ウタン・ナ・ロォブ
011
噂に聞いていたヴァシリーサたちの隠れ家は、隣県に構えられていた。
瑞城市から車を飛ばして小一時間。
山林の一角を切り開いたキャンプ場といった印象が強い所で、周囲は密生した雑木の壁に固められていた。一方で幹線道路は意外に近く、北東の方向に目を向ければ、木々の合間を縫って所々に薄鈍色のガードレールを見ることができる。
「では、そちらに連絡がありましたら、息子の方にもかけるように伝えていただけますか?――ええ、そうです。よろしくお願いします。お忙しいところありがとうございました」
無意味に頭を下げ、雪崇は通話を終えた。
座っていたソファに身体を預け、ひとつ息をつく。
電話の相手は父の同僚だった。「留守中、なにかあったらこいつに」と、連絡先を教えられていた、いわゆる同期の仲間というやつらしい。
意外なことにその同期の彼は、全国ニュースになっているはずの銃撃事件や、相馬家の爆破騒動をまだ知らない様子だった。
開発という機密に近いセクションにいるため、彼や崇雅は社内の寮で生活し、外部との接触を極力制限されているとも聞く。
そんな閉鎖的な環境も幾らかは影響しているのだろう。
「雪崇君、どうだった?」
隣に控えていたリティーナが、待ちきれないといった様子で身を乗り出してきた。
「うん。どうも、親父のやつ、リティーナの実家まで挨拶に行ってるみたいだ」
携帯をばらし、カードとバッテリを抜きながら答える。
「今日中に連絡とるのは、ちょっと無理そうだな。早くても明日だろ」
「そんな……雪崇君が大変なことになってるのに。たくさん、相談したいことあるのに」
「タイムリミットは明日の午後だ。今すぐ事情を説明したとして、間に合うかは微妙なところだよ。それより、ちょっとのど乾いた。なにか冷たい物、持ってきてくれないかな?」
「うん。それは良いけど、ひとりで大丈夫?」
「もちろん。――アイスコーヒーとかがいいな。時間かかってもいいから」
渋々といった様子でうなずき、リティーナは厨房に向かっていった。
ほとんど入れ替わりに近いタイミングでドアが開き、男性護衛のひとりが入ってくる。
雪崇に歩み寄った彼は、小さなアイスブルーの瞳をちらりとテーブルに走らせた。
「もう、お電話はよろしいのですか」
外されたバッテリを見てそう判断したに違いない。男は流暢な日本語で訊ねてくる。
「ああ、ありがとう」
「信頼できる相手とはいえ、あまりこの場所についてはお話にならない方が良いでしょう」
「そうだな。ケンシ以外には話すつもりないけど、気をつけるよ」
あらかじめ会話の内容はチェックさせてもらう、と断られていた。
内容が筒抜けであることを考えると、ハッタリではなかったらしい。
護衛のいうように、ケンシにはいの一番に電話をし、潜伏先の大まかな位置を含めて、ここに至った経緯について既に説明してあった。
なにより、共通の友人の死に関しては一度話をしておかないわけにはいかなかった。
ケンシは雪崇に過失や責任はないとした上で、黒巣あきらの通夜が今日、これから行われることを教えてくれた。
そしてその席上、家族にうまく取りなしておくとも言ってくれた。
今、雪崇が顔を出せば、遺族は冷静でいられないかもしれない。まずは双方の事情を知る俺が渡りをつける。その上で、感情的になりすぎず話ができる状態であるかを見極める。
お前が直接頭下げに行くのは、それからでもいいのではないか。
――それが彼の考えだった。
雪崇はありがたくその心遣いを受け入れ、ケンシに全てを委ねた。通夜に行けば、今度はそこが襲撃の舞台になるかもしれない。どの道、今は動きようがないのだ。
「――それより、ヴァシリーサはどうなった?」ソファに座ったまま、雪崇は訊いた。
「検査は終了しました。先ほどここに到着しましたが、今は自室で休ませております」
護衛は電話を回収しながら事務的に答えた。目も合わせようとしなかった。
このセーフハウスにも診療所(病床十九以下)クラスの医療設備があるが、ヴァシリーサの場合は精密検査が必要だった。そのため、あれから一度、別施設に送られている。
