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1-1

 

 店の中は男たちの吐き出す水煙草の煙で充満していた。

 この大陸で最大の領土を誇るシガ帝国。その帝都、アクロネタン。

 荷馬車でにぎわう市場近くの喫茶場は終日こんな感じだ。


 その煙に乗って男が詞を吟じる声が朗々と広がる。

 まだ若いのに重みのある深い声だ。

 その声に男の年相応の青臭さの残る口調が重なり妙な味をかもし出している。

 

 それぞれがお互いの相手と商談を交わし、男の吟じる詩などほとんど耳に入れていない中、一人の若い女が何をするでもなく店の傍らに座り、それに耳を傾けていた。

 

 この国の風習として女は家に篭るものだから、その姿がこんな場所にあることがまず人目を引いた。

 着ている衣服がこの国特有のものであることから、どこか異国から渡ってきたとは思えない。

 顔にかけられていたヴェールでその顔は定かではないが、手入れの行き届いた指と髪、着ている物も自国の女達が普段きている衣裳で、そこそこの上等品。

 しかもヴェールの影や衣服の端から覗く肌は驚くほどに白い。

 明らかにどこか裕福な家の娘だと容易に察しがつく。

 

「よぉ、ねぇちゃん」

 その姿を目に留めて、いかにもガラの悪そうな男が一人女の前に立ち声を掛けた。

「暇そうだな。

 ちょっくら、オレに付き合ってくれねぇか? 」

 女はその声に顔をあげる。

「邪魔、しないでくれる? 」

 女はいかにも迷惑だと言った様子で男を睨みつけた。

 その間に詩人の吟じる声が止む。

「ほら、終わっちゃったじゃないの」

 それが悔しいといわんばかりに女はぶつなった。

「つべこべ言わねぇでこいよ」

 男は女の腕を掴みあげた。

「お客さん、駄目ですよ。

 その子に手を出したら」

 その様子を目に店の奥から主人が、目の前に来た詩人の男に手間賃を払いながら声をあげる。

 

「ディア、いけるか? 」

 次いで女に向かって訊いた。

「いいよ。何にする? 

 ってか、さっきのやっていい」

「ん、ああ構わんが…… 」

「ありがと」

 戸惑いながら言う男の返事を受け、店の奥から視線を戻すと女は傍らに置かれていたくたびれた竪琴を手に取った。

「小父さん、どいてくれない? 

 邪魔なんだけど、な」

 目の前に立ち尽くす男を臆することなくヴェールの奥から睨みつけ女は言うと竪琴を構える。

 

 張られた弦に指をかけると女は一つ大きく息を吸い込んだ。

 次いで煙でくもる室内に細い透き通った声が響く。

 先ほどの男の声とは正反対の、若い華やいだ声だ。まるで銀細工の鈴の音色のような華奢で、すぐにでもこわれてしまいそうな音に、何故か老齢の重々しさが混じる。

 

 同時に店のあちこちで商談をしていた男たちの会話が止まる。

 女の吟じている詩は、たった今前奏者の吟じていたものと全く同じだった。

 にもかかわらず、目の前には全く違う光景が広がるように思える。

 

 全ての者が口を閉ざした中で、ただ女の不思議な声だけが朗々と漂う煙に乗って漂い渡る。

 

 やがて、女の声が止むと同時に狭い室内をとどろかすほどの大きな拍手が鳴り渡った。

 

 女はその拍手が鳴り止まないうちに急いだ様子で立ち上がった。

「もう帰るのか? もう一曲やってけよ」

 常連らしい一人の男が声を掛ける。

「ごめん、小父さん。

 もう遅いからまたね」

 かすかに笑みを浮かべて女は答える。

「おい、ディア金! 」

 店の奥に寄らずにまっすぐ出口に向かう女に主人が声を掛ける。

「いつものようにつけとくわ、次にまとめてもらうから! 

 それより、例のオヤジ来た? 」

 よく通る声が店の入り口から奥までを駆け抜ける。

「ん、お前さんの言うところのぼろっちい爺さんとやつれた中年男だろ。

 見てないな」

「そ、ありがと。

 またお願いね」

「ああ、それとこれ! 」

 主人は手元にあった小さな薄い箱を女に向かって放り投げた。

「頼まれたもんだ」

「ありがと、小父さん。

 代金はツケから引いとくから」

 手の中に収まった箱の中身を確認して女は嬉しそうに笑いかけ、少女のような軽い足取りでドアを潜りとおりへ消えていった。

 

 大きな音と共にドアが閉まると、先ほど女が吟じる前にちょっかいを出していた男はこのとき自分の全身が粟立っていることに気付く。

「おい、今のは? 」

 粟立ったまままだ引かない腕を抱えて男は主人に訊く。

「あぁ? ディアのことか? 何か問題でも? 」

 店の主人は別に驚く様子もなく訊き返す。

「……なんなんだよ? あの女」

「さて? 」

 男の言葉に主人は首を傾げる。

「俺もよくは知らないな。

 二・三年前から時々ああして現れちゃぁ、居合わせた詩人の詞を熱心に聞いて帰り際にそれを復唱していくんだよ。

俺らも知ってるのは名前だけ、それも本名かどうか…… 」

「この国にゃ『呪歌詠い』が居るって言うじゃねぇか。

 ひょっとして、それじゃぁねぇのかよ? 」

「まさか」

 男の言葉に主人は笑う。

「確かに王宮に『呪歌詠い』が居るって噂はあるけどなぁ。

 あんな小娘のわけがないと俺は思うぜ。

 大体王宮のお抱え詩人様がこんなところに来て詠うわけがないじゃないか…… 」

 酒場の主人は苦笑いを浮かべた。

 

