2-3
翌朝目を覚ますと陽は完全に上っていた。
いつもと同じ乾いた熱い風が開け放たれた窓から吹き込んでくる。
ダイアンは寝台の上にゆっくりと躯を起した。
「お目覚めですか? 」
側に控えていた小間使いが声を掛けてきた。
遅い朝食を済ませた後、皇妃の居室に向かう。
「今朝は珍しく遅かったですね。
皇妃様がお待ちですよ」
入り口で控えていた侍従に言われて部屋に踏み込むと珍しい顔があった。
「おはよう。
僕らの歌姫」
向けられた笑顔に零れ落ちる砂色の髪。
第二皇子と同じ抜けるように蒼い瞳。
ダイアンは目を見開いた。
「お帰りなさい!
ザイード・アブデュルハミト・スレイマン殿下。
何時遊学から戻ったの? 」
セリムと同じく兄とも思っている第三皇子の姿を目に声を張り上げた。
「昨夜遅く都に入ったんだ」
男は柔らかな笑みをくれる。
「全く、この子は気まぐれなんだから…… 」
ふいに何の連絡もなく帰ってきたと思われる末息子に迷惑そうな言葉を向けながら、王妃の顔はそれとは裏腹に嬉しそうだ。
「おしゃべりはいいから、何か詠いなさい、ディアーヌ」
男の背後に置かれたリュートに視線を送りながら皇妃は言う。
皇妃は昔から何故かダイアンの爪弾く竪琴にあわせた第三皇子のリュートの音を事のほか好んだ。
「そうだね、久しぶりに…… 」
男は言って背後のリュートに手を伸ばす。
「何の曲がいい? 」
「では、『レナ・ヴェリスー月の都の物語』などいかがでしょう?
わたくしが詠いますわ」
一人の小柄な少女が進み出る。
確か先月ここに来た内大臣の末姫だ。
「『レナ・ヴェリス』? 」
ダイアンは顔をしかめた。
少女の伴奏をするのは全く構わないが、選曲が悪い。
湿気っぽい話を皇妃はあまり好まない。
ろくに詠わないうちに退屈し始めるだろうと簡単に推測がつく。
しかし、少女にしてみれば、一番自分が得意としている詞なのだろう。
それに反対して伴奏できない曲だと思われるのも悔しい。
ダイアンは仕方なく頷いた。
リュートを抱えた皇子に視線を送る。
男はその視線を受け弦に指を掛ける。
第一音が響くと同時にダイアンも琴の弦をはじく。
二つの音がすぐさま重なった。
程なく少女の声がそれに重なる。
幾億の星の瞬く前の月、
幾千の月が昇る前の年、
昔乙女がおりました。
輝くばかりの銀の月、その身に光を身につけて……
まるでガラス細工のようなどこまでも透き通った華奢な声だ。
ゆったりとした流れなのに、どこかキンキンと耳に突き刺さる。
そんな声がつむぎ出す昔語り。
レナ・ヴェリス、昔実在したと言われるヴェリス王国の首都。
別名『月の都』と賞される、海に浮かぶ月光色に輝く美しい都だったが数々の不幸に見舞われ後、一夜にして海に消えた。
その経緯を語った伝承……
少女は優雅にその細い声を紡ぐ。
ところが、程なくして皇妃の口から一つ欠伸がこぼれた。
ヤバイ……
ダイアンは口角を引きつらせた。
同時に嫌な緊張感が部屋に広がる。
皇妃が欠伸を漏らしたとき。
それは今行っていること、もしくは目の前で披露されていることに退屈しだした証拠だ。
一度目で手を打たないと二度目には機嫌が傾く。
部屋に居合わせた本人以外の誰もが知っている事実。
ダイアンは慌てて側に控えていた古参の侍従に視線を送る。
侍従は言葉のないダイアンの意思を受け、皇妃の視線が外れるタイミングを待ってそっと詩を吟じている少女の背後に廻ると軽く耳打ちした。
少女の声が消えるのを待ち、それを受けてダイアンは歌い継ぐ。
あたかも小鳥が囀るように胸の辺りを軽く震わせ。
その透き通った声は室内全体に深く広く広がり空気を震わせる。
添え物のようにしてかき鳴らされる琴の音がその音域を更に広げた。
……
月光色の長い髪、錦糸銀糸と散らさるる。
嘆き深し巫女姫は己が汚れた身体恥じ、
自ら命を断ち申す。
月光色の長い紙、月なき闇夜にきらめかせ
神の国へと旅立ちぬ。
愛しい人を追いかけて。
これに怒りし月神は、
もはや都を見捨てたもう。
争い深き人々よ、今こそ裁きを与えんと。
浜の水は全て曳き、音なき暗闇広がれり。
月神の力持て、海の水神の御手に集まれり。
やがて神はその水を一気に都へ押し戻す。
月夜にたたずむ島めがけ、山より高しその水は
都を一気に飲み干さん。
怒りに触れた人々は、そのまま海に飲み込まれ、
藻くずとなりて消えゆかん。
最後の一音を引いてダイアンの声と爪弾かれた琴の音が消える。
直後誰も口を開こうとはしなかった。
ただただ茫然と虚空を見つめてそこに座している。
「何? 今の水…… 」
誰かの口からこぼれる言葉。
そして誰の口からともなく深い息が吐き出される。
「……助かりました」
侍従がそっとダイアンに耳打ちした。
「相変わらず、見事だね」
ゾイドが満足そうに言う。
詩を中断させられた少女は壁際でそっと安堵の息を吐いていた。