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「勝野君は引き続き、同じような事例を探してくれ。今度は全国まで範囲を拡げて。大変かも知れへんけど任せた」
「はい!」
美由希が綺麗に通る声で応える。張り切っているのがよく分かった。
「江口君は堺の警察署へ行って、身元不明者の身元の割り出しや。現状、高峰と村上の二人が堺市居住や。もしかしたら、堺市に住んどった被害者が他にもおるかも知れん。それぞれの遺体が遺棄された時期と近い時期に捜索願が出される人物を洗うて欲しい」
この捜査には江口以外にも数人の捜査員を割り当てた。下手すれば膨大な数の人物を洗い出さなければならなくなるかも知れないからだ。
――午後の捜査会議には三瀬本部長や前垣捜査一課長はもちろん、永野管理官も出席しなかった。その為、重松が完全に指揮を執る形になったのだ。
重松が考えていたのは、とにかく全ての被害者を割り出すことだった。既に浮かび上がっている三人だけでは、共通点が見当たらない以上、他の被害者の身元の割り出しが急がれた。
……だがそれは、暗闇の中で灯りを求めて、どこかにある燐寸を手探りで探すようなものだ。実際、残りの被害者が堺市に住んでいた確証などどこにも無い。ただその蓋然性が僅かに高いという程度に過ぎない。
重松は更に残る捜査員に村上・武原の周囲を徹底的に洗うことを指示した。燐寸が落ちている場所を示す地図を探すために……
「俺は佐久間君や豊中署の二人と一緒に高峰の周りを洗う」
佐久間の方に目をやると鼻の脇をボリボリと掻いている。いつものことながら、朝よりも無精髭が濃くなっている。
重松が一通りの指示を終えると、すぐに捜査員達が会議室から飛び出していく。捜査本部の正式な構成員となる鈴木と前嶋と違い、橋本署の加越と鎌田、そしてちょうど昼休みの間に到着した兵庫県警の面々はこれで解散となる。尤も、彼らとは捜査協力という形で情報の共有は続けられる。
「ほんなら行きましょか、警部」
佐久間はシャツの胸ぐらを右手で摘んで、赤い顔でパタパタとあおいでいる。小太り気味の佐久間にとっては食後の熱が暑くて堪らないのだろう。
「先に永野管理官に進捗状況を報告してからな。全国にまで拡がるかも知れんと知ったら、どんな目で見られるか……」
二人は永野の嫌味な目つきを思い出していた。
「ちょっと待っててや、すぐに報告してくるから」
重松が部屋を出て行くと、会議室には佐久間と豊中署の鈴木、前嶋の三人だけになる。これ見よがしに佐久間がスポーツ新聞を開くと、紙面同士の摩擦音が佐久間の耳を心地良くくすぐった。
――捜査会議ではまず豊中署の鈴木と前嶋が高峰の事件について報告した。もちろん重松達は既に聞いた話だ。それでも角度を変えて聴けば、何かしらの新しい着眼点が生まれるかも知れないと思っていたが、徒労だった。
続いて橋本署の二人が報告。やはり新たな糸口は見つからなかった。
そして兵庫県警の手塚刑事と岸部刑事が唯一兵庫県で発生した二〇〇八年五月の遺棄事件の報告を行った。その内容はこうだった――
遺棄場所は兵庫県養父市の氷ノ山の登山道脇の茂みの中。
遺体には灯油をかけられていた痕跡があり、激しく燃えたために殆ど骨が灰になっていた。但し、幸運にも一部の骨髄組織を採取することが出来た。そこからDNAを検出することに成功したが、データベースに残っている前科者とは一致せず。兵庫県内で行方不明になった人物を中心に失踪者の中から被害者を特定しようと試みられたが、有力な手掛かりがなく、現在でも身元不明のまま。
現場付近は登山道のため、一般の登山客の足跡に混じった犯人の足跡を判別するのも困難であり、夜遅くの犯行のため目撃証言も乏しかった。
重松にとっては今日になってから何度も聞いたような情報だった。
結局この被害者も居住地は兵庫県内ではないのだろう。管轄を跨がれるだけで大海原に裸で放り出されたように無力な警察組織――犯人はどこかで嘲笑しているのかも知れない。
青く透き通った夏空から届く太陽の陽射しが、フロントガラスを通して目を細めさせる。彼方の空には重厚感のある入道雲が盛り上がっている。
「どこで停めます? 高峰の周囲を洗うってことは、聞き込みでしょう?」
「まずは高峰の自宅や。奥さんに話を聞きに行こ。さっきアポは取っといたから」
「もうアポ取ったんですかいな。さすが警部、手回しが早い」
佐久間が流暢に口笛を鳴らした。重松も真似をして口笛を吹く時のように口を窄めたが、空気を切る音だけが微かに流れた。
「口笛よう吹けませんの? 簡単やのに」
「あかんなぁ……中学生の時リコーダーは得意やったんやけど」
「警部が中学生の頃て、リコーダーなんかあったんですか?」
「アホか! 石器時代の人間ちゃうねんぞ」
佐久間はへらへらと野太い笑い声を上げたが、そのせいで反応が遅れ、強めにブレーキを踏みしめる。皆の身体が前のめりに引っ張られた。
「おうおう、安全運転してくれよ。刑事がオカマ掘ったりしたらそれだけで叩かれるんやから」
