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2-2

 部屋の片隅の暗闇がゆらりと動いた。

 

「だから、何? セリム」

 その影を見据えてダイアンは訊く。

「いや、大変だと思ってさ。

 我が母上ながらあのヒステリーによく付き合えるなって感心してやってるんじゃないか」

 何がおかしいのか男はくすくすと笑い声をたてる。

 男が暗闇から這い出したことで、窓から差し込む月の光にその容貌があからさまになる。

 漆黒の髪が月光に冴え、深海の海を思わせる深い蒼い色の瞳が色を失わずに真直ぐにこちらに向けられた。

 引き締まったしなやかな浅黒い手足を持つ若い男だ。

 

「別に、どうって事ないわ。

 皇妃様とはもう七年もの付き合いになるし…… 」

「慣れたものってか? 」

「それに、皇妃様はあたしの恩人だもの」

 ダイアンは睫を伏せる。

「恩人? 」

 男は意外とでも言いたそうな声をあげる。

「あたし、皇妃様に買ってもらわなかったら、今頃どうなっていたかわからないもん」

 

 そう、今ならわかる。

 

 フロル金貨五枚。

 それがどんなに大金なのか。

 通常流通している金貨より価値の高いフロル金貨。

 それが五枚あれば、王都の一等地に庭付きの豪邸が二軒は買える。

 

 もし、皇妃がそれを気前よく出してくれなかったら、きっと今頃場末の娼館に銅貨五枚で売り渡されていたかも知れない。

 

「別に恩を感じることなんかないんじゃないか? 

 フロル金貨五枚なんて、あの皇妃にしたらはした金だぞ? 」

 男はしれっと言う。

 

「それで? こんな時間に侍女の部屋に何の用? 

 シガ帝国皇帝第二皇子、セリム・アブデュルハミト・スレイマン殿下」

 

 向けられた瞳を睨み返してダイアンはわざと男の正式名称を言う。

 

「そろそろ、俺のベッドに来る気になったかと思ってさ」

 案の定、というか。

 予期していたとおりの言葉が返ってきた。

 だから自分の身分を自覚してもらうようにわざと男の嫌がるこの名で呼んでみるのだが、全く効果はない。

 むしろ『自分は何をしても許される身分だ』くらいにしか思っていないのだろう。

 

「セリム、お兄様。

 そういうことは他のお姉さま方に言ったらどう? 

 素敵な美姫が沢山おりましてよ」

 仕方なくダイアンは別の呼び名を持ち出す。

 

 この宮殿で暮らすことになった直後、暫くの間、ダイアンは皇妃の息子達をそう呼ばされていた。

 五歳前後ほど年の離れていた皇子達と暫くはその呼び名どおり兄弟のように暮らしていた。

 さすがにこの年齢になると血のつながりのない年上の男性をそう呼ぶのは気恥ずかしい。

 その頃から第二皇子の態度が一転した。

 相変わらず、ちょっかいを出してくるのだが今までのような単なる子供のじゃれあいに他の意味が含まれるようになる。

 本当は、この男をこの呼称で呼ぶのはバツが悪いのだが、この際そんなことを言っている場合ではない。

 わざと血のつながりがあるかのように強調して一線を引く。

 なんとかしないと、本当に男にベッドに運ばれてしまうのはわかっている。

 そしてそこまで行ったら自分に拒否権はない。

 

「おまえ、年齢の割に年寄り臭いつまらないこと言うようになったな」

 男は興をそがれたように呟いた。

 その奥で壁を一枚挟んだ向こうから誰かのいびきがかすかに響くのが耳に入る。

 

「そりゃ、七年もここにいれば…… 」

 男に気付かれないように安堵の息を吐きながら、ダイアンは寝台に置かれたショールを肩から羽織ると男に視線を向け、戸外へ促した。

 隣の部屋では小間使いが寝ている。

 その両脇には他の少女達の部屋がある。

 どこで誰に聞かれているかわからない。

 

 正直、この宮殿の奥向きは年端の行かない小さな子供が育つにはいい環境とは言いがたかった。

 行儀見習のための皇妃の侍女とは言いながら、半数は皇帝の目に止まり手がつくことを目的に来ている娘達だ。

 シガ帝国の皇帝は表向きの側室は持たないが、手がついて子供を儲けた場合は話が別だ。

 女は皇子や皇女の母として遇される。

 万が一皇妃が皇子を設けられなかった場合、もしくは皇妃の産んだ皇子がどうにかなった場合にはその皇子達に継承権の順番が回ってくる。

 そうなれば次期皇帝の母として皇妃に次ぐ権限が与えられる。

 だから女達はできるだけ皇帝の目に止まるようにと脂粉を凝らす。

 

