3-2
水煙草の煙る店内へダイアンが顔を出したのはそれから三日後のことだった。
「随分と遅かったじゃないか」
店の主は首を傾げる。
「うん、ちょっとね。
本業の方が忙しくて、出てこられなかったのよね」
琴を片手にダイアンは主の側まで進む。
「それで? あいつはどこ? 」
男の顔を覗き込むようにしてダイアンは金貨を手渡し次いで店の中を見渡した。
「残念だったな、これでも一生懸命泊まっている宿とか何時までこの街にいるかとか聞き出したんだが、何も引き出せなかった。
オマケに昨日から姿をみせねぇ…… 」
男は淡々と言う。
「やっぱり…… 逃げられたぁ」
ダイアンは頭を抱え込む。
本当はすぐにでもとんできたかった。
ところが、あの日以来皇妃の機嫌が全く直らなかったのだ。
事あるごとに小間使いや侍従が怒鳴られる。
おかげで皆すっかり縮み上がり、ダイアンは昼夜皇妃の側を離れられなくなった。
寝不足の重い躯を引きずってようやく抜け出してきたと言うのに……
「いや、お前のところに行かなかったか? ディア」
その顔を横目に店の主が訊いてきた。
「あたしのところ? 」
「ああ、なんかな、『月の名前の歌姫』の居場所を教えろって訊いてまわってたぞ。
絶対この王都に居るはずだからって」
「それで? あたしの居場所教えたの? 」
「ああ、一応な。
その『歌姫』ってのが、お前さんかどうかはわからなかったが、オレは他に『姫』を連想させる若い女の詩人を知らないから……
もっともお前さんの所までたどり着けたかどうかは謎だけどな」
男は苦笑いを浮かべる。
「だいたいなぁ、オレらそもそもお前さんの居場所知らないじゃないか。
楽器屋のオヤジに託を頼めば連絡がつくって……
その楽器屋のオヤジはお前さんがどこの誰なのか絶対に口を割らないし」
「それは…… 」
ダイアンは口篭もる。
……まさか「住まいは王宮です」とは、言えるわけがない。
特にこんな場所に住んでいる人には。
言ったところで信じてもらえるとは思えないし。
信じられたら今度は、「おとといきやがれ」になる。
「え? 今、居場所を訊いてまわってたって言った? 」
「ああ…… 」
男の答えにダイアンは首を傾げる。
あの男が娘の居場所を知らない訳がないのだ。
何しろ娘の居場所を決めたのはあの男自身なのだから。
「もしかして……
爺様の、方? 」
「そうだよ。
あんたの言ってた紫に透ける変わった髪色の中年男じゃなくって、ぼろを纏った髭の長い老人のほうだ。
誰なんだよ?
どう見たってお前さんとじゃつりあわないって言うか、繋がらないって言うか…… 」
みすぼらしい身なりの老人と、いかにもいい暮らしをしていそうな若い女のギャップに男は興味津々だ。
「ん? でも、詞だけは一緒だったような……
一曲ここでも吟じてもらったんだがな、よぼよぼの年寄りとは思えないようなすごい声で……
お前さんが詠った時みたいに皆黙って聞惚れるんだよな」
その声を思い返したように主人は一人で何度も頷いている。
「あたしの子供の頃のお師匠様よ。
ありがとう、助かったわ」
言うとダイアンは店を飛び出した。
「師匠なら、父さんの居場所、知ってるかと思ったんだけどな」
道を歩きながらダイアンは呟く。
あの老人のことだ、昨日から姿を見ていないとすればもうこの都には居ないだろう。
三年も一緒に暮らしたから充分にわかっているが、とにかく行動が早い。
今日の夕方には隣国の王都に居てもおかしくない。
かと思えば人の通わないような山奥に三ヶ月以上も篭ってテコでも動かないこともある。
見つけたら意地で捕まえないと、次に何時遭えるのかわからない。
その老人を逃がしたことで、気落ちしすぎて視線が知らずに下を向く。
「おい、どこに行く気だ? 」
呼び止められて顔をあげると黒髪の男の姿がある。
「セリム…… 」
まずい……
ダイアンはひらきかけた口を閉じ何事もなかったかのようにくるりと男に背を向けると来た道を戻りだす。
「逃げるな、コラ!
