おはようが聞けたなら
居眠りをしていたことに気づいたのは、下校時刻すれすれだった。
誰もいない教室には既に夕日が射しており、運動部が騒がしく慌ただしく廊下を駆けていく。それをぼんやり聞きながら、伸びをする。やろうとしていたワークのノートはグシャッとページにシワがよっていて、何なら紙の付け根は破れてさえいた。苦笑いしてページを引っ張り、閉じる。
付けていたカナル型イヤホンからは、聞いてもいなかった英単語が流れてくる。睡眠学習も虚しく、リピートしていたはずの単語集二百三ページの語群は微塵も意味がわからなかった。
時間は切羽詰まっているのに、だらだらと身支度をする。次第に廊下も静かになってきた。
サーっと風が吹いて、黄色く染まった銀杏の木から数枚の葉が零れる。立て付けの悪い古びた窓はガタガタと鳴って、僕を叱りつけた。
目を閉じる。わーんと、耳の中に無音が反響する。風の音がそれを書き消して、また無音が追い越して、それを数度繰り返す。僕は机に突っ伏した。
「そろそろ帰るんだぞー」
「……はい」
やる気の無さそうな声で、担任が僕にそう言った。僕は生返事をした。それでも立ち上がる気にはならない。何ならこの夕日の中でもう暫し微睡んでいたい。
放送機材から、微かな砂嵐が流れてきた。ハッとして僕は顔をあげる。
『下校時刻になりました。まだ校内に残っている生徒は、速やかに下校しましょう。繰り返します──』
りんと鈴のなるような声が僕を机から立たせ、荷物を背負わせた。特に何か変わるわけでもないのに、僕は鞄を背負いながらスピーカーを視る。
鈴はもう一度鳴った。今度はぼくの顔をスピーカーから逸らさせ、足を教室の出口へと向かわせた。電気を切らせることは忘れてしまったようだった。放送室の前を、何故だか足早に通りすぎさせる。何か目に見えない力が、僕が近づくのを阻止しようとしている。丁度同じ極の磁石のように。
靴箱の手前のスピーカーを、もう一度見上げる。彼女は最後にこう言った。
『さようなら』
さようなら。独り言ちて、慌てて周りに誰もいないことを確認する。スリッパを蹴飛ばすように脱いで、なかなか外れない靴箱の鍵にやきもきして、それから逃げ出すように校舎を出た。
もしも。いつも考える。自分を学校に引き留め、そして今や追い出そうとするこの声を交わしてみたい。
もしも、もしも──。