彼女の頭部に植えつけられた〝死の種〟の除去は、言うまでもなく最優先事項だ。
「意識はもどってないのか?」
「いえ。もうしっかりしています。休養を取っているのは我々の指示によるものです」
「で、検査結果は? あの埋め物はとれたのか?」
ボディガードは表情をまったく変えず、直立不動の構えで一瞬沈黙した。
「――外科的に取り除くことは不可能だと判明しました」
X線・超音波・磁気共鳴などで頭部をスキャンしたところ、額の種からは直径がミクロンサイズの根が何万本と伸びていたという。それらは脳に達し、全体に血管のごとく絡みついていた。しかも半ば融合したような状態だったらしい。
「専門家は、脳を傷つけずに引き剥がすことはできないと結論したそうです」
「それは、ヴァシリーサを自力で助ける手段はなくなったってことか」
「そうです」
淡々とした問答のなかで、雪崇は無言でその現実を受け入れた。
「で、本人の様子は?」
「外見上は落ち着いているように見えます」護衛は相変わらず、「休め」を命じられた軍人のような姿勢で、雪崇の傍らに控えている。
「痛みとか、そういうのは?」
「本人はないと言っています。検査の上でも、ホルモンの分泌バランスや脳波に特別な乱れは見つかりませんでした。苦痛がないという話は信じて良いのでしょう」
「そっか……分かった。他に、なにか俺が聞いとくべきことはあるか?」
「一件。爆発炎上した、ご自宅のことですが――」と、男は報告をはじめた。
それによると、彼らは貸し主と接触して事情を説明し、補修についての確認を行ってくれたのだという。
警察も検証を終えて許可を出しているため、明日から着工する段取りらしい。
費用に関して問うと、保険適用範囲で持ち主が、残りはオレッド・エレメントが負担するということでまとまった、と返された。これは見積が出た時点で一括前納済みだという。
「じゃあ、あの家、元通りになってまた住めるのか……」
自分でもどういう心理の反映なのだか分からない。筋肉が勝手に動き、雪崇の口元に乾いた笑みを形作った。「まあ、リティーナや親父には帰る場所が必要だしな。色々と手回してくれたみたいでありがとう。正直、それどころじゃないから助かったよ」
「いえ、我々が仕事をまっとうしていれば、出さずに済んだはずの損害ですので」
「なんか、ヴァシリーサも前にそんなこと言ってたな」それで急に、彼女がどうしているか気になった。「やっぱ、今はまだ会えるような状態じゃないんだよな?」
「ヴァシリーサですか? 申し訳ありませんが、しばらくは独りにさせてやってください」
「まあ、それが良いんだろうね」首肯しつつ、雪崇は立ち上がった。「じゃあ、俺もその路線でいくことにするよ。しばらく、これからどうするかひとりで考えたい。割り当ててもらった部屋にいるから、他の人間にもそう伝えといてもらえる?」
「承知しました。夕食はどうされますか」
「リティーナに運ばせてくれ。気分が変わらない限り、自室でとる」
今はとても胃袋に物を入れられるような気分じゃないが――。
胸のなかでそう付け加えて、雪崇は居間を出た。
俺は死ぬんだろうな、明日。
ほのかに木の香りが漂う板張りの廊下を歩きながら、ぼんやりそう思った。
病院で種を除去できないか? という淡い期待は、やはり泡と消えた。
ヴァシリーサを生かすには、もう雪崇が直接スレイヤーにかけ合うほかない。
それでうまくいけば、彼女は助かるかもしれない。
だが、どう転んでも自分の生命までは見逃されないだろう。そこまでは無理なのだろう。
やっぱ、詰みだよな――。他人ごとのように、雪崇はそう認めた。
他人ごとのよう思ったくせ、気づけば足は止まっていた。
すぐあと、雪崇は身体を反転させて壁に背を預けた。
左手で口元を押さえ、込み上げてくるものを必死に飲み込んだ。
それでも舌の上に強い酸味と苦味をもった何かが広がっていく。
鼻の奥が、水を吸い込んでしまった時のようにツンと刺激された。
死ぬのかよ。死ななきゃいけないのか、本当に――
ぐるぐるとそんな思いばかりが頭の中を回り続けた。
死ぬ。まだ十何年も生きてねえのに。あんな風に……苦しみながら、血だるまになって。
なんで?
