第1節 雨3
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「ディリア様」
静寂と薄闇に染まった部屋に声が響き、ディリアとケイトが目を開けた。
窓から見える空は夕暮れて、淡いピンクと紫の雲も空の向こうへ消えそうだった。
「サアバ様がこちらへ来るように、と」
姿のない声が短く静かに告げる。
「わかった。今行くわ」
そう言って立ち上がったディリアにケイトはごく軽く会釈をし、いってらっしゃい、と目で言う。
自分は行くべきではないことを心得ているケイトに、ディリアも目だけで挨拶し無言で背を向け部屋を出た。
光の入らない廊下はもう真っ暗だったが、ディリアが進み出ると天井にある小さなランプが一斉に灯った。
ぽん、ぽん、と光が列を成していく。鈴蘭型のランプが発する光は強くはない。
広い廊下の全てを照らすには心許ないものではあるが、ディリアはこの灯りが好きだった。
見通せないくらいがちょうどいいのだと、時折彼女は思う。ほんのりと優しい光は色々なことに気付かせてくれる。
そう、今も。
(焦っても仕方ない)
意識せずとも早まる歩に何とも言えない煩わしさを覚えて、ディリアは一瞬立ち止まった。
(彼に会わなければ始まらない)
何を考えても最後に行き着く答えは「わからない」になることはわかっているから。
そう自分に言い聞かせ、できるだけ何も考えないようただ前を見て歩く。
(一…… ニ…… 三……)
意識の奥で数えながら曲がる角。胸の中の数がある一点に達した時、ディアリアはぴたりと歩を止めた。
長い廊下の真ん中、銀の輪で飾られた楕円の鏡が一つ、ディリアの顔を映す高さで壁にかけられている。
鏡が確かめるようにその美しく端正な顔を映し出すと、瞬き程の間を置いて鏡の中青い瞳が微かな光を放った。
瞬間、鏡はちらちらとした銀の光に姿を変えた。
光は泡立ち、すうっと浮かび上がるように壁を滑る。銀の波が上へ下へと広がっていき、描き上げたのは楕円の扉。
磨かれた鏡のようでありながら、何も映すことはなく壁の上でゆらりと揺れる光の扉に、ディリアは表情を変えぬまま踏み出した。
水の幕にも似た光が確かめるようにディリアの体をなで、きらきらと流れ落ちながらその身を受け入れる。
扉をくぐると、細く短い一本の道があった。
壁も天井も夜の闇のように深い、ビロードのような質感の黒。
その中に、夜空に浮かぶ星のようにぼんやりと輝く石がいくつも埋まっている。
紫、緑、琥珀色、鈍い青に錆びた赤…混じることのない僅かな光が一面に散らばり、ほのかに辺りを照らしていた。
足下には円形の光が通路の奥にある紫色の扉へと一直線に並んでいて、壁と天井に埋まった石とともにゆっくりとその光の強さを変える。
それぞれが一定のリズムで強く弱く…呼吸するように瞬くように光る。とくん、とくんと、ディリアの鼓動と呼応するように。
美しくぼやけた空間の中、光を渡るように進むディリアに表情はない。
自分の鼓動の音が聞こえ、反射的に抑える。この光はいつも彼女にとっての警告だった。
睫毛の影を押し上げた視界に入るのは、つるりとした深い紫色の扉と、その中央にはめ込まれたドアノックだけ。
振り上げた腕を止め、ディリアは唇を噛んだ。
躊躇しているのか、急いているのか。味わったことのない感覚に乱される自分がいるのは何故なのか。
(嫌ではない… でも)
一瞬で終わる事だって、ある。
いつだって最悪の事態を想像しなければいけない。頭の中で反芻しながらドアノックの取っ手を強く握る。
剥がれた金と黒が滲む金具は人の顔を模していて、開いた口から伸びる環状の取っ手は茨の棘を模したもの。
血が流れない程度の痛みでも、無いよりはいい。白く細い指に棘をくい込ませて、ディリアは扉を叩いた。
