第1節 雨2
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大きな本棚と大きな机、大きな棚がいくつもある大きな部屋。
埃っぽい廊下を抜けた奥にあるその部屋は雨の音も遠く静まり返っていた。
本棚には種類ごとに分けられた本が几帳面に並べられている。
机の上には歴史書や魔術書、古代文字の本などがきっちりと積まれ、色褪せた古い地図が端を揃えて置かれていた。
棚にはそれぞれ色も形も大きさも異なる石がすきまを埋めるように置かれていて、薄暗い部屋の中でかすかな光を放っている。
広々とした部屋のほとんどは膨大な資料で埋まっているが、その全てが整然と並べられているので圧迫感はないのだが…
どこか息苦しさを感じさせるのは、部屋の主の性格の問題かもしれない。
扉の近くにある比較的小さな机と椅子。いぶした銀の装飾がなされた古い椅子に、この部屋の主である男が座っていた。
首の上まできちんとボタンを閉めた白いシャツを黒い細身のズボンに入れ、その細い腰に黒のベルトをきっちりと閉めている。
一瞬女性かと疑う程の、端正な顔つき。楕円の眼鏡の下にある銀色の目には長いまつげの影が落ちていた。
首の後ろで一つにくくっている髪は目と同じ薄い銀の色で、背中から腰までを絹の帯のように艶やかに垂れている。
長く骨張った指が本のページをめくると、右手の人さし指にはめられた銀の指輪の中央、赤い石の光が揺れた。
ふと男は顔を上げ、視線を扉の方へ移す。
数秒間が空いた後、コツコツと扉を叩く鈍い音がした。
「どうぞ」
表情を変えずに男が言うと、ぎしりと重い音とともに扉が開く。
透き通るような白い肌に、輝く金の髪と深い碧の瞳を持った少女。ディリアがそこに立っていた。
その表情を見て無表情な男の眉が微かに動く。
「どうしましたか、姫」
静かに響く声は中性的でどこか無機質だった。
「サアバ、これから結界室を開けるわ。西の森、エルザルの木がある辺りに男の人が倒れていた。
今リンがその人を連れてこっちへ向かってる」
ディリアはまっすぐ男の目を見て言った。雨の音がはるか遠くに聞こえた気がした。
一瞬の沈黙。部屋の主であるサアバの、切れ長の目が探るようにディリアを見る。
「人が倒れていた…と?」
「突然だった。ありえないけれど、そこにいたのよ。外傷はないけど、意識はないらしいの」
ディリアは静かに、強く響く声で言った。サアバは座ったまま無言で息をつき、視線を落とす。
「…危険な感じはしないわ」
ゆっくりと念を押すようなディリアの声に、銀の睫毛を数度合わせて。
「いいでしょう」
小さくそう言うと、サアバは顔を上げてディリアを見た。今度はディリアの目が一瞬探るようにサアバを見る。
温度を感じぬ瞳からは何の感情も読みとれない。
それでも拾い上げるものが何かないかと、少しの変化も見過ごさないよう碧い瞳が身構える。
そんなディリアの視線を軽く外して、サアバはパタリと本を閉じ立ち上がる。
「結界室を使いましょう。ケイトに手伝ってもらいます。しかし」
絹糸のような銀の髪がなびき、ディリアの前で止まった。長身のディリアが少し見上げる位置にある、サアバの顔。
不健康そうに見える程の肌の白さが、この男の無機質さに一役かっているようで憎らしいと、いつもディリアは思う。
「私がいいと言うまで、ディリア様は絶対に入ってこないように。睨んでも駄目ですよ」
睨んだつもりはさらさらなかったが、常日頃思っていることは伝わってしまうものなのかもしれない。
「…わかったわ」
冷たい銀の目をきっと見据えてディリアは言った。どこか苦々しい響きを、感じ取れるように込めて。
その強い視線をまた軽く流し、コツコツと靴音を響かせて、サアバはディリアの横を通りすぎる。
碧い目の端に無表情な横顔とたなびく銀色の髪が映った。
苦々しく思う程いつもと変わらぬ規則的な靴音が遠ざかって消え、ディリアはふーっと息を吐いた。
主のいない部屋には静寂が訪れていたが、ディリアには雨の音が聞こえていた。
頭の中で響く雨音は、変わらず激しい。目を閉じると、体の中に冷たい雫の粒が当たる。
「人…」
呟いて、胸の中に広がる違和感に、ディリアは薄く目を開けた。
(そんなはずはない)
一瞬浮かんだ考えを否定して踵を返す。
(人でなければ何だっていうの)
細い指が、重い扉を閉めた。きしむ音が、ディリアの問いと重なる。
(人でなければ…)
ディリアは思いながら、薄暗い廊下を音もなく歩いた。どうしようもなく胸がざわめく。
様々な想いが、雨に打たれ波打つように浮かんだ。胸を打つ雨の音。広がる輪は増えていく。
ゴーーーーーーーーン………………
突如高い鐘の音が頭上から響き、ディリアの意識を引き戻した。
「ディリア様。ただいま戻りました」
鐘の音が余韻を残す中、どこからともなく声が響く。
「ありがとうリン。そのまま結界室に行って。サアバが待ってる」
ディリアは素早く言い歩を進める。「はい」という短い声が応えて消えた。
薄暗い廊下を早足に進むと、雨の音がだんだんと近付いて来る。
ディリアは長い廊下を抜け、入り口が金色に縁取られた扉のない広い部屋に入った。
中央に大きなテーブルがあり、それを囲むように大きなソファーがいくつか置いてある。
