーフハウスにもその一部が常駐しているようだった。
しかし、全員が日本語に堪能というわけではないらしい。
熊男に聞いたところによると、日本語に堪能なスタッフは全体の約半数。比率が異様に高いのは、日本語しか使えなかった相馬万里恵の世話役出身が多いためだという。
「雪崇君、夜ご飯だよー」
ナースたちと入れ替わるように、リティーナが部屋に入ってきた。押しているのは、フィクションの舞踏会場や高級ホテルのルームサーヴィスでよく見る銀色のカートだ。
構えからしてメニューと味には大いに期待できそうだったが、生憎、胃袋の方は特別な反応を見せようとしない。
まだ吐き気が完全には収まっていない以上、無理もない話だった。
「ゴメン、リティーナ。折角だけど、今はちょっと食欲が――」
言葉の途中で、雪崇は気を変えた。「いや、やっぱもらおう。メニューは?」
「色々あるよ」リティーナが嬉しそうに言う。「お肉はシェフさんが焼いたけど、胃に優しい食べ物も欲しいだろうと思って、スープとか雑炊は私が作ったんだよ」
「そうか。ありがとう」
リティーナの故郷には、スープ料理という概念はなかったと聞く。それが今では、完璧な味噌汁すら作ってくれる。その裏には人知れない相当の努力があったのだろう。
「片手だと大変でしょ? お手伝いできそうなこと、あったらなんでも言って」
「いや、いいんだ。極力自分でやった方がいいんだよ、こういう場合」
「そう?」少し不満そうだったが、それ以上はなにも言わなかった。
「それより、さっきは悪かった。リティーナにも乱暴な口きいちゃった気がする」
「ううん、いいんだよ。雪崇君がああいうところ見せてくれて、嬉しかった」
「ん?」
「雪高くんって辛いとこ見せてくれないし、あんまり相談もしてくれないでしょ」
「まあ――、そういうのを表に出して、いい目みたことないからな。むかし、それで親父とギャクシャクしたことがあるんだ。ギクシャクって分かる?」
上目で訊くと、彼女はこくんとうなずいた。それで、雪崇は続けた。
「言われてみれば、あれ以来ちょっと苦手になったのかもな。本心話したりするの」
「でも、今度は聞かせてくれたね」
「他はともかく、ヴァシリーサには言わないでくれな。あいつ、気にすると思うし」
「誰にも言ったりしません」彼女はすぐに言い切った。「ふたりだけの秘密です」
「そっか。まあ、そんな風に言ってくれるなら、俺も安心できるよ」
とはいえ、もとよりリティーナが吹聴して回るような人間でないことは分かっていた。
その点において彼女は誰より信用できるし、わきまえた人間だ。でき過ぎている、とさえ言える。それほどの人間が、なぜ自分などについていてくれるのか――
雪崇は改めてその不思議に胸の内で首をひねった。
それに見合う対価を支払った覚えもない。
神も仏もないと思うような経験もしてきたが、それでも自分は恵まれている。
悪い人生ではなかった。素直にそう感じさせてくれる存在がリティーナだった。
もちろん、先ほどの告白には驚かされたし、女の怖さというものを再認識させられもした。だが、リティーナがああいった思想を持つに至ったことには、納得できる部分もある。
母のことを通して雪崇にも覚えのあることだが、死別を経験した人間は、命とその終わりについて考える機会が増えるものだった。
その点、リティーナは肉親の死を故郷で何度も経験している。結果として、自分もいつか死ぬ存在なのだというリアルな認識を、若くして強く持つに至ったのだろう。
だからこそ、「そのときをどう迎えるか」「誰が側にいてくれるのを望むか」……
そういった命題に、自分なりの明確な解答を用意できているのだ。
「一緒に死ぬ、か……」
雪崇はひとりつぶやきながら、その響きにまた感じ入った。