ふらつきながら部屋に辿り着き、口元を塞いだままバスルームに直行した。
決壊してなにもかもをぶちまけてしまう前に、服を着たままバスタブをまたいだ。
コックを全開までひねって、頭から湯を浴びる。身体の芯に居座る怖気と、そこから生まれてくる震えをどうにかしたかった。ずぶ濡れでめちゃくちゃになっていれば、自分のなかからどんなものが噴き出しても、なんとかごまかせるような気がした。
だが、水音でかき消されるかもしれないと、噛み締めていた奥歯を少しだけ緩めたのは失敗だった。途端に喉奥から呻きとも悲鳴ともつかない声が溢れ出し、止まらなくなる。
一度そうなると、もう手の施しようがなかった。色々なものの限界が一気に訪れた。
溜め込んでいた感情が怒濤のごとく噴出する。雪崇はバスタブのなかでうずくまり、吠え、自由な左手で底を幾度も殴りつけた。狂ったように拳をぶつけ、喚き散らした。
「なんで俺なんだよ。なんでいつもいつも俺ばっかなんだよッ――」
声を裏返らせて叫び、また殴打し……
そんな繰り返しの中で、やがて欠片だけ残った理性がふと気づいた。
要するに、相馬雪崇という人間は、少年漫画の主人公のようなタイプではなかったということなのだ。
本当はずっと前から、どこかで分かっていたことだった。
恐らく明日、自分はあの小男からなぶりしに殺されるだろう。
爪を一枚一枚剥がされ、指を一本ずつ逆向きに折られていくような拷問が待っている。
そんな地獄の中で、相馬雪崇というのは最後まで意思をしっかりと保ち続けていられる人間だろうか? 苦痛から逃れるため、信条や家族――果てはリティーナすら放り投げ、売り渡そうとするのではないか。
確信を持てなかった。
自分は母や祖母の犠牲で生かされた。友達を身代わりにした。次はお前が同じことをする番だと言われているだけなのに、こんなにも全身が拒絶反応を示す。
そのことが、ただひたすらに悔しかった。
大切なものを手に入れたはずなのに、それに迷わず生命を張れずにいる己が――
彼女を命より大事だと証明できない自分が惨めだった。
「雪崇君……?」
不意に、リティーナの声が遠くに聞こえた。
「――ッ、雪崇君!?」
ほどなく窓ガラスが割られるような音がして、すぐにまた彼女の声がした。
今度はずいぶんと近く、しかも切迫したような口調だった。
ほとんど間を置かず、影が雪崇の頭上に被さってきた。
彼女の細い手が伸ばされ、思いのほか強い膂力をもって雪崇の身体を起こす。
「雪崇君、どうしたの雪崇君」
幻聴の次は幻覚か。
霞がかった頭でそんなことを思い、雪崇は現れたリティーナをぼんやりと眺めた。
蛇口をひねる音がして、降り続いていたシャワーが止まった。一度、無言で離れたリティーナがすぐにもどり、何枚ものバスタオルやらバスローブやらを雪崇に浴びせかけた。
「リティーナか?」
タオルでされるがままに頭を拭かれながら、雪崇は訊いた。
「そうだよ。雪崇君、なんでこんなこと……」最後の方は涙声だった。
「悪いけど、ひとりにしてくれないか。ひとりになりたいんだ」
「そんなことできません」断固とした声が告げる。
