プロローグ
「ワイズブレット:Y'zBullet」は著者公式サイト〈once in a BLUEMOON〉にて2010年5月から翌年11月にかけて連載されたオリジナル長編小説「ココノオ」を改題の上、校正、編集を加えたものである。
本作はすでに完結し、上記サイトでの公開も終了していたが、一部読者から要望をいただきこの場を借りて再掲載させていただく運びとなった。
プロローグ
それは藤田柊哉准教授にとって、非常に興味深い複数接続型洞穴だった。
そもそも北極圏以北にあるケイヴに挑戦するのは、ほとんどはじめての経験となる。
その上、深い雪の中に閉ざされた人跡未踏の新洞であり、年間通して零下の氷穴という条件までもが加わるのだ。
これまで世界中でケイヴィングによる洞窟学を志してきたものの、今回の試みはまさに未知なる領域への挑戦だった。
秘洞〈シビル・ケイヴシステム〉。
その内部に侵入するためには、まず雪に覆われた洞口からいきなりSRTで垂直降下する必要があった。
先行するのは同講座の助手、関尾祥子だ。彼女は熟練者らしく、ロープにセットされたアッセンダーへ交互に体重を移動させ、巧みに竪穴を降りていく。
幸い、深さはそれほどのものでもなかったらしい。
関尾の計測によると約九メートル。パーティには熟練とは評し難い参加者もいるため、以降のメンバーはワイヤー梯子で昇降することとなった。
底部に降り立ってみると、その先には小空間が広がっていた。
天井からは人の腕ほどもある氷柱。地からは氷筍が剣山のように突き出している。
さながら、洞窟生成物の森と云ったところだ。
「――藤田先生、この白いのってジプサムだからですか?」
連れてきたD1(博士過程)の院生が、周囲の岩肌に触れながら言った。
彼の指摘通り、洞窟内は総じて白い。
まるで洞口から雪が入り込み全体に付着したようだった。
「ああ。ジプサムが付着したケアパウカ洞ってところか。氷点下なのに、どうも万年氷洞じゃないみたいだ。こりゃ、入口から見た印象とはかなり違う感じだ」
そこまで言うと、准教授は顔をしかめ、声を潜めた。
「それにしても……なんだ、この違和感は」
「ねえ、シュウ。そのジプサムなんとかってなに?」
白い息を吐きながら、マッシュールムのようなショートボブの女性が藤田准教授に問いかけた。山岡しおりを名乗る、外部参加のカメラマンだ。
「ジプサムって云うのは、要するに石膏のことだ」
「せっこう?」山岡が小首を傾げる。「それってあれよね。彫刻で使う、白い石みたいな感じの……」
「そう。医療用ギプスにも使われる、あれです。硫酸カルシウムから成る鉱物ですね」
藤田准教授に寄り添うようにして立つ関尾が、事務的な口調で言った。
「地球上に存在する洞窟ってのは、ほとんどが石灰岩か火山岩でできてるもんだ」
関尾の言葉を補足するように、藤田准教授が言った。
「でも、そうじゃないものもあって、その代表格がこの手のジプサムでできた洞窟だ。有名なのは、この近くだとウクライナの洞窟群がそうだな。その内、オプティミスティチェスカヤ洞ってのは、網の目みたいな空洞の連結が二百キロ以上も続いてるもんさ」
「二百キロ!?」山岡が大きな目を更に大きく見開く。
「石膏ってのは水に溶けやすいんだ。つまり穴が開きやすい。洞窟ってのは地球にできた穴だからな。石膏の部分は、規模の大きな洞窟もできやすいってわけさ」
「へぇ。さすが、地質鉱物学の専門家ね。博士号は伊達じゃないってこと?」
藤田が連れてきた院生は全部で三人。これに、きのこ頭の自称〝カメラウーマン〟山岡と、関尾助手、そして藤田准教授本人を含めた総勢六名。
これが今回の洞窟実地調査の参加スタッフだった。
基本的に、ケイヴィングというものにはどうしても危険がつきまとう。
相手は自然なのだ。いくら経験を積もうと事情は変わらない。したがって、充分な調査が行われていないケイヴに単独で突入するのは、ベテランだとて自殺行為と見なされる。
充分な装備。事前の情報収集。正確な知識。