食事が終わったら呼ぶという約束のもと、メイドは既に席を外している。渋々といった様子だったが、それぞれに考える時間が必要であることを分かってくれているのだ。
気づけば、その後ずいぶんと時間が経った気もする。
だが、雪崇はまだ彼女を呼びもどせずにいた。
それどころか、まだ食事に手をつけてすらいない。
ふと時計を見て、膝に紙ナプキンを広げたまま二十分が過ぎようとしていることに驚かされた。時刻はもう八時近い。窓がないため外の明るさが分からず、この部屋では時間の感覚を掴みにくいのかもしれなかった。
決心して、雪崇はカートの上から幾つか皿をテーブルに移した。
食欲はないが、エネルギィの補給に努める。
そうして、あした戦争に挑むのだということをまず体に理解させるのだ。
ありがたいことに、二十分放置していたにも関わらず料理の味は悪くなかった。
鳥のもも肉も中心部には充分な熱が残ってたし、リティーナの作ってくれた中華風卵スープは少々冷えてたところで味は落ちない。
食べはじめると、自分でも意外なほど箸が進んだ。
もう少しカートから皿に盛ろうか。
そんな気にさえなりかけたとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「雪崇、いる?」
リティーナかという予想に反し、響いてきたのは素芹子の声だった。
「いるよ」急いで口の中の物を飲み込み、答える。
「今、ちょっといい?」
「おう」と答えると、ようやくドアが開けられた。彼女にしては、ずいぶんと配慮されたアクションだった。少なくともノックの作法は覚えたらしい。
「……っていうか、お前、まだ家に帰ってなかったのか?」顔をのぞかせた彼女に訊いた。
「今は分散するより、まとまってた方がリスクを管理しやすいでしょ」
「だからってお前、きちんと家のひとに許可はもらってんだろうな。そもそも門限何時なんだよ? 明日が日曜とはいえ、こんな時間まで小学生の娘が帰らねえのに――」
親はなにしてるんだ、と言いかけて雪崇は口をつぐんだ。
ロジオンの暴力が生んだ私生児ことを考えた。
あの男を父、孕まされた女を母に持つ子――
十歳の子に「帰りたくない」と思わせる家庭の存在は、今、リアルに想像できる。
「雪崇、あなた優しいのね」
沈黙から雪崇の思考を読んだのか、素芹子は柔らかく微笑んでいた。
「大丈夫よ。心配はさせてるでしょうけど、悲しませるようなことはしてないつもりだから。私は家族を大事にしてるし、家族にも大切にしてもらってる」
「なら、良いんだけどさ」
「それより、お客さん連れてきたのよ」
その声がかかるまで待機していたに違いない。もうひとつの人影が、戸口の向こうから入室してきた。かなりの長身であるためロシア人護衛の誰かかと思ったが、違う。
素芹子と同質の、見る者を瞠目させる艶やかな黒髪。そして、スキニィジーンズ越しに見て取れる芸術的な身体の曲線は、間違いなく女性特有のものだった。
「私の親戚で、日吉泪よ。この件、どうも私たちの手に余りはじめたと判断したから、助っ人で呼んだの」
雪崇には事前に断りを入れるつもりだったが、スレイヤーからリティーナを逃がす途中で連絡したため、やむなく事後報告になった――。素芹子は続く言葉で、なにかそういったことを説明しているようだったが、雪崇はもう、そのほとんどを夢うつつでしか聞いていなかった。
「……上のエルフだ。星の民だ。カラクウェンディだ」
ほとんどうわごとのように雪崇はつぶやく。今は、肩の上で切りそろえられた黒髪で見えないが、その裏側には木の葉のように先の尖った耳が隠されているに相違なかった。
「上の? なに、それ」
怪訝そうな顔をする素芹子に、客人が短く指摘した。
「たぶん、指輪物語ね」鈴振るように響く、透明感のある声だった。
