第2節 アルク2
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見渡す限りの森の中、大樹に紛れるように古い城が立っていた。
ごつごつとした灰色の壁はところどころ剥げ落ち、茂った草の蔦が巻き付いている。
いくつか突き出た塔の屋根は、かつては夏の葉と同じ瑞々しい緑色だったが、
今は色褪せ、秋を迎えるような錆びた色となっていた。古城というにはふさわしいのかもしれない。
その城の巨大な門の前で、一人の男が主の帰りを待っていた。
門を小さく感じさせるような風貌。傷跡の残る筋骨隆々の体に黒灰の髪ーーオッツだ。
ぼりぼりと頭を掻き、はぁ、と小さなため息をついてオッツは空を見上げた。
(やれやれ…何でいつも面倒くさい方に事を進めるのかね、アイツは)
頭の悪い俺にはわからんともう一度ため息をついた時、前方の木の間から人影が見えた。
遠くまで良く見える目には、自分に気付き眉を寄せた主のーーディリアの顔が映る。
(やれやれ…)
別に頼まれたわけでもなく、ここに来ているのは自分の意思なのだが。
(あの二人だけだと、どうにもこうにも、なぁ)
近付いてくるディリアは無表情で、それが何を示しているのか、
長い年月を共に過ごしたオッツにはわかっていた。
はぁ、と今度は心の中でため息をつく。根っからのお人好しの男の苦悩である。
「お疲れ様」
「何?」
ばつが悪そうに声をかけてきたオッツに、怪訝そうに眉を寄せてディリアが返した。
その右手に握られているのは、ルベライトのようなピンク色の結晶がはまった石。
細く白い指にもう血の跡はない。
「久々に大物だったな。こっちまで揺れが来た」
オッツはそう言って、ディリアの右手の石をちらりと見た。
「まさかそれで心配して出迎えてくれたわけじゃないでしょう。用件は」
早く言いなさい、と言う様に視線をそらしたディリアに、オッツは頭を掻く。
「あー、知らせておこうと思ってな。っておい、睨むなよ」
「何?」
刺々しいディリアの声。こんな風に育ったのはアイツのせいだ、絶対。
そんなことを考えながら、オッツは観念して口を開いた。
「ええとな、レイチェ様を呼んだ」
「な…」
弾かれたようにディリアの目が開く。
「どういうこと…。彼に了承を取ってからって言ったじゃない」
いつもより低いディリアの声は静かな怒りで満ちていた。
(こうなることがわかってて、やるんだからなあ)
やれやれ、とオッツはディリアの方に視線を移す。
「サアバが呼んだんだよ。それでその…レイチェ様が着く前に知らせておこうと思ってな。
アイツはどうせ言わないだろうから。だから睨むなって」
「…サアバはどこ」
「書斎にいるよ」
静かな怒りで震えるディリアの声にため息まじりにオッツが答える。
ディリアは無言でオッツの横を突っ切り、城門に触れた。
どんな槍も通さないように見える重厚な門はまるで紙で出来た作り物のように音も無く開き、
その奥の高い天井を見せる間も無いまま、ディリアを吸い込むように閉じた。
「やっぱり怒ったな…だからディリア様が戻るまで待てっつたのに…」
残されたオッツはぽつりと呟き、青い空を見上げる。
「いやそもそもあれが…うーん…」
これから行われるであろうやり取りを想像するだけで頭が痛い。
「まあいいか…どっちにしろ俺にはさっぱりわからん」
そう言い、オッツは城の門に手をかけた。血管が浮かんだ腕が力を込めると、
ギ、ギギ…と古びた音を立て重い扉が開く。
(アイツの考えも、ディリア様の考えも)
これからどうなるかも、自分にはわからない。出来るのは、ただそれを受け入れる事。
ギギィ ガタン
重い音を残して、扉は閉じた。
*****
苛立つ心を抑えられないまま、ディリアは足早にホールを抜けサアバの書斎を目指した。
足取りはいつしか駆け足となり、薄暗い廊下をいくつも抜けて古びた銀の扉の前に辿り着く。
立ち止まる間もなく扉をノックし、部屋の中から声が返ってくる前に扉を開けた。
入り口近くにある机の椅子に、いつもと何ら変わらない、無機質な男が座っている。
「サアバ」
ディリアは静かに言い、部屋の中に入った。
「何ですか、姫」
手にした本から視線を移すこともない男の、抑揚のない声が返る。
いつもと変わらないその様を苦々しく思いながら、ディリアはつかつかと歩み寄りサアバの横に立った。
「レイチェを呼んだってどういうこと」
静かな怒りに満ちた声が上から響き、サアバは本を閉じ顔を上げた。
「呼びましたが、何か?」