この三要素を揃えてこそケイヴィングであり、ひとつでも欠ければそれは即座に無謀な探検と化す。藤田准教授は常々そう考えてきた。
だからこそ、希望者を募って信頼のおける研究生たちを連れてきたのである。
勿論、彼らを連れてきた理由はそれだけではなかった。
たとえば、今やらせている測量作業やスケッチ、写真撮影などの雑務代行がそうだ。
特に、正確な実測データ測量図にする作業には人手がいる。小型携帯端末と図面を使う本格的なものなら最低でも三人。同行者の協力は必要不可欠なのだ。
「――先生、測量終わりました」
研究生たちがクリノメータやポケットコンパス、巻尺などの道具を片付けながら報告してきた。彼らはこれらを上手に組み合わせて方位角、勾配角、距離などを算出。関数電卓を使って計量を行う術を藤田准教授に伝授されている。
こうして得られたデータと測量図は、後にこの洞窟を訪れるケイヴァーたちの資料として重宝される。言わば、ツーリングに出かける前の道路地図のようなものだ。
「よし、じゃあ先に進もう。一応、全員ヘルメット着けてるけど、足滑らせて頭ぶつけないようにな」
藤田准教授の号令で一行は再び前進を再開した。今いるグロットの先には、緩やかな勾配の下り坂が続いているのが分かる。入り口は辛うじて人が立ったまま歩行できる高さと幅があった。しかし、先がどうなっているかまでは分からない。
経験者の藤田准教授と関尾助手が先頭に立ち、ライトの灯りを頼りに慎重に進んでいく。
「しおり、二次生成物を破壊したりするんじゃねえぞ」
藤田准教授は前を向いたまま、最後尾から二番目を歩いているはずの悪友に言った。
「なによ、その二次なんとかって」
「だから、ケイヴパールだとかスタラクタイトとか、まあ要するに洞窟ある変わった形の岩とかだ。そのうちゴマンと出てくる」
「分かったわよ。それより、本当にこんなところで良い写真が取れるんでしょうね」
「良く味わって空気吸ってみろ。冷たすぎて体力奪われるけど、その分、抜群にうまいと思わないか? この手のケイヴってのは、空気からしてめちゃくちゃにピュアなんだ。ウイルスも生きていけねえ。風邪ひいてても、ここに居りゃ一日で治っちまうだろうよ。ここは、そういう他じゃ考えられねえ空間なんだぞ」
「えっ、うそ。風邪、一日で治るの? どんなやつでも?」
「大学准教授の言葉ですぞ? 信じろよ」
藤田准教授が籍を置いているのは地質学の一、地球物質科学分科の鉱物研究コースだ。
世界中の洞窟で見つかる鉱物の結晶構造、物性、内部組織などの解析。また、それらの鉱物の生成条件や生成機構を明らかにすることを研究のテーマに据えている。
そのため各国の洞窟を年中飛びまわり、面白いと思った鉱石を持ち帰っては分析に勤しむ毎日であった。
もちろん、世界中を旅するには大学から認可される予算だけではどうにもならない。
そこで、彼は洞窟で見つかる希少な化石を――もちろん許可を得て――採取しては、研究者や博物館、コレクターに売りつけることでその資金を捻出している。
洞窟に関する学術的な研究は、世界的に見ても驚くほど進んではいない。
洞窟が絶滅した動物の骨や化石の宝庫であることも、知らざれる事実というやつだった。
大型のオオカミやジャコウジカ。マンモス。トラ。ヒョウ。サイ……
日本でも、発見される多くの化石は洞窟がその出所となっている。
だが、外界から完全に隔離された神秘の地下世界の探検は、地質学の研究云々を別にしても筆舌にし難い魅力に満ちている。
誰も知らない世界を自分だけの瞳に独占してしまう、ある種の快感は何ものにも代えがたい。
そして、このシビル・ケイヴシステムはその極めつけだった。
全体が竪穴・横穴の絡み合う複雑な立体迷路の体を成しており、初日の探索時点でその総延長は九千メートルにも達した。
三日目には二万四七〇〇メートルを突破。
四方八方に――それそのものがひとつの立派な洞穴とも成り得る――支洞を派生させ、一行を二度も遭難による全滅の危機に追いやった。
六日目になると、藤田准教授の率いるパーティは測線延長距離にして五十三キロ地点にまで到達していた。
