第2節 アルク
辿り着いたのは
きっとここでよかった
歩く果てに何があるのか
知ることはできないけれど
願うことはできるだろう
君の歩く先に
光があるように
------ 第2節 アルク --------------
扉の前でディリアは足を止めた。かすかに聞こえるのはーーケイトの声だ。
その明るい響きに安堵を覚えながら、ディリアは扉をノックし部屋に入った。
そこは寝具とテーブルと椅子だけの簡素な造りの小部屋で、部屋の奥のベッドには、あの黒髪の少年がいた。
ベッド横の椅子に座ったケイトが明るい笑顔を向ける。
「おはようございます、ディリア様」
「おはよう、ケイト」
柔らかく笑ってケイトに挨拶を返し、歩を進めながら少年の方を見る。
壁にもたれるように上体を起こした彼の両手首には銀色の腕輪が光り、腕輪を繋ぐ銀の鎖が掛け布の上に広がっていた。
その鎖の長さは、人の背丈の倍もある。
どう、思っただろう。
重いとか、邪魔だとか、そんなことではなくーー
うっすらと考えながら視線を上げると、少年の黒い瞳が真っすぐディリアを見ていた。
「……おはよう………眠れた?」
何を言うべきか咄嗟に考えたものの見つからず、当たり障りのない言葉を口にする。
「ああ」
昨日と変わらない、低めの静かな声が答えた。
「じゃあ俺、お茶持ってきますね」
ケイトが勢い良く立ち上がり、ディリア様ははここにどうぞ、と座っていた椅子を指し示す。
「…ありがとう」
「いえいえ」
座ったディリアにひらひらと手を振って、扉を開けたままケイトは部屋を出て行った。
その後ろ姿を横目で見てから、ディリアは改めて少年の方を向いた。
「何、話してたの?」
「…色々と」
長い前髪から覘く目は、吸い込まれそうな黒だ。
無表情というか無愛想というか、感情の読み取れない表情ではあるが、冷たい感じはしない。
「姫」
不意に紡れた言葉に、碧い瞳がぴくりと動く。
「なのか?」
一瞬間を置いて少年が続けた。少しだけ沈黙が流れ、黒と青の瞳が見詰め合った。
「…そうね」
長い足を組んで、その上で頬杖を付いたディリアの顔にはどこか不敵な笑みが浮かんでいた。
「そう見える?」
「見えないが…昨日そう呼ばれていたからな。それに」
「それに?」
「ディリア様、なんだろう?」
少しも表情を変えることなく、少年は言った。
昨日は袖のない紫色の長いワンピースを着ていたディリアだったが、今日はフードのついた半袖の上着に七分丈のズボンという出で立ちだ。
腰まである金色の髪を前の方で二つに分けゆるく三つ編みにしている。姫を連想するには程遠い格好だがーー
「確かに、そうね。そう呼ばれてはいるわ。いるけれど…」
「違うのか」
「さあ、どうかしら」
組んだ手の上に乗せた頬を傾けて、ディリアは苦笑まじりの笑みを浮かべる。
「微妙なところね」
それを聞いて、少年がふっと笑った。
「ケイトと同じことを言うんだな」
ディリアの胸に何かがすとんと落ちた。思わず瞬きをして少年を見返す。
低めの静かな…変わらない声ではあったが、確かに、笑っていた。
感情が読み取れないと思った表情が随分と柔らかく見える。
「さっきケイトにも同じ質問をした。昨日の女は姫なのか、と。微妙なところだな、とケイトは言っていた」
淡々と続ける少年の言葉に、今度はディリアがふっと笑った。
意外とはっきりした物言いをするのだな、と胸の奥で呟く。
ケイトの名を覚え、そんなことを話していたのが意外であったし、少年の言葉の中の聞き慣れない響きに何か不思議なものを感じていた。
「そうね………愛称みたいなもの、かな。…ちょっと違うかもしれないけど」
「微妙なところなんだな」
「…そうね」
自分が言った言い回しを代わりに使われ、ふふっと笑ったディリアを見て、少年も口元を緩める。
それきり、会話が途切れた。少年は手首にはめられた銀の腕輪に視線を落とし、ディリアはその横顔を眺めた。