「すんません……で、高峰の自宅っちゅうのは確か堺市の浅香でしたな」
重松は後部座席の鈴木に視線を送る。肯定を表す頷きが返ってきた。
「ほんならもうすぐ着きますわ。浅香言うたら、大阪市のすぐ南ですから」
――浅香の高峰の自宅であるマンションに到着すると、四人は高峰の部屋がある二階へと上がった。虫の死骸があちらこちらに散らばっていて、綺麗とは言い難い内観だったが、所轄で高峰の事件を担当していた頃に何度もこの場所を訪れているであろう鈴木と前嶋は、事も無げに目的の部屋へと重松達を案内した。
インターホンを鳴らすと、待ち構えていたかのように、すぐに扉が開いた。顔を出したのは薄幸そうな細面の女性だった。
「どうも、先程電話で連絡した大阪府警の重松です」
警察手帳を開くと、女性は大きな仕草をするでもなく、深くこうべを垂れた。
「夫のことで迷惑をかけて申し訳ありません。私は高峰秀之の妻の敏江と言います」
「まぁ奥さん、迷惑なんて言わんといて下さい。我々は貴方の旦那さんの命を奪った犯人を突き止めるのが仕事ですから」
夫を亡くした心労からなのか、それとも元からこのようなのか、それは分からないが、枯れ木の枝のようにか弱い印象だ。
普通事件が迷宮入りすると、親族は警察がまともに捜査をしたのかどうか疑ってかかり、酷いケースになると、有る事無い事マスコミに吹聴される場合もある。それはそれで困りものだが、これだけ下手に出られると、これまた妙な罪悪感を抱かずにいられなかった。
佐久間も重松に続き警察手帳を示して自己紹介をする。鈴木や前嶋は見慣れた顔といった雰囲気だ。
「中に入ってください。お話出来ることがあるかどうかは分かりませんけど……」
導かれるまま室内に入ると、床に雑誌が積まれていたり、食べかけのスナック菓子の袋が菓子箱に詰め込まれていたりと、生活感の溢れたどこにでもあるリビングだった。高峰が失踪するまでは、家族で慎ましやかに暮らしていたに違いない。
「冷たい物でもお出しします」
「あぁ、奥さん、どうぞお構いなく」
右の掌を広げて制止しつつ、緑色の座布団に胡座を掻きながら腰を下ろす。もちろん一種の儀式のようなものだ。制止されても敏江は人数分の麦茶をお盆に載せて運んで来た。
「すんませんなぁ」
露を纏ったグラスを持ち上げ、一口啜る。敏江は重松達の向かいに正座をした。
「今朝のニュースは見られましたか?」
「ええ、夫の事もまた言われてました……」
「この度、秀之さんが遺棄された事件も含めてたくさんの事件が浮かび上がりました」
「ニュースでは大阪で三件とか言うてましたけど……」
「実は府外でも同じような事件がありましてねぇ……。今のところ、七件見つかってます」
「な、七件ですか」
敏江は背中を丸めつつも、目を大きく見開いて重松を見やった。
「それ、全部同じ人がやったことなんですか?」
「まだ分かりませんけど、その可能性が大きいと思いますわ」
「はぁ……」
敏江は悲哀とも驚嘆ともつかない吐息を漏らした。自分の夫を殺めた犯人は冷酷無比の殺人鬼だった……。それを知った時人はこのような反応をするのかもしれない。
「そこでこうして参った次第です。事件当時も訊かれた事と同じ事を訊くかも知れませんけど、犯人を捕まえるために答えてくれはりますか?」
「はい……」
「まず、秀之さんは人に恨まれたりする事はありましたか?」
「私の知ってる限りでは、夫は人に迷惑をかけるような事はせえへん人です。殺されるような事は思い当たりません」
コンピュータでプログラムされたように、淀みなく唇が開閉され、意味を持った言葉として伝播する。恐らく幾度となくされた質問だっただろう。
「豊中の資材会社の倉庫で遺棄された訳ですけど、旦那さんの口からその資材会社の名前を聞いた覚えはありませんか?」
「いえ、私は全く聞いた記憶はないです」
「豊中と言って、思い当たる節は?」
「全然無いです、申し訳ありませんけど」
重松は苦笑を浮かべた。
「奥さんが謝ることやありません。思い当たる節が無いんやったら、犯人は適当に遺棄する場所を探しただけやと思いますから」
果たして気休めになったかは分からないが、敏江はずっと変わらぬ調子で弱々しいままだ。
「ほんなら、橋本はどうです? 和歌山県の橋本市です」
重松が訊くと、佐久間らにも緊張感が走った。今までの質問と異なり、これは初めて訊かれたに違いない質問だろうからだ。
「橋本? いや、特には」
「橋本に出かけた事とかありませんか?」
ぼんやりと思案していた敏江が首を傾げると、一縷の望みが消え去った絶望感に苛まれた。
重松と佐久間は目を合わせた。橋本という場所が何かしらの意味を持っている事を期待していたが、それは裏切られた。
「旦那さんの事をもうちょっと訊かせて下さい。趣味とか些細な話になりますけど」
重松は何かの手掛かりを掴もうと、もう一つの望みに賭けた。
高峰は派手好きだったという。それが村上や武原との僅かながらの共通点になりそうなポイントだった。
「旦那さんは割と派手好きやったらしいですな?」