 

「よっ、と」

 王宮の一角の高い塀。

 植えられた周囲の樹木によって視界の悪いその場所を少女は慣れた様子で乗り越える。

 先ほど酒場を出た少女だ。

「ディアヌ様! 」

 衣服についた埃を払っていると頭上から怒気を含んだ声で名前を呼ばれた。

 顔をあげると侍女の顔がある。

「どこに行っていらしたんですか? 」

 ため息混じりに訊いてくる。

「えっと、あの…… 

 そのね、ちょっと勉強会に、ね…… 」

 少女はその鳶色の瞳で侍女を見上げてしどろもどろに答えた。

「何が『勉強会』ですか? 

 三日と空けずに毎晩毎晩…… 

 お勉強ならこちらでもできるはずです。どこよりも沢山の書物もあるんですから…… 」

「ん、でも。

 ここじゃできない勉強もあるのよね。

 新しいサーガ、知りたいし。

 あと巷で今どんなサーガがはやってるのかとか。

 でもほら、皇妃様、身なりの汚い人間城内に上げるの嫌がるし…… 

 それでもってお願いできる権限、あたしにはないもん」

 ダイアンは言う。

「ディアヌ様の言うこともわかりますけど…… 

 こんなことが皇妃様に知られでもしたらどうするんです? 

 おとがめだけじゃ済みませんよ? 」

「どうって、別に…… 」

 先に立って歩き出しながらダイアンはふと考える。

 そんなことまで考えたことなんてなかった。

「ま、何とかなるんじゃない? 」

 しれっと言う。

 最悪城から放り出されるくらいのところだ。

 それなら、それで願ったり叶ったり。

 確かに食べることと寝る場所には不自由しないけど、窮屈すぎるこの環境からは開放される。

「とにかく、湯浴みをお願いします」

 これ以上何を言っても無駄だと思ったのか、侍女は話題を変えた。

「お風呂? 」

「あたりまえです、この匂い…… 」

 侍女はそれが迷惑だと言わんばかりに袖口で鼻先を覆い、もう片方の腕を振り辺りの空気をかき回す。

「皇妃様は、煙草をたしなみませんからね。

 ひとわかりですよ」

「わかってる」

 言ってダイアンは足を止めると後ろをついてくる侍女にふいに向き直った。

 そしてその髪に手を伸ばす。

「何を! 」

 少女の予期せぬ行動に侍女は戸惑いの声をあげた。

「口止め料…… よく似合うよ。

 いつもありがとね、ジーダ」

 明るい笑顔で笑いかける。

 この侍女はこの笑顔に弱いことをダイアンはよく知っていた。

「何の悪巧みだ? 」

 ふいに掛かった声に視線を向けると若い黒髪の身なりのよい男が立っていた。

「殿下っ…… 」

 侍女は慌てて頭を下げる。

「べ、別に…… 」

 それに対してダイアンは頭を横に向けるとおもむろに視線を逸らす。

 侍女はともかくこの男に宮殿を抜け出したなんてことを知られるのは都合が悪い。

「別にはないだろう? 

 こんな時間にこんな場所で」

 男はため息をもらす。

「そんなの、セリムには関係ないでしょ。

 それよりセリムこそこんなところで何してるのよ」

「俺か? 

 俺はお前を迎えに…… 

 お前、呼んでもちっとも俺のベッドに来ないからこうして迎えに来たんだろ」

「そのお話なら、とっくに断ったはずよ」

 ダイアンは気に入らないとばかりに眉間に皺を寄せた顔を男にむける。

「何考えてんのよ? 

 このスケベ、色魔、常識なし! 」

 言うだけ言うとダイアンは男に背を向けて走り出した。

「これ! 殿下に向かってなんて口を…… 」

 侍女の声が追ってくるが、そんなの気にとめている暇はない。

 少なくとも今は、この男から逃げ出すほうが先だった。

 

 

「全く…… 」

 走り去る少女の背中を目に侍女は呟く。

 少女が手を伸ばした髪の辺りから何かの揺れる気配がした。

 手を伸ばすと硬くてひんやりとした金属の感触に触れる。

 髪に絡んだそれを抜き取ると異国渡りの白玉が揺れる華奢な櫛だ。

 それは金銀の溢れるこの場所では相当見劣りするものだが、巷ではなかなか手に入らない貴重品。

「こんな高価なものどうやって…… 」

 女は戸惑った。

 確かにここにはそう言った華美なものが溢れているとは言っても、まだ年若い一歌姫に自分の自由になるものなど少ないはずだ。

「貰っといてやれば? 

 それ、あいつが自分の稼ぎで買ったやつだし」

 ポツリと呟く男の顔を侍女は見上げる。

「殿下? 」

「ああ、俺があいつの跡をつけているのは内緒な。

 口止め料はあいつの身の安全ってことで。

 もしあいつが城外で怪我でもしたら黙認していたあんたのことも知れるわけだし…… 頼む」

 半ば脅しとも取れる言葉の後、バツが悪そうに男は顔をしかめる。

「どうやら俺たちの小鳥は籠には入れて置けないみたいだし。

 とりあえず放しても戻ってくる間は自由にさせてやってくれよ」

 少女の駆け去った方角へ視線を向けながら男は言った。

 

 

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