「トールキンの? まあ、〈偉大な鍛冶〉って意味ではそうかもしれないけど」
「そうでもない」客人はごく小さく、肩をすくめるような仕草を見せた。「私の刀匠としての天賦は、日吉のなかでそう際だったものじゃないはずよ」
素芹子は肩をすくめ返し、雪崇に向き直った。
「その辺の議論はともかく、泪姐さんが一手指南してもいいって言ってくれてるから、あなたも一緒に来なさい」
「はあ?」思わず素っ頓狂な声が出る。
「ここじゃ動き回れないでしょ。だから場所を移そうって言ってるの。日吉の完成形に稽古つけてもらえるなんて、もう金輪際ないかもしれないんだから、時間を無駄にしちゃ駄目よ」
わけの分からないことを口走り、素芹子がずかずかと歩み寄ってくる。
「こんなに残して」ちらとカートに載った大量の食料を一瞥すると、彼女は眼を細めた。
「元から多かったんだよ。それに食事だ稽古だって気分になれないんだ」
「人間、それどころじゃなくてもお腹は空くし、トイレにも行きたくなるものよ。健康なのに食欲がでないってのは、精神と肉体のバランスがとれてない証拠」
素芹子は手掴み可能な料理を両手で乱獲し、そのまま一気に頬張った。
もぐもぐやりながら、雪崇の左腕を強引に取って歩きはじめる。
「おい、ちょっと待てって」
「いーふぁら。無ひんで身体動かひへれば気もはへふって」
「なに言ってんのか分からねえよ」
だが、素芹子は抗議を一切受け付けなかった。
十歳の少女とは思えぬ驚異的な膂力で、高校生男子を引っ張っていく。
「でも、まさか、姐さんが来てくれるとは思わなかった」しばらくして、咀嚼を終えた素芹子が感慨深げにつぶやいた。「最初は電話相談のつもりだったのに。ラッキーよね」
どこに向かっているのか、廊下を行く彼女の足取りには迷いがない。
やがて素芹子は、防火扉を思わせる金属製のドアの前で立ち止まった。
開けたその向こう側には、蛍光灯に照らされた下り階段が見える。
「地下があったのか。これ降りんのか? どこに行く気だよ」雪崇が問う。
「下に暴れられる部屋があるんだって」
そう言って階段をおりていく素芹子に不承不承続くと、待っていたのは思いのほか広大な地下空間だった。
手前半分はガラスの壁で仕切られた開放的な娯楽用のスペースで、遊戯室やちょっとしたフィットネスルームになっているのが分かる。うってかわって奥半分は、コンクリートと鋼鉄の扉で間切られた、ボイラー室や電力関係の部屋になっているらしかった。
「お、畳があるじゃない。あそこにしましょうか」
素芹子は言うが早いか飛んでいこうとする。雪崇は咄嗟にその手を掴んで留めた。
「おい」と、声を潜めて詰め寄る。
「お前、どういうつもりだよ。エルフの姉ちゃんなんか召喚しやがって。頭数増やしたところで、どうこうできる相手じゃねえって言ったろうがよ」
「あのひとが、どうして頭数そろえるだけの要員だと思うの?」
「敵はな、飛んできた鉄砲の弾を片手で払いのけるようなやつだぞ」
「つまり、私はスレイヤーを知らず、あなたは日吉を知らない。お互い片側のサンプルしか持ってないんだから、正しい検証なんてできっこない。でしょ? だから、公平な比較ができるように、今から日吉側のデータを開示するって言ってるの」
「時間の無駄だと思うけどな」
「論より証拠。見てみれば分かることよ」言うと、素芹子は奥に向かって声を張り上げた。「おーい、姐さん。そろそろ準備してくれる?」
避難経路の確認でもしていたのか、日吉泪はその長身が小さく見えるほど遠くまでいっていた。素芹子の呼びかけで、さして慌てた様子も見せずにもどってくる。
三人揃ったところで入った畳敷きの部屋は、一面だけの小さな柔道室といった佇まいだった。陽が当たらないせいか、全面、い草がまだ青い。
「で、なにやらせようっての?」