これは、日本最大のケイヴ〈安家洞〉の倍を超える数字である。
調査隊は日付をまたいで洞内への出入を繰り返した。
時に初心者の山岡しおりを残し、ルートとその安全の確認が取れてから後日帯同、というパターンをとることもあった。
そして、八日目。
「――藤田先生」
洞内に張ったベースキャンプで夕食を取り、探索を再開して間もなくのことだった。
先頭を行く関尾が立ち止まり、判断を求めるようにしんがりの准教授を振り返った。
「どうした、関尾」
「クロールウェイです。どうされますか?」
そろそろ立って歩くのが限界に近付きつつあることには、藤田准教授も気が付いていた。
キャンプ地にした自由空間から伸びるこの下り緩斜面は、歩を進めるに従って天井を低くしてきている。このまま進み続ければ、チューブから捻り出されるホイップクリームの心境を味わうことになるだろう。
「ねえ、シュウ。そのクロールウェイってなによ」
山岡が、列の真ん中から顔だけ覗かせて問いかけてくる。
彼女ももう二十八歳になるはずなのだが、状況の成り行きを黙って見守るということが未だにできないらしい。藤田准教授は嘆息しながら言った。
「しおり、匍匐前進って知ってるか?」
「え? ああ、軍人さんとかがやってるやつでしょ。地べたに腹這いになって、こう、腕とかの力で前に進むやつ」山岡は手振りを交えて答える。
「そうだ。洞窟ってのはな、その匍匐でしか前に進めないような場所がまず必ずって言って良いほどあってな。そういう天井が低くて狭い箇所をクロールウェイって呼ぶんだ」
「げっ」言わんとすることを理解したのだろう。山岡はいささか下品な反応を示す。
「さて、どうすっかな」藤田准教授は腕を組んで唸った。
問題は幾つかある。
ひとつは、先がどうなっているか分からないこと。
出口の存在すら保証されない空間への突入。これには大きな恐怖がつきまとう。
その恐怖をおして進んだとしても、無理をして身動きが取れなくなれば、最悪、待っているのは死だ。同行者による救助は、必ずしも成功するとは限らない。
第二の問題は、山岡がチームにいることだ。
彼女は事前に数度の訓練を経験しただけの初心者だ。未開の洞窟に素人を連れてくること自体が異例なのだが、とにもかくにもあまり無茶はさせられない。
「このクロールウェイは下に傾斜しています。しかも先の構造が分からないとなると――」
「角度がある下り坂の場合、退き返すのが難しい。脚からではなく、頭からだな」
「はい」さすが恋人同士と唸らせるような呼吸で、関尾と藤田准教授はうなずき合った。
地上における匍匐前進は、水平移動が基本だ。
しかし、自然の産物である洞窟は水平な割れ目など作らない。上り坂であるか下り坂であるか――場合によって様々だが一筋縄ではいかないケースがほとんどだ。
当然、闇雲に前にめば蜘蛛の巣に突っ込む蝶のごとく、狭路の網に絡め取られる。
「とりあえず、先の見極めが出来る奴じゃないとな」
基本的にヘルメットを被った頭部が通ってしまえば、続く胴体部分も通過できるとは言われている。だが、これはあくまで目安に過ぎない。
一つ間違えば身動きが取れなくなる狭所特有のストレス。死と隣り合わせの恐怖。これらはいとも簡単に、人間から冷静な判断力を奪う。最後に物をいうのは経験だ。
「じゃあ、悪いけどみんなはここに残ってくれ。俺と関尾で先に進めるかを調べてみる。も俺たちが戻れなくなったら、直ぐに洞口まで戻って待機要員に知らせてくれ」
院生たちが力強く頷き返すのを確認し、藤田准教授は先行する関尾に続いた。
余裕があれば、前を行く彼女に軽い悪戯でもしかけてやるが、今は疲労が強かった。
コンディションはもちろん関尾も同様で、普段より進行速度が目に見えて遅い。
空間に余裕がないため、先がどうなっているかは全く分からないが、それほどに難易度の高いクロールウェイなのだろうか。
そんなことを考え始めた矢先だった。
鈍いと思っていた関尾の動きが、完全に停止した。