「来たか」
淡い紫の光で満ちた部屋の中でサアバが言った。
脈打つように光る無数の模様が壁一面に描かれた円形の部屋。床の中心から広がるのは幾重にも重なって描かれた円陣。
円に絡み合うような幾何学的な模様と文字もまた、淡い紫の光を放っている。
一つの生き物であるような陣の中央、部屋の中心となるその場所には簡素な寝台が置かれ、
黒髪の少年が上体を起こしてそこに入っていた。長い前髪の隙間から覗く瞳は漆黒である。
寝台から一歩下がって立っているのは、一人の少女。
少女の名前はリン。少年をここへと連れて来た、どこからともなく響いた声の主こそがこの少女だった。
高い位置で束ねられた髪は燃えるような赤で、腰の下まで長く弧を描くように降りていた。
右頬には逆三角形の赤茶の模様があり、両の耳はぴんと尖っている。
袖のないぴったりとした赤い服の下に同じくぴったりとした赤茶色のズボンをはいた少女は、すらりと細く美しかった。
思慮深い金色の目はじっと前を見て動かない。
リンから少し離れた壁際に座っているのは、二人の男。
一人はサアバであり、その隣の男の名はオッツ。
サアバとは対照的に日に焼けた肌には、古い傷の跡がいくつも残っている。
磨かれた筋肉で出来たたくましい体に似合う、ツンツンと尖った短い髪は灰とも黒とも言える色だ。
眉の太いがっしりとした顔つきは一見強面に見えるが、深緑の瞳は丸く少年のような輝きを持っている。
色褪せた袖のない上着を着てだぼっとしたズボンを履き、どんと足を開いて座る姿、どこをとってもサアバとは真逆だった。
「いいのか」
本当に?と言いたげに眉をひそめ、オッツがサアバに尋ねる。
「あぁ。姫が来なきゃ始まらん」
扉から視線を移さずそう言うと、サアバは組んでいた長い足をおろし立ち上がった。
神経質な靴音をならして扉の前に歩み、横にある小さな四角い石に触れる。
石が一瞬鈍く輝き、その光が失われると同時に、紫色の扉が七色の光を帯びた。一段と強い光の線がうねるように扉を走る。
光の線が扉の上まで辿り着くと、幕が下りるようにするすると、扉が光の粒となって消えていった。
その向こうから、ディリアが前に出た。淡い紫の光が白い肌を照らす。
ディリアはまっすぐ前を見た。部屋の真ん中にある小さな寝台。その上の少年をディリアは見た。
黒い髪の下の黒い目を、吸い込まれるように、ディリアは見た。
黒の瞳に青の目が、青の瞳に黒の目が映った。
世界が、回った。
何が起こったのかディリアにはわからなかった。闇の中に白くまばゆい光が見えた。
(な…)
熱い息がのどを通る。駆ける光の矢が胸を焦がす。
(これは、何…)
何かが込み上げる。胸を押し上げて、溢れ出る。
私は、私は。
心の奥で言葉が声を上げる。降り注ぐ光の雨。激しい雨。胸が焦げる。
知っている、と誰かが言った。わからない。どうして。
その時世界には二人しかいなかった。二人しかいない。そう、確かにディリアはそう思った。
でも誰が。誰がいるというのか。
(わからない。私は何が…何がわからないの)
胸に落ちる無数のしずく。広がる波紋。光の中に見える影。
ディリアは手を伸ばそうとした。遠く近く届きそうな手。だが体は動かない。
(待って…)
声にならない声。胸に落ちる涙。
(いかないで…)
声は出ない。闇が覆う。光が矢のように遠ざかる。
そこにあるのはただ黒い瞳。深い闇のような両の目。
「ディリア様…?」
リンが思わず、心の中で主の名を呼んだ。
いつもなら自分は目の前の者…少年に全神経を注ぐべきであったが、今回は違った。
部屋に入った瞬間、ディリアははっとしたように目を開き、金縛りにあったように動かなかった。
まばたき一つせず少年を見つめたままのディリアを見て、リンが不安そうに眉根を寄せた。
あなたは