それから彼女は雪崇を強引に立ち上がらせ、バスタブから引っ張り出した。
脱がすことの可能な衣類を全部剥ぎとり、何枚ものタオルで雪崇の身体中を拭いていった。最後にバスローブを二枚重ねて羽織らせると、雪崇を力いっぱい両腕で締めつけた。
「ごめんね。気づかなくて……」
「気づく? なにを」雪崇は喉を使わずに小さく言った。
不思議と、先程までの激情は霧散してしまっていた。あの勢いはなんであったのかと思うほど跡形もない。憑き物が落ちたように、ただ気持ちは静かに落ち着いていた。
やがて、「お爺さんの裏山でなにがあったのか、ボディガードたちのひとたちに聞いたよ」と、彼女そうが言った。「ごめんなさい。私、離れたくなかったんだけど、素芹子さん力がものすごくて。私がいたら足手まといだって言われて、それで――」
リティーナは身体を離し、かわりに両手で挟みこむようにやさしく雪崇の頬に触れた。
「どうしてあのひとたちは雪崇君にばっかり酷いこと言ったり、したりするんだろう。雪崇君はなにもしてないし、もういっぱい傷ついてるのに」
触れられているためあまり動かなかったが、雪崇はゆっくりかぶりを振った。
「俺だけじゃない」
「えっ?」
「ほんとは分かってたんだ。別に俺だけってわけじゃない」
雪崇は少し間を置くと、ただ口をついて出るに任せて言葉を重ねていった。
「俺くらいの目にあってるやつなんてその辺にゴロゴロいるんだ、ほんとは。親を亡くした子どもとか、理由もなく殺される人間とか」
いや、わざわざ余所に目を向ける必要すらない。
雪崇が辛い思いをしているときは身近に必ず、もっと深い心痛に耐えている誰かがいた。
はじめてその事実を知ったのは小学生の時だった。
母親をオレッドに奪われて間もない当時の雪崇は、その絶望を怒りに変え、やがて父親へぶつけるようになっていた。家族が奪われたのに、ひと月ふた月と時が流れても一向に動こうという気配を見せない。そんな父に苛立ちを隠せずにいた。
なんでロシアに乗り込まねえの。いつになったらお母さんを助けに行くの。
ある日、雪崇は詰めより、そして崇雅は誤魔化すことなくその問いに答えた。
――お母さんを助けにいくつくもりはない、と。
幼いながらに、その言葉は衝撃だった。
なぜ助けにいかないのか。彼女が大切ではないのか。家族を見捨てるのか。
途中からは、泣きながら怒鳴り散らす感じになっていったのを覚えている。
卑怯者だと、弱虫だと、わざと傷つける言葉を選んで父親を、崇雅をなじった。
さらに頭にきたのは、父がそんな息子にただ「ごめんね」と繰り返すばかりであったことだ。
小さな雪崇が欲しかったのはそんな言葉などではなかった。
ただ、家族を取り戻したかったのだ。
そんな願いとは裏腹に、崇雅は自らの姿勢を最後まで変えることなく、相馬家の親子関係は以後、目に見えてぎくしゃくしだした。
この、ある種、冷戦時代ともいうべき日々が半年ほど続いたころだったか。
あるとき、不意に雪崇は父の真意に気づいた。
本当に、なんの前触れもなく悟ったのだった。
すなわち、父は〝行かない〟のではなく、〝行けない〟のではないか?
