第1節 雨
雨の度に探す落とし物
橋は架かったのに渡ることはできない
空の旅に探す落とし物
端から端まで見渡してあなたを探すのに
私の影しか見つけることはできない
------ 第1節 雨 --------------
あの日は、雨が降っていた。
突如降り出した雨の音に、ディリアは読んでいた本を置き窓へと視線を移した。
くすんだグレーの空に厚い紫色の雲が浮かんでいて、雨が白い矢のように降り注いでいる。
「珍しい…この時期にこんな雨なんて」
ディリアはぽつりと呟いてから席を立ち、窓の方へと歩む。
小さな銀色の鍵をはずし手を伸ばすと、大きな雨粒が細く白い指先を打った。
季節は春。芽吹いた緑が大地を覆い、暖かな陽光が花々を照らす季節。
この季節、緑を潤すささやかな雨が降ることはあっても、このように強い雨が降るのは珍しい。
雨はどんどん激しさを増し、昼の明るさを消していた。
霧がかかったように霞んだ森を見つめながら、ディリアは濡れた手で窓を閉め、本が高く積まれた机に向き直る。
一歩踏み出し、ディリアは動きを止めた。腰まである金色の髪がさらりと揺れ、青く澄んだ瞳に一瞬光が宿った。
雨が落ちるように、意識に波紋が広がっていく。
本が積まれた机も、その後ろの本棚も、壁も、ディリアの目には映らない。
まぶたの裏で闇に浮かんだ光の点。森の中で青白く光る何かを…目を閉じたまま、ディリアは見ていた。
(なに…)
拳を握り、額に当てる。張り巡らされた意識が一点に集まり、そこに辿り着いた瞬間、何かが強くまばゆく光った。
ディリアははっとして目を開けた。
(今のは…)
瞬時に体に広がった奇妙な感覚。一瞬だった。そう…ほんの一瞬、強い光の中に何かが見えた気がしたのだ。
一二度まばたきをしてから、ディリアは再び目を閉じた。
鈍くぼんやりとした青白い光が靄の奥に見える。
身体の中の回路を繋ぐようなイメージ…遮るものを消していくにつれ、光の輪郭は鮮明になっていく。
その正体を認識できた時、ディリアの体に力が入った。整った眉が怪訝そうに寄り、閉じたままのまぶたは微かに震えた。
頭の奥に意識を留めたまま目を開くと、ディリアは自分の前の、誰もいない空間をまっすぐに見つめて言った。
「リン」
呟くようなその声には、激しい雨の音を打ち消すような不思議な強さがあった。
「はい」
ディリアの前には確かに誰もいなかったが、どこからか応じる声が響く。
「リン、西の森に行って。城から25.3km。エルザルの大木がある辺りよ。人が倒れている」
ディリアは誰もいない空間を見つめたまま、毅然として言った。雨の音が部屋を包む。
「はい」
短く応えたその声にはかすかな当惑が交じっていたが、それ以上言葉はなかった。
雨が強くなったように感じたのは、静寂が戻ったせいだろうか。
ディリアは向きを変え、再び窓の方を向く。
ザアァ…ザアァ…
雨音が頭の中に響く。胸の中がざわざわと揺れる。
窓の向こうに広がる森は雨で白く煙っていた。そこに映る自分の姿に、ディリアは手を重ねた。
冷たく潤んだ空気をすうっと吸い込み、ゆっくりと目を閉じる。
まぶたの裏に映された景色。森の中に人が倒れている。10代後半であろう、黒髪の少年。雨に濡れた髪に隠れて顔は見えない。
(さっきのは何だったの…)
ディリアは拳を握りしめ、ほんの少し前の記憶を呼び戻そうとした。
一瞬見えた光。光の中に何かが…確かに何かが見えた気がした…
あの時の感覚はなんだったのか。奇妙な、とても奇妙な感じがした。胸の奥に雨が落ちたような、あの感覚…
(見えない…)
眉を寄せて、首を振る。目を開いても、見えるのは白く眩しい雨だけ。
(すこし前のことなのに…)
記憶はどんどん褪せていき、思い出そうとすればするほど、あの時の感覚から遠のいていくようだった。
いや、今考えるべきはそこではない。少年が倒れていたのだ。ありえない場所に。
(こんなこと初めてだわ)
思わず唇を噛む。そう、少年が倒れていたのはありえない場所だった。雨の音が頭の中を掻き乱す。
叩いて、跳ねて、跳ねて… 体を撃つ…
ディリアが意識に問いかけたその時だった。
「見つけましたディリア様。外傷はないようですが意識がありません。持ち物等は見当たりません。どう致しますか」
どこからともなく響いた声が、雨の音を打ち消した。ディリアは窓越しに降りしきる雨と、自分の険しい顔を見た。
ザアァ…ザアァ…
目をとじれば、雨は一層強くこだまする。まばたきの裏に雨を映して、ディリアが呟くように言った。
「ここに連れて来て」
ザアァ…ザアァ…
また一瞬、雨が強く響く。
「しかし、それは…」
応えた声は、当惑したように言葉に詰まった。
「急いで。この雨の中放ってはおけないわ。サアバには私が話す」
「しかし城内へ入れるのは…」
「リン、そんな所にいた人を王都内へ入れるわけにはいかない。それに…どうするにしろ、私が会わなければ」
ディリアの声に力が入った。
「…わかりました」
姿のない声の主は、思慮深い声で応じた。
「今すぐそちらに向かいます」
「わかった。用意しておくわ」
ディリアは息を吐いて、踵を返した。が、前に進もうとした瞬間歩を止め、ふと口を開いた。
「リン」
「はい」
「人、なのよね」
「はい、人ですが」
ディリアの言葉の真意を問うようなリンの声が響く。
「…そうよね」
「なにか?」
リンの問いかけに対し、頭の中にあの一瞬の光が浮かぶ。
「…なんでもないわ。わかっていると思うけど、一応気をつけて」
そう言い、ディリアは何かを振り切るように歩み出した。
「はい」
短い返事が返り、それきり会話は途切れた。ディリアは無言で部屋を出た。部屋の中には雨の音だけが残った。
(一応気をつけて…)
歩きながら、胸の中で反芻される言葉。
いつもなら真っ先に浮かぶ感情が何であったか、何であるはずなのかを、ディリアは知っている。
それなのに、何故その思いが浮かばないんだろう。季節外れの大雨に惑わされたかのように…。
ザアァ…ザアァ…ザアァ…ザアァ…
雨は降り続く。ディリアの胸を叩くかのように。強く、強く。
続く