通りすがりの他人のフリしたって無駄だからな」
腕をとられ振り向かされる。
「その……
戻るから、今すぐに…… だからっ、その…… 」
うろたえながら男の腕を振り解こうとするが何分男の力は強い。
もがけば掴まれた痛みだけが増殖する。
「今、すぐに帰ってもらわないと都合が悪いのは確かだ。
来い」
男はもがくダイアンの腕を掴みあげたまま歩き出す。
「どこ行くのよ! 帰るには方向が…… 」
男が腕を引っ張る方向はいつもダイアンが出入りしている裏門付近の塀ではない。
むしろ逆の表向きだ。
「いいから、おとなしく来るんだよ。
今裏から入るのは非常に都合が悪いんだ。
それともお前、もう二度とあそこから抜け出せなくなってもいいとか? 」
男がぶつなりながら訊いてくる。
「それは…… 絶対、嫌! 」
流れで思わず叫ぶ。
次いで口を噤んだ。
これ以上何か言うと絶対まずいことを口走りそうだ。
裏門付近の塀を乗り越えていることとか、本当ならとぼけ通しておくほうがよかったはずなのに、思わず暴露してしまった。
「皇妃がな、お前が居ないって今ヒステリーの真っ最中なんだよ」
男はダイアンの口が閉じたのを確認して言い聞かせるように言うと、大きく息を吐く。
「やっぱりぃ…… 」
うめくように呟いてダイアンは男の顔を上目遣いに覗き込む。
連絡に気が急いて皇妃の機嫌が小休止なのを直ったと見誤った。
自分の落ち度だ。
「いいか、今日はお前のこと俺が連れ出したことにするから。
皇妃の前に出ても余計なことを言わないで黙っているんだぞ」
宮殿の門の前までくると衛兵に聞き取れないように小さく耳元で囁かれた。
「ディアーヌ! 一体どこに行っていたの? 」
きんきんと響く声が頭上を通り過ぎ、ダイアンは身体を竦ませた。
第二皇子に付き添われ、いかにも堂々と宮殿正面正門から外出し、正門へと戻った風を装って表向きから入ってくると、男の言葉どおり、皇妃は頭に血を上らせた真っ最中だった。
相当腹立ちで、誰も手がつけられなかったと見え、いつも躯を横たえている寝椅子のクッションは床に転がり床の敷物はずれている。
今朝まで部屋の片隅を飾っていた異国渡りの華美な香炉が姿を消している。
そのせいか部屋の中には香の香りと重なって灰の匂いが充満していた。
いつも側に侍っている人間は部屋の外に退避し、そっとこちらの様子を伺っていた。
「俺が連れ出したんだよ」
その様子にあきれ果てたような顔をし、男はあからさまなため息を一つついて見せると言う。
「何ですって? 」
皇妃のこめかみ辺りが引きつった。
「あなた……
わたくしの許可なくわたくしの侍女を連れ出したというの? 」
押し殺した声のトーンが徐々に大きくなる。
「わたくしの侍女よ、あなたにそんな権利は…… 」
「ごめんなさい! 」
その様子に見るに見かねてダイアンは口を挟んだ。
「わたしが頼んだの。
連れて行って欲しいところがあるって、無理をお願いしたのはわたしなんです」
「おまえ、が? 」
上がりきっていた皇妃の眉が少し下がった。
「どうして、そのような…… 」
ゆっくりと皇妃は足元に跪くダイアンに向き直った。
「えっと、そのぉ…… ですね…… 」
言ったもののその後の言葉が続かずにダイアンは視線を泳がせた。
「その? なんなの? 」
皇妃の片眉がまた上がる。
「その…… 、そう…… 」
「ゾウ? 」
言いよどんだダイアンの言葉を皇妃は聞き違えたようだ。
「そう、ゾウ!