(何だろう、不思議な感じ)
少年との初めての会話は、ディリアにとって不思議なほど自然に感じた。流れる沈黙がどうして気不味くないのだろう。
「ここは不思議なところだな」
ぽつりと呟くように少年が言った。
「これ、意味があるのか」
言いながら、右手を軽く上げる。銀の腕輪に繋がれた鎖がだらりと揺れた。
「これじゃ拘束したことにならないぞ」
そう口にした少年の横顔を、ディリアはしばらく何も言わず見た。
(拘束、か)
自分が置かれている状況を、この少年はどう思っているのか。相変わらず表情からは何も伺うことができない。
ただとても穏やかなのは確かで、それを受け入れる自分が不思議だった。
「…ごめんなさい、そんなものを着けさせて。でもそれはあなたを拘束するためのものじゃないわ」
長い鎖を見ながら神妙な面持ちでそう言って、ディリアは心の中で言葉を付け足す。
(あなたを守るものだわ。少なくとも、私にとっては)
口には出せない思い。少年は腕輪を見たまま何も言わず、また沈黙が流れた。
「あの…ね、私の友人にとても力のある占い師がいるの」
長く言葉を探した後、唐突にディリアが話を切り出した。
「占い師?」
「ええ。占いというか…色々なことを視る力がある子で。あなたのことが見えるかどうかはわからないけれど」
向き合った黒い瞳を真っすぐ見ながら、ひと呼吸おいて続ける。
「あなたさえ良ければ、その子に視てもらったらどうかと思ってるの。
あなたの記憶が戻るという保障はないけれど、何か…少しでも解る事があるかもしれない」
「…どうかしら」
表情を変えずじっとこちらを見詰めたままの少年を覗き込むようにディリアが尋ねる。
「ありがたい話だが」
少年は視線をそらし、何か考えるように空を見た。
「何で俺にそんなことをしてくれるんだ?」
「それは」
言葉を探すが上手く出て来ない。
(それは…)
細い指を握りしめ、自分に問う。いつもなら何とでも言えるはずなのだ。嘘でも、真実でも。
なのに、どうして胸がざわめくのか。
僅かな沈黙の後、少年は再びディリアを見た。
「俺は雨の中倒れていたらしいな」
「…ええ」
「そこを赤い髪の女が通りかかって、ここへ連れて来たと」
「…ええ」
「助けられた、ということなんだろうな」
ディリアは何も言わなかった。言えなかった。
「何故俺を助けたんだ?」
両の腕にはめられた銀の輪を横目で見ながら少年は続けた。
「俺は招かれざる客だろう。放り出せばいいんじゃないのか」
「…それはできないわ」
「俺が何者か知る必要があるのか」
「……」
黒と碧の視線が互いに探り合う。
「あなたが何処から来たかはわからないけれど」
すう、と息を吐いて、ディリアがゆっくりと、確かめるように言う。
「今ここに居る限りあなたはこの国の住人だわ」
碧い瞳は真摯な輝きを放っていた。
「私にとってはそれが全てよ。あなたをここへ連れて来たのも、今こうして話しているのも…
これからのことを考えるのも…それが全ての理由になる」
静かな部屋に凛とした声が響く。その響きに打たれたように、黒い瞳は瞬きをせずにディリアを見詰めた。
「…その占い師とやらに視てもらいたくないと、俺が言ったらどうするんだ」
「あなたの意志を尊重するわ。でも…その分ここへ長く居てもらうことになるかもしれない。その姿のまま」
ディリアが少し考えてから言った言葉に、少年は苦笑した。
「まるでおどしだな」
その通りだと思いながら、ディリアも苦笑する。
「正直に言うと、あなたが何者かわからないと困るのよ」
「…正直だな」
少年は笑った。それがディリアには救いだった。
「俺もディリア様と呼べばいいのか」
互いに沈黙を挟んだ後、ふっと思い付いたように少年が言った。
「…ディリアでいいわ」
一瞬躊躇してからディリアが返す。
「そうか。じゃあディリア」
少年の言葉に、ディリアは目を見開いた。いつもの大人びた表情に一瞬、年相応の少女の顔が浮かぶ。