雪崇は不機嫌に訊いた。せっかく土足で歩き回れる施設なのに、畳にあがる以上は靴を脱がずにはいられない。抵抗する気力も萎えているため大人しく素足をさらしたが、小学生の女の子に遙か頭上から見下ろされるというのは、決して気分のいい状態ではなかった。
もっとも、素芹子は縮んだ雪崇を見ても驚くそぶりすら見せなかったが。
「そうね、どうしようか。あなた、撃たれたとこまだ治ってないしね」
「報道じゃ、全治四ヶ月の重傷らしいぞ」
「いわゆる組手のようなことをしたいんでしょう」
日吉泪が爪先で畳を軽く叩きながら声をあげた。
「だったら形はなんでもいい。調整はこっちでするから、素芹子も一緒に来なさい」
「無手よね?」と素芹子が確認を取る。
「私はね。あなたたちは好きな物を使えばいい」
彼女がちらりと一瞥した先には、確かに様々な道具を納めた棚が設えてある。
「なあ、素芹子さあ……これマジでやんの? 俺、怪我してるし、見学じゃ駄目なわけ?」
素芹子が柳眉をぴくりと反応させた。「このごに及んでなに言ってんのよ」
「だって、俺、この格好だぞ」
雪崇は素肌にバスローブ二枚重ねという、自身の姿を見下ろす。
「そんなの棚に道着やら着替えやら置いてあるんだから、それを借りれば良いことでしょ」
「いや、それだけじゃなくてさ。俺、基本的に組手は東爺としかやったことねえんだよ。まして、女相手に二対一とか――」
「雪崇」彼女の声が一オクターヴ下がる。「ふざけたこと言ってないで、殺す気でいきなさい。確かにあなたが万全の状態なら、彼女相手でも互角以上に渡り合えるとは思うけど」
「だったら……」
「でもそれは靴を脱いだ雪崇が三人いて、使い慣れた銃器で完全武装していたらの話よ」
「ああ――?」炭酸の抜けたコーラのような状態の精神にさえ、その言葉はカチンときた。
だが、素芹子は取り消す気などさらさらないらしい。
話は終わったとばかりに背を向け、雪崇の一歩前に出る。
「私のうしろに隠れてなさい」。そんな無言のアピールとすらとれる。
自分のなかで、とぐろを巻いていたなにかが、むくりと鎌首をもたげるのが分かった。
ふざけやがって。一言に還元すれば、雪崇の胸の内はそれに尽きた。
改めて相手を見る。日吉泪だとかいう年齢不詳の女は、正中線を隠すように右を前にした偏身の体勢で立っていた。特に構えのようなものは取っていないが、古流を匂わせる佇まいだ。平素なら、そのことに不気味さくらいは感じたかもしれない。
だが今は違う。
「まあ、なんでもいいや」
声にせずつぶやきながら、雪崇は一歩踏み出した。自由な左手で素芹子の肩を掴み、力任せにうしろへ押しのけつつ、その勢いを借りて加速する。全力で走った。
相手は〝身体の半分は脚〟というような、でたらめなプロポーションの女だ。
だがそれはモデルとしては美点でも、今は重心の高さとしてマイナスに働くはず。
組み付けば崩せる。雪崇は即断し、勢いを生かした高速タックルに入った。
踏切の瞬間、想像以上に自分の動きがキレていることに気づいた。
身体が軽い。この間合い、このタイミングなら獣でも躱せないだろう。
いける――。そう確信したとき、「あれ」と思った。
上昇しはじめたエレヴェータに、一瞬だけ平衡感覚を狂わされるような――
あの目眩にも似た酩酊感。通常あり得ない重力加速度に、本能が軽い混乱状態に陥る。
脳がパニック状態から脱するより早く、雪崇は左半身を畳に叩きつけられていた。
身体が受け身を取ってくれたが、芯に伝播してくる痺れのような衝撃までは殺しきれなかった。うっ、という小さなうめき声を漏らし、雪崇は目を見開く。
それからすぐ、寝坊に気づいた朝のように上半身だけ跳ね起きた。
信じられない思いで相手の姿を探すと、彼女はすでに素芹子の相手に回っていた。
だがその勝負も、ものの数合で決してしまう。