市場の入り口にゾウが来ているって聞いて、どうしても見たくて…… 」
頭の端に、都合よく先日抜け出した時に市場の片隅に繋がれていたのを見かけた巨大な生き物の姿が浮かぶ。
「ゾウとは、酔狂な……
おまえいくつになったの? そんな子供のような好奇心を丸出しにして…… 」
呆れたように呟く。
嘘をついているのは心苦しかったが、これで皇妃の怒りをセリムから逸らすことができたと、ダイアンは胸をなでおろした。
「ゾウなど、見たければわざわざ出かけずとも、ここに召し出せばよいのです。
まぁ、いいでしょう。
めったに何も所望しない、外へも行きたがらないおまえが人に何かを頼むなど、珍しいことだし…… 」
ようやく皇妃の表情や声が落ち着いてくる。
「でも、いいこと? そういう時には次からはわたくしに相談なさい」
「はい…… 申し訳ありません」
ダイアンは深く頭を下げる。
「もういいわ。
こうして無事に戻ってきてくれたことだし…… 」
皇妃の表情が緩む。
「琴を弾いてちょうだい。
……なんだか軽い頭痛がするの」
女はこめかみの辺りを片手で押さえ込むと側の寝椅子に躯を預ける。
ダイアンは急いでその背中にクッションを差し込んだ。
傍らに立ったままになっていた男が僅かに身じろぎしたような気がして視線を向けると、苦笑している。
これだけ頭に血を上らせれば、誰でなくとも頭痛に苛まれても不思議はない。
そう思っているのは明らかだ。
抱えていた竪琴を手に取るとダイアンはそれを弾いた。
皇妃を刺激しないように一音一音を丁寧に爪弾く。
ゆったりとした音色が部屋の中に広がり、そこここに置かれた調度をかすかに震わせる。
皇妃の休息の邪魔にならぬようにとその場に居合わせた人々は、足音を忍ばせて部屋を出てゆく。
それを目に、ダイアンは爪弾く琴の音色に合わせて詠い出す。
琴の音色に消えてしまいそうな抑えた声で。
意識して耳を済ませなければ聞き取れないほどにかすかな声はそれでも微妙な振動を伴い部屋の中を漂う。
『眠りを誘う効果のある呪歌』はこういう時に便利だ。
程なく、それに皇妃のかすかな寝息が重なった。
それが深くなったのを確認してダイアンは琴から手を放すと立ち上がる。
何も考えずにぐっすりと休めば、少しは気が治まるはずだ。
皇妃の子供のようにあどけない寝顔を目に、できるだけ音をさせないようにその場を離れた。
「もう、肝を冷やしましたよ」
部屋に戻ると自分付きの小間使いが駆け寄ってきた。
「ごめん。
三日も付き合ったんだから、少しは機嫌がよくなっていると思ったのよね」
ダイアンは顔をしかめる。
「あの新参の侍女…… 内大臣の末姫様でしたっけ? が余計なことを口走るからですよ」
半ば腹を立てているといった口調で侍女は言う。
「またぁ? 」
ダイアンは声をあげる。
少女が皇妃の気を引きたくて努力しているのは明らかだ。
だが、タイミングが悪いと言うかいつもそれが裏目に出る。
「詳しくは後ほどお話しますけど、とりあえず皇妃様がお休みのうちに湯浴みを済ませてきてください。
匂いますから」
着替えを手渡しながら小間使いは言った。
今日はあの場所に居たのはそう長い時間ではなかったのだが、それでも鼻のいい人間にはわかるらしい。
「そういえば、セリムは? 」
皇妃の部屋を出るとすでに姿のなかった男の所在を思い出す。
「セリム・アブデュルハミト殿下なら、お部屋を出ると同時に表に戻っていかれましたよ」
侍女が答えた。
「そう? お礼を言えなかったな…… 」
視線を落としてダイアンは呟く。
不覚にも助けてもらった。
もしあのままいつものように裏から戻ったりしたら、どこに行っていたのかと問い詰められ、とんでもない騒ぎになっていたことは容易に想像がつく。
「また、すぐにお顔を見られますよ。
殿下なら毎晩のようにこちらにいらっしゃっているじゃないですか? 」
気を引き立てようとするかのように朗らかな声で言って女は笑顔を向けた。
「それはそれで、気が重いんだけどね」
ダイアンは笑みを浮かべた。
さすがに毎晩あの男の話を逸らすのにももう疲れてきた。
オマケに借りまで作ってしまったと来た日には……
出てくるのはため息ばかりだ。