ディリアはその一つに腰をかけて左手にある四角い窓を見た。
窓から射す光はわずかだったが、薄暗い廊下に慣れた目にはひどく明るく映った。
雨はいくぶん弱まったものの、まだ白く視界を滲ませている。
ザアァ…ザアァ…
ポツ…ポツ…
地を打つ雨と外郭から落ちる雨の音が重なって、他には何も聞こえなかった。
(考えてもしかたない)
ディリアはゆっくりと息を吐く。雨の音とともに時が流れた。
何度目かの長い溜息の後だった。
聞き慣れた足音が部屋に近付いてきて、ディリアは顔をあげた。少しして、入り口から明るい茶髪の少年が顔をのぞかせた。
「お疲れさまケイト。ありがとう」
柔らかな労いの声に軽い会釈を返すと、少年は部屋に入りディリアの向かいのソファーに腰を下ろした。
「俺と同い年くらいの奴なんですね」
明るい茶色の髪がつんつんと上を向き、髪と同じ色の明るい茶色の目が人なつこそうに輝く少年。名はケイトと言う。
「そうね」
いつもと変わらぬケイトの顔を見て、ディリアはどこかほっとしたような和らいだ表情で応えた。
ケイトと同い年ならばディリアとも同年齢ということになる。2人の年は15。今年16になるところだ。
「何があったんですか」
「サアバに何も聞かなかったの?」
ケイトがあまりにも何気なく聞いてきたので、ディリアは少し驚いて問い返した。
「何も。あ、ずぶ濡れでしたけどちゃんとサアバ様が処置していたから大丈夫ですよ、一応」
心配ありませんよ、というようにケイトは明るく笑った。
「…ありがとう。よかった」
深入りはせず心を汲んでくれるケイトに抱くのは感謝と少しの罪悪感。
胸を覆っていた鉛色の霧は晴れていくのに、思わず苦笑が浮かんでしまうのは、仕方のないことだろう。
ケイトにだから、サアバには言えなかったことも言える。そう思い、ディリアは明るい茶の目を覗き込んだ。
「西の森にあるエルザルの大木、わかる?」
「あぁ、あの幹がぐねぐねしたでっかい木でしょう」
「そう、その木の近くに倒れていた」
「なんでそんなところに?」
「わからない…。私が感じた時はもうそこにいた」
「…普通は森に入った時点で気付きますよね?」
ケイトの問いを繰り返すように、ディリアはゆっくりと言った。
「そう。普通は森に入った時点で気付くわ…でも彼はそこにいた…森の入り口からは遠く離れた場所に…」
「どういうこと…ですか」
戸惑いを浮かべながら、ケイトが幾度目かの問いを投げ掛ける。
「そうね…わからないの…」
テーブルの上に視線を落としながら、ディリアは呟いた。いつの間にか雨の音は弱くなっていた。
「危ない奴じゃないんですか」
「危険な感じはしない…嫌な感じはしないの。ただ…」
ディリアは言葉を切った。記憶が過る。一瞬の強い光…光の中に見えた何か…そう、確かに何か見えた気がした…
奇妙な感覚。胸に落ちた何か…
「ただ、何です?」
少し険しくなったディリアの顔を見てケイトが怪訝そうに聞いた。
ディリアは一瞬黙って、静かに言った。
「普通の人ではないかもしれない」
「そりゃ普通じゃないですよ。普通なら来れない場所に居たんですから」
今更何言ってるんですか、というようなケイトの反応にディリアは思わず笑ってしまった。
言ってしまった言葉の真意にケイトが気付いていないことに内心ほっとして。
「うん…そうね、それで結界室に入れたの」
「でも城内に入れて…大丈夫なんですか」
「そうね」
ディリアは窓を見た。ケイトも同じく窓を見ると、雨は小降りになっていた。
胸を打つような雨の音は消え、空には光が戻り始めている。窓から射す光の色にも若干の温かさと柔らかさが混じっていた。
「さっきのような雨じゃなきゃもっと考えたかもしれない。私が直接行って、それからどうするか決めたかもしれない」
ディリアはサァサァと降る雨を見つめて言った。
「あぁ…。珍しい天気でしたね」
「そうね…」
「珍しい天気の日に、珍しいことが起こるなんて」
ケイトはそう言ってディリアの方に視線を移した。ディリアはまだ窓の向こうを見つめている。
「これからあいつを…どうするんですか」
「わからない」
ディリアは俯いた。空は晴れても、ディリアの心にはまだ雲がかかったままだった。
ケイトとの会話でだいぶ薄らいだものの消える事はない厚い雲。
しばらくの間二人とも何も言わなかった。時が流れ、静かな部屋に雨音はもう響かなかった。
窓から強く明るい光が射し込み、ケイトが顔を上げる。
さっきまでの雨が嘘のように、雲はどこかへと散ってしまった。空には明るい青が輝いていた。
雨は、止んだのだ。
「晴れましたね」
窓から射す強い光に少し目を細めてケイトが言った。
「ええ」
まるで嘘のように広がる青空をぼんやりと見ながらディリアが返した。
ディリアもケイトも知らない。雨が止み光が射したその時、一人の少年が目を覚ましたことなど。
サアバもリンも気付かなかった。その二人と共にいたオッツという男も気付くことはなかった。
無数の模様と陣が描かれた結界室には窓もなく、外の音も届かない。
だからその部屋で目の前の少年が目を覚ました時、同時に雨が上がったことなど、誰一人として気付くことはできなかった。
雨は、上がったのだ。
続く