睨みつける主に、眉一つ動かさず聞き返す。
綺麗に整った色のない顔を見て、石を握ったディリアの手に力が入った。
「彼に了承を取ってから呼ぶって、昨日約束したじゃない」
「ええしました。ですからディリア様が彼から了承を得るまで、ちゃんと待ちましたよ」
「…聴いてたの」
「ええ。腕輪を少しいじりましてね。ちゃんと聴きましたよ。
占い師とやらに視てもらいたい、と彼が言ったのを」
「それは気付かなかったわ…」
呟くように言ったディリアの声に苦々しい響きが滲む。
「一応、あなたの魔法の師は私ですよ?それなりに高性能なものも作れます」
サアバの無表情な顔をじっと睨みつけたまま、ディリアは息を吐いた。
「で、その高度な技術を使って盗み聞きをしてたってわけ」
「人聞きの悪いことをおっしゃる」
「それで何?用事のできた私の代わりに、レイチェに連絡してくれたってことかしら」
「ええ。仰る通りです」
「…ずいぶんとご親切ね」
「善は急げ、と言うでしょう」
「…」
(善、ね)
心の中に引っかかった単語を飲み込んで、少しだけ表情を緩める。
「それで、レイチェは何て」
「幸い今日は何の予定もなかったそうで、準備が出来たらすぐに来てくれるそうですよ。
もうそろそろ、ここに着くんじゃないですか」
「そう」
ディリアはそう言うとふうっと長い息を吐き、くるりと踵を返して歩き出した。
「どこへ行くんです」
大して興味も無さそうな声が、ディリアの背に問う。
「レイチェを出迎えに行くのよ」
「それは結構」
サアバの抑揚のない声を聞きながら、ディリアは扉に手をかけ、ふと動きを止めた。
「サアバ」
「何です」
「あなた本当は何か知ってるんじゃない」
扉を見詰めたまま、背中の向こう側に静かに問い掛ける。
「何を知っていると?」
「…彼のことを」
「どうしてそう思うんです」
「…何となくよ」
二人の声が静かに部屋にこだました。
「それなら私もお聞きしたい」
ひと呼吸おいて、無機質な声が返る。
「ディリア様こそ、何か知っているのではないですか」
「何を」
「彼のことを」
「…どうしてしそう思うの」
「何となく、です」
視線の代わりに交差する声。ぴんと張り詰めた空気。
「私は知らないわ。だからレイチェを呼ぶことを提案した」
ディリアはゆっくりと、噛み締めるように言った。
「私も知りません。だからレイチェ様を呼ぶことに賛同しました。他にご質問は?」
「…ないわ」
一瞬の間を挟んで呟き、細く長い指で扉を押す。
「私の部屋に来るように。レイチェが来たらすぐに占ってもらう」
「ディリア様から誘ってくださるとは珍しい」
「盗み聞きされるくらいなら、横にいる方がましよ」
「いいでしょう。オッツも連れて行きますよ。仲間はずれにされると僻みますからね」
サアバの言葉に不覚にも笑いそうになったことを悔やみながら、ディリアは部屋を出た。
(レイチェが来てくれる)
サアバのしたことは快いものではなかったが、結果的には自分が望んだものだった。
薄暗い廊下を進みながら、誰もいない空間を見詰めて口を開く。
「リン」
「はい」
頭の上から声が返る。
「レイチェが来るわ。ポートに行って待っていて。私もすぐ行くから」
「はい」
短い答えて聞いて、ディリアは歩を早めた。
いくつもの角をまがり、長い螺旋の階段を上る。
その中程まで来た時、ゴーーーーーーーンという鐘の音が鳴り響いた。
ディリアは残りの階段を駆け上がり、薄暗い空間の先に広がる光へ飛び込む。
アーチ型の柱の間に広がる眩しい青空。そこは城の上に位置する、突き出た塔の先だった。
三角帽のような屋根が頭上高くに位置し、その下に石造りの円形の床が広がっていた。
床には文字とも模様ともとれるものがいくつも描かれ、それが一つに繋がり大きな円の陣を成している。
その円の中心で、小柄な少女がリンに迎えられていた。
高い位置で二つにくくられた髪はハチミツ色で、ふわふわと軽いウェーブがかかり、まるで綿菓子のよう。
まあるく大きな瞳は明るい緑。白い肌に薔薇の頬を持つ、この少女がレイチェだった。
襟と袖にフリルのついた薄桃のワンピースを着ている姿は、まるで人形のように可愛らしい。
その足下には毛糸玉のようにむくむくとした子犬がちょこんと座っている。
リンから少し離れたところに立ったリンが、ディリアを見て軽く頭を下げた。
「ディリアちゃん」
にっこりと笑って、レイチェはディリアの名を呼んだ。外見とぴったり合った、鈴が鳴るような可愛らしい声だった。
「レイチェ。ありがとう来てくれて」