自分の立場を冷静に分析してみれば、それは小学生でも導き出せる結論だった。
俺の命は婆さんと母さんがロシアに留まることで保証されている。父さんがオレッドに逆らわない間だけ、見逃されている。みんな、俺を守るために自分を犠牲にしている――。
もし俺がいなかったら? その問いに行き着けば、もう答えはすぐそこだった。
崇雅はすぐにでもロシアに飛んでいくだろう。彼は腰抜けではない。
耐える戦い、戦わない戦いをずっと続けていたのだ。我が子のために。
俺はそんな男を「臆病者」と、「弱虫だ」と罵った。自分が世界一辛いつもりだった。
「――雪崇君?」
急に黙り込んだのを怪訝に思ったのだろう。
心配そうな声でリティーナが主人の名を呼ぶ。
雪崇はそれに答えるのでもなく、ただ口をついて出るままに言葉を紡いでいった。
「あのときの親父もそうだった……。守ってる人間から白い目で見られて。罵倒までされて。それでも悪いのは自分だからって謝ってた。いっつもそうなんだ。本当に大変なのは俺じゃなくて……たぶん……きっと、今の場合、それはヴァシリーサなんだと思う」
「そうだね。ヴァシリーサさんもきっと、辛いと思う」
リティーナが覗き込むようにして雪崇と正面から視線を合わせた。
「でもまずは、雪崇君の本当の気持ちを整理して、他のひとと比べるのはそれからでも良いとも思うの。私は今、雪崇君の気持ちが知りたいの。――ね、だから教えて? ヴァシリーサさんの気持ちは抜きにして、雪崇君自身はどうしたいの」
今までぐだぐだと考え続けてきたことだ。
プライドを除外すれば、答えるのは簡単だった。
「……ヴァシリーサを、死なせたくない」
「それだけ?」
「俺自身も殺されたくない」
「うん」
「でも、それは無理だ。運が良くても俺たちは片方しか生き残れない。なのに、俺は選ばなきゃいけなくて。その選択の責任をすべて負わされる。どっちを選んでも後悔するのに」
「そう。雪崇君はそれで悩んだんだね」
彼女は再び雪崇の首に両腕を巻きつけた。
赤ん坊のように柔らかい彼女の髪が、頬に触れて雪崇の感覚をかすかにくすぐった。
「でもね、私は雪崇君がどうするのか、知ってるよ」
言われて、雪崇は離れていった彼女の相貌をぼんやりと見つめた。
目の前のメイドが、なにを告げたのかさっぱり理解できなかった。
「知ってる……?」
「そう。リティーナはお見通しです」
彼女は断言すると、雪崇の手を引いて歩き出した。そのまま居間に入る。
「座って」と誘われ、雪崇はL字型の三人がけソファに腰を落とした。
リティーナはその真正面に位置どった。膝立ちで目線の高さを合わせ、雪崇と向き合う。
「ね、雪崇君。私がね、雪崇君のどこを好きになったか知ってる?」
脈絡の感じられない問いに、雪崇はほとんどなにも考えず首を左右に振った。
「うんとね、雪崇君は、同じことを経験しても他の人よりたくさん感じて、そのぶん悩んだり考えたりするの。感受性が強いの。それは、やさしいってことだと、私は思うの」
雪崇はただ目をしばたいた。世辞や社交辞令にせよ、はじめて指摘されることだった。
「雪崇君は自分をそういう風に思ったことはないの? 自覚はない?」
「……確かに、俺は色々考えるタイプかもしれない。実際、考えるよ」
雪崇はようやくそう答えた。
「現に今も、逃げていい理由とか諦めていい理由とか、そんなことばっかずっと考えてた」
「自分の身を一番に考えることは、誰にでもあることだよ」
「いや。きっと、母さんやマリア婆さんはこんなこと考えなかった。親父だって」
「そうやってすごい人達と自分を比べて、それで雪崇君は、自分のことを嫌いだって思うようになっちゃったんだね」
そうなんでしょ? と、リティーナは少し首を傾けて雪崇の目を覗き込んでくる。
「でも、そんな風に思うことないんだよ。あのね、怖さを感じないことが勇気なんじゃなくて、怖がりなひとが立ち向かうことが、ほんとの勇気なの。私はそう思ってるの。