 そんな場所に七年もいれば、すっかり馴れてしまっている。

 耳年増にもなるし、交わし方も誰に教えられたわけではないがなんとなく憶えた。

 

 ……そう、もう七年。

 

 窓から抜けて狭い通路のような庭を抜け、表向きの庭園に出る。

 風が、砂埃を伴って吹き付けた。

 砂漠を渡ってくる風は日中と変わらずに熱をはらんでいる。

 

 ダイアンが産まれた湿気の多くいつも霧に閉ざされた緑の深い森を有した国とは随分違う空気だ。


 ダイアンは建物の脇に掘られた浅い水路に足を踏み入れる。

 流れる水は日中の熱さで火照った足に心地いい。

 宮殿内の浅く広く掘られ縦横に走る水路に流された水は乾ききった空気に少しでも湿り気を持たせようと言う工夫でもある。

 水音に反応して餌をもらえると思った小魚がよって来て少女の白い足をつつく。

「やだ、くすぐったい」

 ダイアンは小さな笑い声と共に声をあげた。

「ナイチンゲールのようだな」

 その笑い声を耳にセリムは呟く。

「ナイチンゲール? 

 あたしが? 」

 ダイアンは鳶色の目をくるくると動かすと首を傾げた。

「う~ん、どっちかというと鵺の方が合ってるかも」

「鵺? 」

「知らない? 異国の妖魔。

 サルとトラ、狸と蛇を合わせた化け物。

 それでね、虎鶫の声で鳴くんだって」

 父とあちこちの国を渡り歩いている時に知った、国に災厄を振りまく異形の生き物。

 

 自分の吟じる声はけして人々の耳に安らぎを届けるものではない。

 むしろ使い方を一つ間違えれば災いを招きかねない。

 まさにそのとおりだと思う。

 

 それは、まだここに売られる前、師匠の老人に預けられた時に嫌というほどに叩き込まれた事実。

 

「今夜は行かないのか? 」

「ん、遅くなっちゃったし、ね。 ? 」

 男の言葉に首を傾げながらダイアンは何気なく答える。

「 ! ……って知ってたの? 」

 次いでもれる大きな声。

「あったりまえだろう? 

 あれだけ毎日のように出かけていて、誰にも気付かれないと思ったのか? 」

 呆れたように男は息を吐いた。

「嘘でしょ…… 

 じゃ、これからあたしどうしたらいいのよぉ…… 」

 ダイアンはうめくように口の中で繰り返す。

 ほとんど毎日同じ人間としか接触できない閉ざされた世界。

 こんなところにこもって居たら自分の腕はさび付いてしまう。

 それはダイアンが一番に危惧することだった。

「安心しろよ。

 まだ皇妃には知られてない」

 顔を青くするダイアンに男は言う。

「黙っててやるよ。

 その代わり…… 」

 男はダイアンに近寄るとそっと手を伸ばし、その顎を捕え上向かせる。

 ダイアンは奥歯をかみ締めると間近に迫った男の頬を張り倒した。

「人の弱みに付け込むなんて、さいってー! 」

 怒鳴りつけて男を睨むと距離を取る。

「凶暴な小鳥だなぁ…… 」

 男は苦笑いを浮かべるが後悔の念とかそう言った物はその顔から読み取れない。

「言ったでしょ? 

 あたし、小夜啼鳥じゃなくって虎鶫だって。

 だから、虎鶫よりも、本当の小夜啼鳥を探してね。

 セリムお兄様」

 にっこりと満面の笑みを浮かべると、ダイアンはその場所を後にした。

 

 

「なんだってあたしの訳? 」

 花の芳香のする湯を張った湯船に躯を沈めながらダイアンは呟く。

 そして湯の中で揺らめく手足にぼんやりと視線を向けた。

 

 肉付きの少ない細い手足。

 当然といえば当然だがそれは手足に限ったものではない。

 普通の栗色の瞳に珍しくもない鳶色の瞳。

 父親と旅をしていた頃は陽に焼けて黄色味掛かっていた肌はこの七年ほとんど戸外へ出ないせいで抜けるように白くはなったが、それだって取り立てて珍しいものじゃない。

 交易都市を中心として発達したこの国には沢山の人種が流れ込んでいる。白人との混血だって珍しくないからだ。

 顔つきだって、ここに居並ぶ誰と比べて一歩引けを取る平凡なものだ。

 

 自分が秀でているものといえば、皇妃の扱いと、あの妙な術を使えることくらいだ。

 

 ちょっかいを出されても正直困ると言うか…… 

 

 男の周りにはそれこそ咲き誇った大輪の花のような華やかな娘が無数押しかける。

 何も自分でなくなってと思う。

 

 ダイアンは首を傾げながら湯船の中に頭から爪先まで全身で潜り込んだ。

 

 

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