組手争いの様相を呈していたにも関わらず、出足払いでも食らったかのように素芹子の身体がいきなり斜めに浮き上がる。
離れて観察しているのに、どうしてそうなったのかすら雪崇には理解できなかった。
分かったのは、あの素芹子が簡単に投げを食らったという事実だけだ。
「マジ、かよ……」雪崇は思わずこぼす。
素芹子は投げの衝撃を身体の回転に換え、相手からある程度の間合いをとって素早く立ち上がった。少なくとも雪崇ほど、投げられたことにショックを受けはしなかったらしい。
「雪崇、なにボケっとしてんの。一対一じゃ稽古にもならないのよ。連携とりなさい」
「えっ? ああ――」ようやく頭が状況を把握しはじめる。雪崇はふらつきながら腰を上げ、相手を見やった。「なんなんだよ、どうなってんだ、これは」
「だから、そういう思考は良いんだってば。ここには身体を動かしに来たのよ」
素芹子の言うことにも一理あった。頭が悪い癖に、今日は脳を使い過ぎている。
そのせいで心身のバランスを崩しているという指摘は、的を射ていたものなのだろう。
「よし、じゃあ、とにかくいくぞ」帯を締め直す気構えで言った。「そこまで言うならもう細かいことは考えねえから、連携うんぬんはお前の方で合わせてくれ」
「面倒ごとを小学生に丸投げとは、ずいぶん男前じゃない」
素芹子がにやりとする。釣られるように雪崇も一瞬笑み、同時に走り出した。
端から観察して見切れなかったということは、もう実力に次元の差が存在すると考えて良い。つまり、こちらのあらゆる戦術が通用しない。そういうことだ。
だからもう、やることはひとつでいい。
すなわち、何度飛ばされてもひたすらぶつかり続ける。それだけだ。
雄叫びを上げながら突っ込んだ雪崇は、無意識にまたタックルを選択した。
ただ、今度はスピードを抑え、確実に相手に組み付くことを重視する。同時に迫る素芹子は、その動きを見て打撃を選択したのか、ガードを固めて相手の懐へ潜り込んでいく。
それでも、結果は先ほどとなんら変わらなかった。
女が軽やかに回転するだけで――少なくとも雪崇にはそうとしか認識できない動きで――組み付きは易々と振りほどかれた。体幹の強さが人間のものではない。
雪崇がぶざまに転される一方、掌打に蹴りを織り交ぜた素芹子のコンビネーションもあっさりとあしらわれる。
鞭のような中段蹴りを素通りし、日吉泪がするりと相手の懐に入り込んでいくのを雪崇は見た。そのときには既に、左手が無防備な素芹子の胸にトンと触れている。
あとはもう、魔法のように身体が宙を舞うだけだ。
ここまでくると、本人が自ら飛んだようにさえ見える。サッカーでいうオーヴァヘッドキックを空振りしてしまったような体勢で、素芹子は背中から落とされていた。
投げをうっている今が好機。そう思って、雪崇が間髪入れずに襲いかかっても、敵はなんら揺るがない。なにをどうされたのかすら理解させてもらえないまま、左正拳を巻き取られ地べたに潰された。しゃがんだ彼女の右膝が、蝶の標本をとめるピンさながらに、雪崇と畳とを縫い付けた。取られた左腕は脇固めの要領で極められ、肩甲骨から手首に至るまで、ぴくりともさせられない。変に力を入れれば激痛が走った。
彼女はそうして雪崇を無力化したまま、再び向かってきた素芹子を再び腕一本でさばいているらしかった。
程なく軽い転倒音がして、素芹子がまた跳ね返されたことを雪崇に教えた。
「洒落になんないわね。差が更に広がってる」
「素芹子、あなたは頭で考え過ぎね。それが居付きに繋がって硬化してる。――それから」
と、今度は雪崇に声が降ってきた。
「あなたは、それ以前。枷を外して足下に力がもどった時こそ膝を抜いて、もっと無拍子を心がけた方が良い。手綱を力任せに引いて、鞭を入れるだけが制御じゃないことに気づくこと」