ディリアの唇からかすれた声が漏れた。
だれ…
熱い息とともに、言葉が出た。のどが焼けるようだった。やっと聞き取れるほどのかすかな声。
部屋に奇妙な沈黙が流れた。ディリアの顔を覗き込むように見ていたリンの顔に戸惑いが浮かぶ。
サアバとオッツがほんの一瞬目を合わせた。
「…ごめんなさい」
夢から覚めたようにまばたきをしてディリアが呟いた。
波が引いたように、体に感覚が戻っていた。体を廻る血の音。鳴り響く鼓動。
(今のは何…)
ディリアは息を吐いた。吐き出す息はまだ熱かったが、のどが焼けるような感覚は消えている。
(まただ)
ディリアはもう一度息を吐いた。もう息は熱くなかった。
ほんの数秒前のことが遠い昔に感じられる。
胸を焦がすようなあの感覚は、もう思い出せない。
ディリアはまばたきをして辺りを見た。視界の中にサアバ、オッツ、リンの表情がはっきり見えた。
褪せていく記憶。光は夢の中へと消えてしまった。
ディリアは視線を少年へ戻す。黒い瞳はじっとディリアを見て動かない。
再びディリアと少年の目が合ったが、今度は何も起こらなかった。
ディリアは少年の目を見たまま、寝台の方へと歩き出した。少年はディリアから視線をそらし、組んだ指先を見た。
自分を見ても少年に何も起こらなかった。
”まずは、安心だ”
いつもならディリアも…皆そう思うはずなのに、今回は違う。
「大丈夫よ、リン」
誰よりも神経を尖らせている従者の方を見て、ディリアは心の中で言った。
大丈夫…そう、少年の両手首には銀の輪とそれを繋ぐ長い鎖…それだけだ。
(大丈夫…)
確認して、今度は自分の中だけで言ってから、ディリアは斜め前に立つサアバに視線を移した。
「どうぞ、姫」
サアバがいつもと変わらぬ表情で発した言葉に驚いて、ディリアは瞬間的に少年を見た。
視線に気付いた少年は横目でディリアの方を見て、またふいと視線をそらす。
わからない
ディリアはまっすぐ寝台の方へ向かいながら思った。
わからない…
ざわりざわりと胸が鳴る。本当に、こんなことは初めてだ。
ディリアが寝台の横に立つと、少年が見上げた。無表情なその顔は、サアバのように無機質ではなかったが、
感情が読み取れない点では同じだった。ひと呼吸おいても言葉を発する素振りを見せない少年に、ディリアが口を開く。
「私はディリア」
じっと、深く黒い瞳を覗く。
名を告げても何一つ揺らぎのない少年の目に一体何が映っているのか、ディリアにはわからなかった。
「…あなたは?」
思わず急いて尋ねた問いに、少年は答えない。ただ、見上げていた視線を下に落とした。
話すことが出来ないのだろうか、ディリアの中にそんな思いがよぎった瞬間、少年が口を開いた。
「わからない」
低めの声で短く告げて、少年は再びディリアを見る。
黒い瞳に捉えられて、ディリアの胸が再びざわついた。少年の言葉が頭の中でこだまし、重なる。
わからない…?
「それが問題です」
言葉を探していたディリアの後ろで、サアバが言った。
ディリアが振り返り、扉の横の壁にもたれ立っているサアバを見据えた。
「彼には」
いつも通り抑揚のない、無機質な声
「いっさいの記憶がない」
サアバの呟くような小さな声が、静かな部屋に奇妙に響いた。
沈黙が流れた。
ディリアはゆっくり振り向き、改めて、自分と同じくらいの歳の少年を見た。少年もまた、ディリアを見た。
漆黒の瞳。深い闇のように、底のない黒。少年の顔からはやはり何の感情も読み取れない。
二人は無言で見つめ合った。
何故かディリアは、雨を思い出していた。胸の中から雨の音が聞こえていた。
ザアァ…ザアァ…
それがどうしてだったか、ディリアにはわからない。
しかしディリアはその時、ぼんやりと考えていた。
今日は雨が降っていたのだ、と。
第1節 了
第2節へ続く