「俺も俺が何者か知りたい。だから迷惑でなければその占い師とやらに視てもらいたい。世話になってすまないが」
真っすぐな言葉。見詰めてくる瞳は黒く深く、曇りがない。
「…よかった…」
思わず安堵の声が漏れた。心の底からそう思う自分に少しだけ戸惑いながらディリアは笑んだ。
「まあ、俺もお前のこと名前で呼びたいしな」
唐突に後ろから声が響いた。いつの間にか戻って来たケイトが、部屋の入り口に立っていた。
手にしたお盆にはお茶の入ったカップが三つ並んでいる。
ディリアが壁際の小さなテーブルをベッドの方へ引き寄せると、ケイトはその上にお盆を置き、
部屋の隅にあった椅子を運んでディリアから少し離れた場所に座った。
少年にカップを渡しながら、ディリアはお茶が幾分か冷めてしまっていることに気付く。
きっと出るタイミングを見計らっていたのだろう。いつもの自分ならそれに気付いていたはずなのにーー
「レイチェ様に視てもらえば、きっと名前で呼べるようになるさ」
「ケイト」
白い歯を覗かせ明るく笑うケイトを、たしなめるようにディリアが見た。
軽卒な事を言わないで、という目に、ケイトはすいません、と言うように肩をすくめる。
「レイチェ様、というのか」
温めのお茶を一口飲み、含みのある言い方で呟くと、少年はディリアに視線を合わせた。
その言葉の意を汲んでディリアは苦笑した。
「レイチェでいいわよ」
「そうか」
「ええ」
そんな二人のやりとりを、ケイトは不思議な気持ちで見ていた。
「レイチェに頼まないとね」
ディリアが微笑みながら空になったカップをテーブルに置こうとしたその時ーー
ガチャリ
手からカップが離れ、テーブルにぶつかった。ケイトと少年が思わず視線を向ける。
テーブルまで僅かというところだったせいか、カップは割れても欠けてもいなかった。
だが、持ち手の部分には赤いものが付いていた。
ケイトがはっとしてディリアの指を見る。白く細い中指から、赤い血がぽろぽろと流れていた。
少年も目を開いてディリアを見た。
そこに映ったのは血のついた指先をじっと見詰めている、さっきとは別人のように冷たい顔をした少女だった。
ディリアはすっと立ち上がり、無言で歩き出す。
「大丈夫ですか」
その背に尋ねるケイトの声にも、今までの明るさは無い。
「大丈夫。たいしたことないわ」
固く冷たい声で答えると、ディリアは足早に部屋を出て行った。
「どうしたんだ」
少年が怪訝な顔でケイトと落ちた血の痕を見比べた。
「それは、その……………何も言えないんだ。ごめん」
言葉が見つからないまま、ケイトは小さく謝って俯いた。
少年はそれ以上何も聞かず、ちらりとティーカップに視線を移し、今さっき起こったことを思い浮かべた。
傷自体は小さかったーーそもそも何故傷が出来たのかはわからないがーー
切り傷ーー?いやあれはーー血が噴き出しているようなーー
そんなことを思い巡らせていた時、ドォン、と部屋が震えた。
ケイトは俯いたまま組んだ手をじっと見て何も言わない。
言えない、と彼は言った。ならば何も聞くべきではない。
気のせいか空気もびりびりと震えているような、そんな気がした。
もう一度カップに視線を移す。白い持ち手に浮かぶ赤い血。
今の音と、何か関係はあるのだろうか。そう思った時、ドォン、ともう一度地面が揺れた。
テーブルの上のカップがカタリと音を立て震えた。
その時少年は、何かを聞いた気がした。思わず目を閉じ胸の中で反芻する。
それはとてもかすかな響きだったが、少年にはそれが人の声に聞こえた。人の、叫び声に。
それきり、部屋には静寂が戻った。びりびりしたように感じた空気も、いつの間にか元に戻っている。
俯いたまま、ケイトは小さく息を吐いた。
ディリアがどこへ行ったのか、ケイトは知らない。
でも知っていることはある。
ディリアが何をしているのかを。
少年が聞いたその声は、空耳ではないということを。
つづく