「む、無心でやってたつもりなんですけど……」
加減されているとはいえ、肺が圧迫気味であるため声が潰れる。
「思考の放棄と、無心とは違う。あなたは身体が動くままに任せると口では言いつつ、手綱を握る手からは力が抜けていない」
不意に、全身を固めていた戒めが唐突に解かれた。
雪崇は自由になった左腕の具合を確かめながら、のろのろと立ち上がる。
触れてみると、頬には畳のあとがくっきりと刻まれていた。
それからも短い休憩を挟みながら、形式にとらわれない組手は続いた。途中、部屋に置いてきた食料をリティーナに届けてもらい、雪崇は夢中でそのすべてを平らげた。
古流の本領を完全解放し、文字通り殺す気でかかっても決して壊れる心配のない人間。
これは、組手の相手として本当に理想的だった。すべて受け止めてくれる一方で、こちらを叩くときは最小限のダメージにとどめてくれるのである。おかげで、雪崇は赤ん坊のように相手を信じきり、すべてを預けることができた。持てるものを完全に出し切れた。
幾度も投げられるうち、あらゆるしがらみから解放されていくような気がしたのは、そのせいだろう。最後の方は、相手が持つ遙か雲上の能力を愉しんでいたとすら言える。
噴き出る汗が心身の膿を洗い流し、芯から浄化してくれたようにも感じられた。
間もなく日付が変わろうかという頃、雪崇は素芹子と並び畳の上で大の字になっていた。
もはや指一本動かすこともできないが、かつて得たことのないほどの爽快感に満たされてもいる。息を弾ませながら、自然と頬を緩ませている自分が不思議だった。
「素芹子……生きてっか?」雪崇は、天井を見上げたまま訊いた。
「百回は殺されたかな」そう答え、ワンテンポ置いて問いが返される。「そっちは?」
「死んでる。けど、まあ、気分は悪くないよ。お前の言うとおり、なんかすっきりした」
「それは良かった」
「まさか、あんな人外がいるなんてな」
こんな話も、当の本人が席を外しているからこそできることだ。
組手に区切りをつけた日吉泪は、「近所をちょっと走っていい汗かいた」程度の軽い足取りで、今はシャワーを浴びに行っている。雪崇もできればひとっ風呂浴びたいところだったが、現実にはそれ以前、まず立ち上がれるだけの体力回復が必要だった。
「しかし、どうすりゃ、あんなデタラメな強さが身につくんだろうな」
「そういう意味では、選ばれたひとなんでしょうね」
独り言のつもりだったが、素芹子が応じてくる。
「今日の姐さんは、指導に徹して打撃も危険技も抜いてくれたから助かった。本格的に相手してもらったら、本気で心折られるのよ。私ですら一度、挫折を経験させられたことがあるくらいなんだから」
「俺からすれば、お前も充分、選ばれた人間だと思うけどな」
雪崇はつぶやいたあと、無意識に「それでも……」という言葉をつぎかけた。
確かに日吉の女というのは、誰も彼もが人間離れしている。しかし、それでも〈ガリオン殺し〉とは比較にならない。双方を肌で感じた上での、率直な感想だった。
「――やっぱ厳しいよ、素芹子」
「うん?」
「お前とあの姐さんは、明日ついてこない方がいい」
「なぜ?」という言葉に引かれてそちらに眼をやると、彼女はいつのまにか上体を起こした格好で雪崇を見つめていた。自然、視線がぶつかり合う。
「あの姐御前なら、スレイヤーでも倒せるだろうよ。正面からやり合えればね。けど、やつはそれ以前なんだ。身体が動かねえんだよ。まず、勝負自体をさせてもらえねえんだ」
「まあ、泪姐さんも、基本的には相手に触れないと倒せないわけだからね。その点、あなたがいうスレイヤーってのは、触れもせずに大男を何人もまとめて蹴散らせるんだっけ?」
「両手をポケットに突っ込んだまま、一歩も動かずにな」
「おまけに他人の体に手を突っ込める、と。事実なら、色んな応用が利きそうな魔法よね」