流石に不審に思って声をかけようとした時、ぽつりとつぶやく声が聞こえた。
「うそでしょ……」
くぐもった声が、湿り気の強い空気をかき分けるようにして届いてくる。
「どうした?」
「先が……信じられない」
独り言つように言うと、関尾がようやく身じろぎするように前進を再開する。
今度はうってかわって素早い。瞬く間に藤田教授を引き離すと、数秒後、ふっと掻き消えるように姿を隠した。
クロールウェイのような狭洞は、往々にしてホールへと続いている。
恐らくそこに到達し、穴から這い出て見えなくなったのだろう。
そう結論し、藤田准教授は後に続いた。
そして六秒後、関尾の異変の正体を知った。
クロールウェイの先に待っていたのは、人間が三人並んで歩けるほどに大きな通路だった。――が、問題はそこではない。
異様なのはその断面だ。四つの完璧な面を組み合わせた、正方形になる美しい造り。
壁面および天井、床、いずれもが得体の知れない鉱石で構成されており、近づくとぼんやり自分の顔が映って見えるほど艶やかに磨き込まれている。
それが距離にして約十メートルほど、狂いのない直線として伸びていた。
「柊哉さん!」
鉄の女とまで言われる関尾の、尋常ならぬ叫びが木霊した。
見ると、彼女は既に通路の向こう側まで辿り着き、そこで地にへたりこんでいた。
慌てて駆け寄る。あり得なかった。関尾が先に零していなければ、藤田准教授自身、口にしていただろう。なんだこれは。これは明らかに人工物じゃないか……。
混乱状態で関尾に近づき、両脇を支えて助け起こす。同時に、准教授は前方に広がる空間に目をやった。
そこは、ヘッドライトの光量では照らしきれない規模のホールであった。
シベリアの洞窟らしく、空間全体が分厚い氷の壁で囲まれているらしい。
永久氷壁に囲まれた神聖なグロット。LEDハンドライトの光を乱反射し、それはあたかもクリスタルのような輝きを見せている。
藤田准教授は畏怖の念さえ抱かせるその光景に、思わず息を呑まずにはいられなかった。
だが、単に美しいだけなら、関尾が立っていられなくなるはずもない。
「なんだよこれは……」
藤田准教授はついにそう口にした。
まるで、この空間の主として君臨するかのように――
グロットの最深部、分厚い氷の壁の中に、それは居た。
「……信じられません。私は、現実の光景を見ているのでしょうか」
関尾が呆然と呟く。藤田准教授をして、そんな彼女を見るのは初めてだった。
それは氷に閉じ込められた動物だった。凍て付いた、生物の標本。
そも、これは死んでいるのだろうか? 氷と共に生命活動が凍結されているだけで、何かの拍子で動き出してもおかしくない。そう思わせるほどの圧倒的躍動感をまとい、彼はその罪を問うかのように侵入者を睥睨していた。
「関尾……こいつは、これは一体なんだ」
ほとんど夢うつつの状態で藤田准教授はささやいた。
体長はほとんど恐竜サイズ。アフリカゾウでもこれほどのものはそうそういないだろう。
見たことも無い種の生物だった。否、それ以前にこれは本当に生物なか――?
「分かりません」関尾は首を左右するしかない。「少なくとも私の知識に該当する生物は存在しません」
ですが――彼女は言葉を失ったように一端口をつぐみ、ややあって、ほとんど途方に暮れたような声音で続けた。
「ですが、九尾である点だけ見るなら、民話等で語られる狐に該当するのかもしれません」
「キツネ? そんな馬鹿な。だってコイツは……」
全身を隈なく覆う甲冑のような硬質の鱗。馬のように長い首。鮮血色の双眸。
それに何より、全身を包み込む黒墨色の気体。
永久氷壁のなかで、どのようにしてか揺らめく幽界の炎。
こんな生物がいるはずがない。こんな現象があるはずもない。
こいつは、狐と呼べるような要件をなにひとつ備えてはいない。
加えて、警鐘を鳴らすように本能が告げているのだった。
お前が目にしているそれは、人間が触れて良い世界の存在ではないと。
これに触れる者は、一切の希望を捨てねばならないと。
はっきりと、そう告げているのだった。