ディリアが駆け寄りレイチェの手をとる。小さな手は柔らかく温かい。
「ううん」
ふわりと笑うレイチェにディリアも優しく笑んで、二人はごく自然に手を繋いで歩き出した。
リンが一歩下がってその後を歩き、さらにその後を子犬がとてとてと付いてくる。
「役に立てればいいんだけど」
階段を下りながら、レイチェがぼつりと言った。
「サアバから何て聞いてる?」
「城の西の森に私達と同い年くらいの男の子が倒れていて、目を覚ましたけど記憶がないって」
「そう。どしゃぶりの雨が降っていて…リンに頼んでここへ連れて来てもらったの」
「どしゃぶりの雨」
小さな声が繰り返す。ふとディリアは振り返ってリンを見た。
「リン、ケイトの部屋に行って。ケイトと…彼を私の部屋に連れて行ってちょうだい」
「はい」
主の声に答えたリンは軽く頭を下げ、ゆらりと揺れる炎のようにその場から姿を消した。
後ろを歩いていた子犬は動じることもなく、ぽてりと弾んでレイチェの後ろに付く。
リンの気配が消えるのを確かめ、二、三歩階段を下りてからディリアが口を開いた。
「あのね…レイチェ。これは誰にも言ってないんだけど…
…彼が私の意識に入って来た時、光が見えたの」
記憶を辿るように、ゆっくりと言葉を紡ぐディリアを、ガラス玉の瞳が見上げる。
「一瞬、強い光が見えた。そして光の中に何かが…何かはわからないけど…何かが見えた気がした」
「光の中に何かが…」
レイチェが小さく繰り返す。
「そして彼を実際に見た時、もっと強い光が見えた。強い光が雨のように降って…それから…」
そう言い、ディリアは唇を噛んだ。あの時の胸が焦げるような感覚は色褪せて、身に残るものはない。
「…それが夢だったように、何も起こらなかった。彼と目を合わせて、言葉を交わしても」
両手一杯に掬い上げた水が全て流れ落ち、濡れた手が乾いてしまったようで。
確かに感じたのに、呼び起こすことができない。それがとても悔しく歯がゆい。
レイチェは何も言わず、きゅっと手を握ったままディリアを覗き込んでいた。
碧い瞳に長い睫毛の影を落としてディリアは言葉を探す。
「上手く…言えないんだけど…とても…とても不思議な感じがした…。彼は…普通の人ではないかもしれない」
いつもは淀みなく綴られる声が、ぽつりぽつりと溢れる。
それを受けとめるように「うん」と小さく頷いて
「とても不思議な人なのね」
レイチェが穏やかに言った。
「うん…」
今度はディリアが小さく頷き、
「でも、きっと悪い人じゃないの。…そう思うの」
胸の中に入り交じる想いを静かに伝えた。
「そっか…。ディリアちゃんがそう思うなら、きっとそうだよ」
トン、トン、と段を降りて、レイチェはディリアの手を引いた。
「ね」
少しだけ振り返り、ふわりと笑う。わた菓子のような髪が揺れ、甘い匂いが微かに漂う。
「…うん」
自然と微笑み返し、ディリアも段を降りた。レイチェに合わせると、若干背が屈む。
長身で大人びたディリアと並ぶと、小柄で童顔なレイチェは余計に小さく幼く見える。
この小さな少女の笑みが、ディリアはとても好きだった。
温かくほんのり甘いお茶に、優しい色の砂糖菓子…そんなものを連想させる、ふんわりと柔らかい笑顔。
小さいけれど、とても大きい…自分よりも、ずっとずっとーー
心の奥で感じながら、歩幅を合わせいつもより遅く歩く。握る手に、尊敬と感謝の念を込めて。
何も言わず、寄り添うように二人は進んだ。その後に続く一匹もまた何を言う事もなくまっすぐと。
階段を降りた先の廊下を抜け、いくつもの扉をくぐり、また別の階段を上がり…ようやく目的の場所に辿り着く。
金色の蔦があしらわれた紫色の扉。その前で、二人と一匹は足を止めた。
繋いだ手はごく自然に離れ、ディリアの細く白い指が部屋のノブに触れる。
温かさが残る手に、馴染んでいるはずのノブは固く冷たい。
ぐっと握りしめ、ディリアは自身の部屋の扉を開けた。
そこに広がったのは、見慣れた部屋の見慣れない光景。
壁際に立つサアバとオッツ。部屋の隅に立つリン。机にもたれ掛かるケイト。
ケイトが動かしたのであろう客人用の椅子に、黒髪の少年が座っている。
その髪よりも濃い黒い瞳を、ディリアは真っすぐに見た。
(どうか彼を)
それはほんの、瞬きの合間ーー
(どうか彼を、殺さずにすみますように)
左手に持ったままだった石の重みを感じながら、心の中で捧げた祈り。
窓から見えるのは抜けるような青空。
ディリアにとって忘れることのできない、ある春の午後の出来事だった。
つづく