「そう。それは俺も思ったよ。フックを防御したら、そのガードの腕に敵の拳がずぶずふ埋まっていく的なシーンを想像してみろ。俺なら、やつとだけは絶対に打撃戦をやりたくないね」
「かすりでもしたら即アウトか。条件としては、刃に毒塗った得物持ちと同じね」
素芹子は口をへの字にして肩をすくめる。
「でもそんなの、古流ではさして珍しくもない仮想敵じゃない。あなた、相手に恐怖するあまり自分の中でそれを勝手に大きくしてしまってない?」
「なんだよ。びびり過ぎって言いたいのか?」
「暗がりに怯えている時は、小さな物音や自分の影にさえ驚いて飛び上がるでしょ。今の雪崇は、それに近い状態に見える」
考えてみたが、結局はため息をつくことしかできなかった。
「否定は、まあ――できないんだろうな」
他人から指摘をこうまで素直に受け止められるのも、素芹子たちが施してくれた運動療法と無関係ではないのだろう。
心地よい疲労感が、心身をリラックスさせてくれているのが分かる。
「あのね、雪崇。私自身、姐さんが絶対に通用するとまでは言わない。でも、私は事前にナインライヴスの映像資料を見た上で、彼女を呼んだのよ」
「じゃあ、なにか?」雪崇は眉間にしわを寄せた。「なにがしかのバケモノが出てくることも考えた上で、その対抗手段としてあのひとにお出まし願ったってのか」
「まさか、本当にここまで変なのが出てくるとは思ってなかったけど。まあ、一応はね」
だとすれば、日吉泪には人外相手にも通用するなにかを持っていることになる。
少なくとも、素芹子はそう信じるに値する情報を握っているのだろう。
そんな雪崇の思考を読んだかのように、素芹子が説明口調で語りはじめた。
「日吉ってのはね、古宇多の流れを汲む刀匠の家系なの。岩手県白丘市にある姐さんの実家は、むかし派閥争いで負けたひとたちが逃げ落ちた、いわば分家筋なんだけどね」
「刀鍛冶に派閥争い? 音楽性の相違でバンドが分裂したみたいな感じか」
「そうかもね。で、その負けた姐さんの派閥ってのが、ちょっと頭のネジが一本はずれているというか……ホラ、才人と狂人は紙一重っていうでしょ? 能力的には本家筋より随分と優れてたみたいだけど、世論にはなかなか認知されない思考回路の人たちだったそうなの」
それがすなわち、〝刀剣とはそれを扱う者とのパッケージで一個と見なす〟、〝剣と剣士を合わせてひとつの武器と考える〟――という理屈であったらしい。
岩手に落ち延びた分家は、以降この理想に基づき、優れた日本刀を鍛えると同時に、そのポテンシャルを完全に引き出せる〝使い手〟の育成にも力を入れはじめたのだという。
それから九世紀に及ぶ時のなかで、剣の時代は終息。
皮肉にも正当路線を歩んでいた宗家は、衰亡の道を辿ることとなった。
一方で、その徹底的な合理的思考を疎まれた分家筋は、いみじくも同じ末路を免れた。
時代の変遷とともに自らのあり方を柔軟に変えることで、現代にまでその技を残すに至ったのだ。
「日吉にとって、刀の製造は取っかかりに過ぎなかった。だから、時によっては日本刀にすらこだわらなかったのよ。歴史を俯瞰すれば無手を追求した時期も長いし、銃器も視野に入れた。だからもう、日本刀という言葉は、日吉一門の属性を示すものでしかなくなっている」
代々酒屋やってた家の多くが、時代と共にコンビニに看板を変えてきた。
それと似たようなものなのだろう。雪崇はそう納得し、言った。
「まあ、歴史があるのは分かったよ。で、結局のところお前はなにを言いてえんだ?」
「そうね」
一瞬思案するような間を置き、素芹子は言った。「じゃあ、本題。雪崇、日本刀には古来より破邪顕正の力を宿す――っていう信仰があんだけど、このことは知ってる?」
「それっぽい話は聞いたことあるような気もするけど」