それでね、雪崇君はそういう勇気があるひとなんだよ。他のひとより深く考えちゃうし、悩んじゃうから動き出すまで時間がかかるだけ。でも、どんな時でも大変なのは自分だけじゃないって言えるの。自分の苦しさなんてまだまだだって。そして最後は、困ってるひとのためにがんばるの。それが雪崇君の魂で、私はそれを好きになったのよ」
「違うんだ、リティーナ」
有頂天になっていいはずの言葉に対し、雪崇は自分でも驚くほど冷静に返した。
自分のことを評されているようには、まるで聞こえなかったからだった。
「俺はそんなんじゃない。だって、自分が正しいと思ったことを実行できないんだ。怖いんだよ。殺される可能性を考えたら、到底だめそうで……吐き気で動けなくなる」
〝義を見てせざるは勇無きなり〟。そのものの体現だ。
「分かっていてやれないのは、勇気がないってことだよ、リティーナ。それが俺の魂だ」
「ううん」彼女は微笑み、だが断固として首を振った。「今は悩んでるだけ。でもあなたは、怖くたってちゃんと自分が正しいと思ったことをして、それを貫くことを選びます。最後には絶対。雪崇君がいつも言ってるハードボイルドも、そういうことなんでしょう?」
「違う。あんなの、そんなに大層なもんじゃない」
とっさに言ったが、うまく説明の言葉が出てこない。
なんと表現すべきか――あれはただ、コンプレックスの裏返しのようなものなのだった。
「俺みたいに、他になんの取り柄もないやつが行き着く先なんだ。もしどっかに格好つけられるところがあるとしたら、それってもう、生き方くらいしかないんじゃないかって……だから、ちょっとこだわってみようって、ただその程度の話なんだよ」
結局、弱さを自覚する者が自分を鎧うためにでっちあげたものに過ぎない。
拠り所がないと一歩も進めないような、そんな足元の不確かな人間の、いわば歩行器にも等しいものなのだ。
なければ不安で歩けないからこその補助であり、杖。
しかしそれは、本当に強い人間には必要がないものなのである。
「リティーナは――リティーナは、不安じゃないのか?」
ふとそのことに気づいて、雪崇は顔を上げた。あまりに泰然としているため忘れかけていたが、彼女の確信とは雪崇を失うであろう明日の容認に繋がる。
もちろん、雪崇が消えたところで崇雅が健在である以上、リティーナの生活基盤は揺るがない。帰る場所も仕事も保証される。だが、ちょっとした発熱ですら心配して泣き出すやさしい彼女が、家族にも等しい人間の死をそう簡単に受け入れられるとは思えなかった。
「立ち向かったら、俺はたぶん殺される。リティーナはそうなることが怖くないのか」
「全然不安がないってわけじゃないけど……でも、思ったほど怖くはないよ」
実感が沸かないためか。雪崇はすぐにそう思った。
「私ね、好きなひとと一緒に死ぬのが夢――って言ったら雪崇君、びっくりするかもしれないけど、そうなったらいいなってずっと思ってたの」
「え……」
彼女の口から、あり得ない言葉が飛び出たような気がした。
「あっ、別に破滅願望とか、そういうのじゃないんだよ? でも、いつか人生が終わるなら、その時を好きなひとと一緒に迎えたいって。遺される辛さは弟たちの時に知ったから。自分ももうたくさんだし、好きなひとにそれを押し付けることもできないって。雪崇君はそう思ったことない?」
答えようにも、問いそのものの理解を脳が無意識に拒んでいるような感覚だった。
空転して思考がまとまらない。
目を白黒させているうちに、彼女がまた言った。
「私、それを叶えようと思って、雪崇君について来たんだよ。もちろん、ウタンナロォブもあるし、そのためだけでも、ずっとご奉仕するのは当たり前のことなんだけど」
ウタン・ナ・ロォブ。
それはすぐに分かった。彼女の故郷で〝一生返せない恩義〟を意味する言葉である。フィリピンの子どもが親を楽させるため働きに出る、その根拠ともなっている民族的思想だ。
「雪崇君は、私のこと天使みたいな善意の塊って思ってくれてるみたいだけど」