「現実に、一種の魔除けとして珍重されてた時期もあるんだけどね。歴史が長いだけあって日吉にも色んな文献が残ってるんだけど、なかにはそれを裏付けるような内容の物も散見されるの。でもそれは、単に刀にそういう効力があるっていうだけの話じゃなくて――」
そこまで聞けば、雪崇にもなんとなく話の展開に予想がつく。
「属性が日本刀なだけに、日吉の技を修めた人間にも同等の御利益があるってか」
「――まあ、そんな感じのことを謳った書があるのは事実ね」
「で、もしかしたら姐御前には、ガリオン殺しの不思議能力が通じないかもしれない、と」
「完全無効化まではいかないかもしれないけど。でも、耐性くらいは期待しちゃうじゃない」
「お前は……」雪崇は呆れながら首を振る。「いやに自信たっぷりだから、どんな凄い切り札持ってるのかと思えば。そりゃ百パーセント希望的観測にのっとった、トンデモ幸せ理論じゃねえか。長々と自分ちの歴史語りまでしといて、結局それかよ」
「なによ。触りもしないで大男吹っ飛ばしたとか、飛んできた弾丸を手で払い落としたとか、トンデモない話を先に持ち出してきたのは雪崇じゃない」
「俺のは事実だもんよ」すっくと上体を起こして言い返す。「お前のは違うだろ。そっちは、そうだったらいいなー的な、さしたる根拠もねえ、ただの願望の垂れ流しじゃねえか」
「今の今まで、『もう夢も希望もない』って顔してたあなたに、一筋の光明を授けてあげようと思っただけじゃない。そもそも、手も足も出なかったのは雪崇だけであって、私や泪姐さんにその力が通用するかはまだ実証されてないのよ」
「無理だって。無理、無理」雪崇は左手をヒラつかせつつ、言下のもとに言い切った。「日吉だろうが、村正だろうが、あいつの相手は無理。全然、話にもならねえよ」
「なんでそう言い切れるのよ」
「体感した人間だからこそ言えることもあんの。日吉がどんだけ凄いって言っても、所詮は刀鍛冶なんだろ。悪いことは言わねえから、明日は大人しく鉄でも叩いてろ。死ぬぞ」
「ほう、日吉に喧嘩を売ろうっていうの?」素芹子の双眸が剣呑に細められる。「なかなか命知らずの冒険野郎じゃない。いいでしょう、相手してやるわ。表出なさい」
「望むところだ。お前とは一度、白黒はっきりさせておかなきゃならんと思ってたんだ」
「で、決着はどうやってつける? 殴り合い? それとも〈ラブ&チェリー〉のオサレ魔女カード対決?」
「ふたりとも元気そうね」
顔をつきあわせてにらみ合っているところへ、涼やかなその声は聞こえてきた。
素芹子とふたりしてそちらを見やると、いつの間に戻ったのか、後光の差すような日吉泪の立ち姿がある。場の空気が一瞬で塗り変わった。
「シャワーを浴びてきたばかりだけど、望むならさっきの続き、つきあっても良いのよ」
「いえ、その――」
もちろん、そんな体力は微塵も残っていなかった。雪崇は全力で言い訳を考える。
「あの、素芹子ちゃんとはオサレカードの仲間だって分かったんで、今度交換しようねってお話してただけなんです。ええ」
「そう」
納得したのか、それともすべてを知った上で追求を勘弁してくれたのか、御大はそれ以上なにも言わなかった。かわりに片手で持っていた二本のペットボトルを雪崇、素芹子それぞれに投げ渡してくる。
受け取ってみると、よく冷えた五百ミリリットルのスポーツ飲料だった。
「じゃあ、身体は動かさなくていい。そのかわり、少し頭の方を使ってもらえる?」
「と、言いますと」
「私にはまだ渡されてない情報がかなりある」
彼女は雪崇たちから適当な距離を取って、畳の上に腰を落とした。どの瞬間を切り出しても、姿勢が異様に良い。所作・動作に体重を感じさせない。
「明日に備えて整理しておきたいの。ふたりとも、少し協力して頂戴」