リティーナはくすぐったがるような笑みを浮かべて、雪崇を見つめた。
「でも、本当はそんなことないんだよ。打算的なことは誰でも考えるものだって、さっき言ったでしょ? それ、私のことなの。そうじゃなかったら日本についてくる時、雪崇君に条件なんて出さなかったよ」
確かに、養子縁組の話に際し、ひとつだけ彼女は条件を出していた。
それは「費用対効果」および「能力の低下」以外の理由で、解雇しないこと。
つまり、メイドとして及第点以上のパフォーマンスを発揮し続ける限り、相馬家はいかなる理由をもってもリティーナをクビにすることはできない。
彼女の基本能力を考えれば、それは事実上、本人から辞めると言い出さない限り契約の解除はありえないということだった。
「あの条件、なんのために出したのか、雪崇君はたぶん本当のこと分かってないと思う」
「なんのためって……」
「あのね。私、雪崇君が他の女をお嫁さんにしても別にいいの。いいと思ってるの」
「は――?」
「でも、私はあの条件を使って、雪崇君が誰とどこで住もうと、ずっとメイドとして側にいる。一番雪崇君に近いのは私で、一番雪崇君のこと知ってるのも私。そして死ぬ時に一緒なのも、奥さんじゃなくてリティーナなんだよ。お嫁さんは離婚しちゃえばもう他人になるけど、あの時の約束がある限り、雪崇君は私から離れられない。逃げたりはできないの」
呆然としながら聞いていた。ソファに腰掛けていなければ、思わず後ずさりしていたかもしれない。目の前のリティーナの姿をした少女が、なにか別の存在のように思えた。
「そんなこと考えてる怖いメイドなんだよ、私」彼女がにっこりと笑う。「でも、そんなこと考えてるメイドだから、覚悟もすぐに決められる」
「覚悟……ってなんの」
「あした、雪崇君がどこに行くとしても、私は最後までその場所についていくの。どんな結果になっても、一緒にそれを受け入れる。そういう覚悟だよ」
「待て」雪崇は反射的に言った。頬を叩かれ、一瞬で我に返ったような感覚だった。「待て待て、それどういうことだよ。どういうことか意味分かって言ってるのか?」
「こんなこと、なにも分からずには言えないよ」
取り乱す主人と対照的に、彼女は穏やかともとれる口調と表情で言った。
「私はあしたも、メイドとしてあなたを守ります。どうなっても最後まで一緒にいます」
「ダメだ。無茶だ。この話がどれだけ危険かリティーナは分かってない。そんなんじゃ、ちゃんとした話はできない」
「じゃあ、雪崇君はどうする気なの?」彼女がすっと目を細めた。「ひとりでいくの? 殺されると思って、帰ってくることを諦めてるのに。それで私をひとりにするの?」
雪崇が答えられずにいるうち、またリティーナが口を開いた。
「あなたは私をひとりにできないのよ。能力の低下以外の理由では」
「ひとりじゃない。親父がいるだろ」
「そんなのおかしいよ。じゃあ雪崇君はお母さんを亡くした時、まだお父さんが残ってるからって平気でいられたの?」
「じゃあ、どうしろっていうんだ!」
刹那、自分でも分からない激情にかられ、雪崇は怒鳴り返した。
燻っていた炭が風に触れ、また燃え盛りだしたような感覚だった。
「みんな助かる方法があるなら喜んでそうするよ。でも、そんな都合のいい話、どこにもないじゃねえか。俺が好きこのんで自分が死ぬ可能性考えてるとでも? そんなわけあるか。死にたくねえから悩んでんだ。お前を泣かせたくねえから、どっちも選べずにいるんだよ」
「だから、私も連れてって。雪崇君に酷いことしてる悪いひとと、私も戦わせて」
「馬鹿言うな。返り討ちが堰の山だ」
「でも、逆の立場だったら雪崇君だって同じことするでしょ?」
リティーナは穏やかな口調で続けた。「だから、私にもそうさせてほしいの。それに、一緒なら雪崇君だって怖さも減ると思うの」
「だからって、そういう問題じゃねえだろ」
「そういう問題だよ。最後までがんばって、それでもどうしようもないって言うなら、私も雪崇君と一緒にそれを受け入れるから」




